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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第二十七話


 石段を下りる途中で、背後から軽い足音が聞こえた。


「兄さん、ちょいと待ってくれ!」


 振り返ると、神猿が木から木へと飛び移りながら追いかけてきていた。源一郎は立ち止まり、神猿を待った。それから頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。余計な騒ぎを起こしてしまって」

「気にすることねぇ。兄さんは間違っちゃいねぇよ。あの野郎、絶対何か企んでやがった」


 神猿の声には、確信があった。


「兄さん。ウチの宮司が気ぃ悪くさせて済まなかったな……あの野郎、信仰心はあるんだが自尊心も一端でよ。ちっと前に身内で問題起こした奴がいて、過敏になってんだわ……あんだけ必死になって火盗改を追い出そうとしてんのは、祭り前に腹の内を探られて恥晒したくねぇってことなんだろうさ」

「そうでしたか」


 神猿が言っているのは兼嗣のこと──奉納金を盗み、神職を辞したことを言っているのだろうか。源一郎は、神猿の言葉を静かに受け止めた。


 石段の途中で立ち止まり、木から飛び降りた神猿と並んで立つ。境内での緊張が嘘のように、源一郎は落ち着きを取り戻していた。いや、腹が立ったのは確かだったが、威圧はちょっとした意趣返しのつもりだったのだろう。


「宮司の方は兄さんみたいな力がねぇから、娘の巫女の方に託宣入れて神猿様がお怒りだって伝えとくからよぉ……何かあった時は本当に頼むぜ、兄さん」

「ええ、心得ています」


 神猿が最後に、念押しするように言った。


「じゃあ、またな兄さん」

「はい。では、今日はこれで失礼いたします」


 源一郎はもう一度、神猿に礼をすると石段を下りていったのだった。


 §


 役宅に戻ると、源一郎はまず与力部屋に入り、今日の出来事を整理した。


 祭りを前にして増えた舟。昨夜のお鈴からの報告──茶屋で見掛けるようになった不審な客。神猿からの警告。境内で見掛けた不審な男の尋常ではない様子──。


 全てが繋がっているのか、ただの偶然なのか……今の時点で判断はできない。


 だが、源一郎にはこれらが全て、何かしらの企みの前触れにしか思えなかった。


 考えながら書付に今日の出来事を記した。火付盗賊改方頭取である平蔵に報告する際の資料となるのだ。書き終えると、源一郎はその足で平蔵の執務室となっている書院へと向かった。


「失礼いたします。渡辺です。ご報告したいことがあります」

「入れ」


 襖を開けると、平蔵は書類を前にしていた。源一郎が部屋に入り、平蔵の前に座る。


「日枝神社の警備について、いくつか不審な動きがありました」


 源一郎は書付を平蔵に差し出した。


「溜池の舟が増えていること。密偵からの報せで、茶屋に不審な客が増えていること。──それと、日枝神社の神猿様から警告がありました。境内に嫌な気を持つ者が入って来ていると」


 平蔵は書付に目を通していたが、その報告を聞き目を鋭くした。


「神猿というと、日枝神社の神使が、か」

「はい。不審人物だとして、その者を捕らえ尋問しようとしたのですが……」


 源一郎は、境内での騒ぎを説明した。宮司と寺社奉行付きの堀田、町奉行所与力の木村に止められたこと。散々に火付盗賊改方を侮辱されたこと。最後に怒気を発して、脅して帰ってきたこと。


 平蔵は源一郎の話を黙って聞いていた。


「……申し訳ございません」

「お前が怒るのも無理はない。それだけ言われれば、俺でも怒る」


 源一郎が頭を下げると、平蔵は深く息を吐いた。


「だが、相手が悪かったな」

「はい」

「寺社奉行と町奉行所は、火盗改を快く思っていない。俺たちが領分を飛び越えて強権を振りかざして動くことを、いつも警戒している。特に、日枝神社は将軍家縁の祈願所だ。天下祭ともなれば、寺社奉行も神経を尖らせるだろう」


