第一話
辰の刻を少し過ぎた頃、源一郎は深川へと向かう道を歩いていた。
両国橋を渡り、本所を抜け、隅田川沿いに南へ下る。川風が頬を撫でて心地よい。梅雨入り前の初夏の陽気は、まだ暑さも穏やかで、江戸で最も過ごしやすい季節だった。
道の両側には、商家や職人の家が立ち並んでいる。格子戸から漏れる話し声、鍛冶屋の槌音、髪結いの看板が風に揺れる音。町は朝からずっと、人々の営みで溢れている。
「焼き芋ォー、焼き芋はいらんかねー」
天秤棒を担いだ芋売りが、威勢のいい声を張り上げる。
前世なら、こういう商売は「移動販売」とかいう括りになるのだろうな、と源一郎は思った。だが、ここではそれが当たり前の風景だ。豆腐屋も、魚売りも、野菜売りも、皆が声を張り上げて町を歩く。
便利な店舗がない代わりに、商品の方が客のもとへやってくる。これはこれで、理に適っている。
「兄さん、芋いらんかい?」
すれ違った商人が、源一郎に声をかけてきた。
「ああ──いらん」
源一郎は笑顔で応じた。前世では、見知らぬ人間に声をかけられることなど、あまりなかった。だが、江戸では違う。人々は顔を合わせれば挨拶を交わし、世間話をする。
それがこの町の温もりだった。
深川に入ると町の様子が少し変わる。
本所や日本橋に比べれば武家屋敷は少ない。その代わり、町人の家や商家が密集している。寺社も多く、冨岡八幡宮への参詣の人々が行き交っている。
前世の知識で言えば、深川は「下町」という括りになるのだろう。庶民の町。人情の町。そして──時には、裏社会とも繋がる町。
源一郎は懐から紙を取り出し、改めて確認した。
火付盗賊改方から与えられた仕事。深川の呉服問屋「丸屋」で起きた盗難事件の調査だ。
三晩連続で、倉から反物が盗まれている。鍵は壊されず、足跡もない。まるで壁を抜けたかのように、品物だけが消えている。
住民たちは、妖怪の類の仕業だと怯えているという。
「妖怪、ね」
源一郎は小さく呟いた。
妖怪なら、源一郎は幾つも知っている。だが、妖怪が盗みを働くとは思えない。
彼らは人と同じように、ただこの町で暮らしているだけだ。金や品物に執着するのは、人間の方だ。
ならば、これは──妖怪や怪異といった、あやかしに見せかけた人の犯行だろう。
そう推測しながら、源一郎は丸屋の前に辿り着いた。
§
丸屋は、深川でも指折りの大店だった。
間口が広く、二階建ての立派な構え。暖簾には「丸に屋の字」の紋が彫られ、黒く染め抜かれている。店に足を踏み入れると、店先には色とりどりの反物が並べられ、番頭や手代たちが忙しく働いている。
「いらっしゃいませ──」
店の者が声をかけようとして、源一郎の姿を見て言葉を呑んだ。武士だ、と気づいたのだろう。しかも、刀の二本差しを許された、身なりの良い武士。
「火付盗賊改方の者だが、主人はおられるか」
源一郎が静かに言うと、番頭らしき男が慌てて頭を下げた。
「これはこれは、お役人様。お待ち申し上げておりました。すぐに主人をお呼びいたします」
番頭は奥へと走り、ほどなくして、小太りの男が現れた。五十を過ぎた頃だろうか。丸顔で、人の良さそうな笑みを浮かべている。
「これは、お役人様。ようこそおいでくださいました。私が丸屋の主人、三郎兵衛と申します」
三郎兵衛は深々と頭を下げた。
「ああ、火付盗賊改方、渡辺だ。早速だが、盗みの件について聞かせてもらいたい」
「はい。では、こちらへどうぞ」
三郎兵衛は源一郎を奥座敷へと案内した。
部屋は広く、立派な床の間がある。掛け軸には山水画が掛けられ、花瓶には季節の花が生けられている。客を迎えるための、見栄えの良い部屋だ。
「どうぞ、お座りください」
三郎兵衛が座布団を勧める。源一郎は座り、三郎兵衛も向かいに座った。
「まずは、これを」
三郎兵衛が懐から小さな包みを取り出し、源一郎の前に置いた。