 平蔵は書付を文机に置いて、天井を仰いだ。


「……まず間違いなく、宮司が何か言ってくるだろうな」

「しかし、不審な動きは確実にあります。神猿からの警告も……」

「分かっている」


 平蔵が言い、源一郎を見た。その目にある理解と信頼の色は薄れていない。


「お前の目に見えるものを俺は否定しない。神に仕える神猿が警告したのなら、本当に何かあるんだろう」

「信じていただき、ありがとうございます」

「うむ……だが世間は違う。神猿の警告を理由に動くことはできん。それは、お前も分かっていることだろう」

「はい」

「だから──様子を見ろ。静かに、確実に。まずは証拠を掴んでみせろ。そうすれば動ける」


 平蔵の言葉には、源一郎への期待が込められていた。それに源一郎は迷うことなく頭を下げた。


「かしこまりました」

「祭りまであと三日だ。何が起きてもおかしくない。備えを怠るな。では、行ってよし」


 源一郎はもう一度深く一礼して、部屋を出た。


 §


 しかし、事態が急転直下となったのは、その翌日のことだ──。源一郎が役宅に出仕すると、すぐに平蔵から呼び出された。


「渡辺、来い」


 平蔵の声には、どこか重く鋭いものがあった。源一郎は平蔵の書院へと向かった。


 襖を開けると、平蔵は書類を前にしていた。その表情は険しく、眉間に深い皺が刻まれている。だが、その目には──どこか愉快気な光があった。


「やはり、来たぞ」


 平蔵が深く息を吐いた。


「日枝神社の宮司が、寺社奉行を通して御老中──松平様に嘆願したそうだ」

「嘆願、ですか」

「火付盗賊改方の者が神域に立ち入るのは穢れが及ぶ、天下祭に相応しくない、とな」


 平蔵の言葉に、眉をひそめていた源一郎は驚愕した。まさか、そこまでやるとは、と。


「御老中は何と?」

「山王祭の期間中、赤坂一円で火盗改の行動を制限するよう命じてきた」

「そんな馬鹿な……」

「加えて、お前が無実の信者を脅かしたとも訴えている」


 その訴えに源一郎は表情を引き攣らせる。


「山王の信仰者に乱暴を働き、神域で騒ぎを起こした。祭りの準備を妨害し、威圧で宮司や信者らを脅かした、と」


 言葉を失ってしまう。だが、当の平蔵の口元は──笑っていた。


「お前はいったい何をやらかしたんだ?」


 平蔵のその声も、やはり愉快気だった。寺社奉行所の堀田も、町奉行所の木村も、そして宮司までもが腰を抜かしたという情報が、別口で平蔵の耳に入っているのだろう。火盗改の与力が、格式ばった頭の固い連中を威圧のみで恐怖させた──それは、平蔵にとっては痛快な話でもあるのかもしれない。


 だが、一つ咳払いすると、すぐに平蔵の表情は真剣なものに戻った。


「此度のことで寺社奉行も宮司の意見を汲み、神事に関しては神職の意向を尊重すべきだと老中に上申し、認められることと相成った」


 平蔵は続けた。


「お前の赤坂廻りの役目は──解除となる」


 源一郎は拳を握った。昨日の騒ぎ。そして、源一郎が宮司の娘である千鶴に神官を辞した兼嗣のことを聞いたことを耳にしたか。宮司は自らの腹の内を探られまいと源一郎を遠ざけようとしている……兼嗣という身内の元神官の醜聞を隠すために。


「し、しかし、不審な動きがありますが」


 源一郎は思わず声を上げた。それは悪事を見逃せないという危機感によるものだ。


「神猿からの警告、増えた舟、茶屋の不審な客……全て、何かの企みの前触れでは。このままでは──」

「分かっている」


 平蔵が静かに言った。書付を手に取り、改めて目を通す。源一郎が昨日提出した報告書だ。溜池の舟。茶屋の不審な客。萬屋での盗み聞き。そして、源一郎だけが視える神猿からの警告──妙な参拝者。


「これらの報告をざっと見る限り──複数人による計画的な、規模の大きい窃盗団の下調べのようにも思える」


 俺の経験上、と平蔵が言い、源一郎は眉根を寄せた。確かに、それぞれの情報を結びつければそう考えるのが自然だ。


「大規模窃盗……」

「ああ。溜池の舟は侵入と逃走経路の確保。舟を一つ二つ増やした所で、誰も気づきはしまい。茶屋や萬屋での盗み聞きは周辺の様子見と情報収集──もしくは、何かを見張っているとも考えられる。境内での観察は警備状況と現場の確認。これらは全て組織だった動きだ」


 平蔵の目が鋭くなる。


「一人や二人の盗賊ではないな。極力怪しまれないよう、持ち回りで周囲の様子見を交代しているとすれば……十人、あるいはそれ以上の規模の集団が動いている」


 源一郎は考えた。確かに、これだけの下準備をするということは、相当な規模の盗みを企んでいる……。祭り。盗み。神社。源一郎はハッとした。


「──狙いは、もしや祭りの奉納金ですか……?」


 源一郎が言うと、平蔵はニヤリとした。


「それもただの奉納金じゃない。その中には幕府から支出される莫大な祭礼費も含まれる筈だ」

「祭礼費……しかし、大口ともなると金は通常、帳面上で処理されるものでは?寄進はともかく、祭りに関わる費用を現金で納める利点がないように思えるのですが……」


 祭礼費──幕府の財政を司る勘定所が予算より支出する祭礼の運営費だ。天下祭である山王祭には幕府からの支援金が入る。神輿行列の維持、神社施設の修繕など、祭りの根幹に関わる費用がこれにあたる。


「平時ならばそうだろう。だが、天下祭である山王祭は事情が違う」


 平蔵は文机に肘をつき、源一郎に向き直った。


「日枝神社の格を知っているな」

「はっ。神君、家康公が江戸入府の際に崇敬されて以来、将軍家の産土神──赤坂日枝山王大権現は将軍家の守護神、江戸の鎮守として祀られてきました」

「そうだ。だからこそ──日枝神社の祭礼、山王祭への寄進は、他の寺社とは扱いが異なる面がある」


 平蔵の声が低くなった。それからまだ若く、金の流れを把握出来ていない源一郎に対し、平蔵は教授するように語り始めた。


「将軍家の産土神を祀る神社へと金穀を山ほど集めることは、幕府にとっても権威を示す事になり、寄進する大名たちにとっても幕府──ひいては将軍家への忠誠を示す絶好の機会となる。それ故に、為替という帳面上のやり取りはあまり好まれん」

「現金で集めた方が広く権威を示せると」

「ああ、そうだ。そういった思惑もあって、各所から集まった寄進と幕府からの祭礼費は、まとめて神前に奉納されるのが慣例となっている。つまり──」

「──祭りの当日、神社の蔵には莫大な現金が集まることになる」


 源一郎は眉を寄せた。


 それに加えて、腕組みした平蔵は言う。大名からの寄進は寺社奉行を通さなければならない。お前が日枝神社で遭遇した寺社奉行方と町奉行方は、集められた寄進を運んでいた可能もあるな、と──。


 平蔵は一度言葉を切り、源一郎を見据えた。


「そして、天下祭には将軍家からの御寄進がある。上様御自ら山王大権現への御寄進を決められたそうだ。その額──一千両」


 源一郎は息を呑んだ。


 ──一千両。


 将軍家からの直々の寄進。それは単なる金銭ではない。将軍家と日枝神社との結びつきを天下に示す、まさに威光そのもの。


「幕府からの祭礼費と大名たちの寄進を合わせれば、ざっと三千両。そこに将軍家からの御寄進が加わる。合わせて四千両──いや、今年はそれ以上になるかもしれん」


 四千両──源一郎は眉を寄せた。途方もない額だ。


「もしも本当に窃盗が起こるのなら、十中八九、狙いはそれだ。幕府からの祭礼費用、大名たちからの奉納金、そして将軍家からの御寄進──全てが神前を通して一箇所に集まる祭りの夜こそ、盗賊にとって最大の好機となる」