源一郎は包みを見て、内心で溜息をついた。付け届けだ。さしずめ「謝礼」とか「袖の下」とかいう類のものだろう。江戸では、役人に頼み事をする時、こうして金を渡すのが当たり前だった。
もちろん、不正行為に対する便宜や度を超した金品授受は表向きは禁じられている。だが、実際には社交儀礼の一環として役人の誰もがやっている。
それに……与力の収入だけでは生活が成り立たない。部下の面倒を見て、事件処理に私費を使い、武家としての体面を保つ。そのためには、こうした付け届けはどうしても必要だった。
源一郎は包みを手に取り、重さで中身を推測した。
一分金が数枚、といったところか。前世の価値で言えば、五、六万円といったところだろう。
多すぎず、少なすぎず。ちょうど良い額だ。
「……ありがたく、頂戴する」
源一郎は包みを懐にしまった。断れば、相手に失礼になる。それに、受け取られなかった相手も調べる気がないと考えて不安に思うだろうし、受け取る源一郎の懐も本当に寂しいのだ。
前世なら、こんなものを受け取るのは「汚職」とかいって問題になるのだろうが、この時代では当たり前だ。まあ、文化の違い、ということだろう。
三郎兵衛はほっとしたように表情を崩した。
「では、事件のことを聞かせてもらおうか」
「はい」
三郎兵衛は表情を改めた。
「三日前の晩のことでございます。朝、店に並べる反物を選ぶのに蔵に入った際、反物が十反ほど消えているのに気づきました」
「鍵は?」
「閉まっておりました。壊された様子もございません」
「ふむ。窓は?」
「閉めておりました。こちらも、壊された形跡はございません」
「足跡がないと聞いたが」
「はい。ございませんでした。倉の中も外も、人が入った痕跡が一切ないのでございます」
源一郎は頷いた。
「翌日も、同じことが起きたのか?」
「はい。二晩目も、反物が消えました。今度は十五反ほど」
「そして、三晩目も?」
「はい。昨夜も、また十反ほど……」
三郎兵衛は困惑した表情で続けた。
「私どもも、流石におかしいと三晩目には番人を立てて見張っておりました。ですが、番人は何も見ておりません。物音一つ聞こえなかったと申します」
「番人は何人立てた?」
「二人でございます。倉の前で、交代で見張っておりました」
「その番人は、信用できる者か?」
「はい。長年仕えている者どもでございます」
源一郎は少し考えた。
鍵を壊さず、窓も閉まったまま。足跡もなく、物音もない。番人も何も見ていない。
前世なら、これは「密室殺人」ならぬ「密室窃盗」と呼ばれるやつだろう。推理小説でよくある、あの手の仕掛けだ。
だが、この江戸では──人々は答えの見つからない不審な事柄に対して「妖怪の仕業だ」「バチが当たった」「何か阿漕な真似でもしたんだろう」と結論づける。
「周辺の住民たちは、妖怪の類の仕業だと言っているそうだな」
「はい……」
三郎兵衛は困ったように頷いた。
「番頭の与三郎が申すには、黒い影のようなものを見たと……」
「黒い影?」
「はい。二晩目の晩、倉の近くを通りかかった際、ふと何か影のようなものが横切ったように見えたと」
「それで、妖怪だと?」
「はい……私どもも、そんなことは信じたくないのですが……」
三郎兵衛は額の汗を拭った。
「もし本当に妖怪の仕業だとしたら、どうすればよいのでございましょう……」
源一郎は可笑しくなって笑ってしまった。
「安心しろ。妖怪は盗みなどしない」
「え?」
「妖怪に金は要らぬ。反物も着ない。盗んだところで、何の意味もない」
源一郎は断言した。
「これは人の仕業だ。妖怪に見せかけているだけのな」
三郎兵衛は目を見開いた。
「し、しかし……鍵も壊さず、足跡もなく、どうやって……」
「それを調べるのが、俺の仕事だ」
源一郎は立ち上がった。
「では、倉を見せてもらおうか」