 平蔵の目が鋭くなった。


「もしもこれらの御寄進が盗まれれば──それは単なる窃盗ではない。幕府への反逆、将軍家への不敬にも等しい大罪だ」


 平蔵は書付を置いた。その目は、既にこれから起こるであろう事件を予期しているかのようだ。


「ですが、それほどの金を蔵に置いておくのですから、警備もそれなりに置く筈では」

「今現在は町奉行所が警備を担っている。蔵には番人を昼夜交代で配置し、錠前も厳重だろう」


 平蔵は鼻を鳴らした。


「だが──本来、警備の一角となる火盗改が外された。しかも、お前の報告にある不審な動きを、寺社奉行方も町奉行所方も把握しているとも思えん。祭りの空気に浮かれ、本来の役目を疎かにしている」


 平蔵の声には、苛立ちと苦々しさが滲んでいた。


「だが──それも御老中の判断だ。表向きは従う他ない」


 平蔵は源一郎を見た。反対に、では、どうするのかと源一郎は視線に意思を込める。


「独自に調べるのは構わん。だが、表には出るな。静かに動け」

「はい」

「そして──俺が指示するまで手を出すな」


 その突飛な命令に源一郎は思わず聞き返した。


「手を出すな、ですか?」

「そうだ。見張りに徹しろ」


 平蔵の声には、その目には、強い意志が込められている。


「──裏御用。お前に今から与える役目は、盗賊を捕らえることではない。窃盗の手口を見極めること。盗品の隠し場所を突き止めること。盗賊団の潜伏場所を特定すること。そして、その素性を明らかにすること。それを最優先にしろ」


 源一郎は平蔵の意図を理解した。


 盗賊の実行犯を一人や二人捕らえたところで、組織の全貌は分からない。むしろ、盗みを実行させ、その後を追うことで、盗賊団の拠点や仲間、そして黒幕までもを炙り出す──それが、平蔵の狙いだろう。


「承知いたしました」


 源一郎は頷いた。


「赤坂に潜り込ませている密偵はそのまま残しておけ。情報収集を続けさせろ。いや、むしろ火付盗賊改方は山王祭の警備から手を引いたと情報を流せ。そして、お前は静かに見張り……盗賊団が動き出すまで、じっとその時を待て」

「はっ!」

「恐らく前触れとして警備の撹乱が起こる。惑わされることなく堪え。盗みが実行されたら、すぐに追うのだ。捕らえるのはその後で良い。まずは、全容を掴む必要がある」


 源一郎は平蔵の目を見てブルリと背筋を震わせた。平蔵の言葉には火盗改の頭取としての冷徹な判断があった。


「ただし──盗みを黙認したことは誰にも悟られるな。いいか、もしもバレれば、俺は庇えん。火付盗賊改方の立場もある。それは承知しておけ。人手が必要になるならば、信頼出来る者に限定しろ」

「はっ」


 源一郎は頭を下げた。


「では、上手くやれ。行ってよし」


 源一郎は平蔵の書院を出た。襖を閉める音が、静かに響く。


 廊下を歩きながら、源一郎は拳を握った。役目を外された。だが、その代わりに新たな役目を与えられた。平蔵の命令は明確だった──見張りに徹しろ。盗賊団の全貌を掴め。


 源一郎は決意した。徹底的に調べてやろう。そして、何が企まれているのか突き止める。盗賊団の手口。隠し場所。潜伏場所。そして、その素性。全てを白日の下にさらす──。


 山王祭まで、今日を含め、あと三日。


 源一郎は役宅を出た。空を見上げると、雲が流れていく。祭りが近づくにつれ、江戸の町は華やいでいく。だが、その裏で──何者かが動いている。急がねばならない。


 源一郎は足を速めた。


 まずは、お鈴に会わなければ。そして、引き続き情報を集めさせる。信頼出来る者も集めなくてはならない。


 源一郎の目が、鋭くなった。

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