第二十六話
お鈴が茶屋に入り数日が経ち、山王祭まであと四日という頃──その日も源一郎は赤坂へと向かっていた。
昨夜、お鈴から報告を受けていたのだ。萬屋に不自然な客が増えている。日枝神社周辺の情報を集めているようだ、と。
それを確かめるため、源一郎は溜池へと向かっていた。
朝陽の光を受けて溜池の水面がキラキラと輝いている。池の周辺には既に人の姿が見える。早くから開いている料理茶屋もあるようだ。
ふと──源一郎は溜池に目を向けた。
溜池に浮かぶ舟の数が増えている──。以前までは、この溜池には数隻の舟しかなかった。だが、今日になって十隻近くの舟が浮かんでいる。これまでになかった変化だ。
源一郎は近くにいた老人に声をかけた。
「すまない、ご老人。少し聞きたいことがあるんだが」
「えぇ、何だね、お侍様?」
老人は丁寧に答えた。火盗改の与力と分かれば、皆、恐れてしまう。源一郎は正体を明かすことなく、世間話をするように尋ねた。
「ここの舟はこんなに多かったか?」
「ああ、この舟ですか。そういえば、増えたのはここ数日ですね。別の場所から運んできたんでしょう。毎年この時期になると、舟遊びをする見物客のために用意されるんですよ」
「なるほどな……ありがとう」
源一郎は老人に礼を言った。これが例年のことならば舟が増えたのは不自然ではない。だが、これを使えば日枝神社の裏に直行するルートになる。念のため警戒しておく必要があるだろう。
源一郎は溜池沿いを歩き、近くの茶屋に入った。ここは売春などを行っていない、萬屋とは別の真っ当な茶屋。団子や力餅が美味いという評判の賑わいのある店で、すでに多くの客が入っていた。
「いらっしゃいませ」
茶屋娘が出迎えた。年の頃は二十代半ばくらい。愛想の良い明るい笑顔だ。
「煎茶と団子を一つ」
「はい、かしこまりました!」
茶屋娘が奥へと消え、源一郎は周囲を見渡した。客は数人いる。商人風の男たち、浪人らしき者たち、そして若い娘二人組──それぞれが楽しそうに談笑している。
茶と団子が運ばれてきた。茶の香りを楽しみながら、周囲に視線を巡らせると──店の外の床几台に座る二人組が妙であることに気づく。
年の頃は三十前後。町人風の装いで、特に目立つところはない。だが、その男達は会話をするでもなく、時折茶を口に含むだけでただ席に座っている。僅かな違和感──。他の客の会話に聞き耳を立てているようにも、視線を動かして店の外や他の客を観察しているようにも見える。
源一郎はその男の様子を気取られないように観察した。だが、男はそれ以上の目立った動きをすることはない。
茶屋娘が源一郎の席の近くを通った際、小声で尋ねた。
「あの男は、よく来るのか?」
源一郎が視線で示すと、茶屋娘は少し困ったような顔をした。
「ああ、あの方ですか。最近よく来るんですよ。でも、あまり注文もしてくれないし、あぁして、しばらく座っているだけで……」
「他にもそういう客はいるか?」
「はい。最近、ああいうお客様が増えたんです。妙ですよね、何がしたいのか分かりませんが……」
茶屋娘は首を傾げた。
「そうか。ありがとう」
源一郎は団子を食みながら考えた。奇妙な客。増えた舟。そして──萬屋でも同じような客がいるとお鈴から報告を受けている。
これらは全て、何かしらの企みの前触れではないのか──。事実は事が起こらなければ分からないが、警戒することに損はない。
源一郎は茶を飲み終えると、店を出た。
§
源一郎は赤坂御門を通り、日枝神社の石段を登った。本所から出仕して、赤坂近辺、日枝神社を見回るのがここ最近の源一郎のルーティンとなっていた。
朝の境内は清々しい空気に満ちていた。神職たちが箒で境内を掃いている。祭りの準備も着々と進んでいるようだ。神輿の飾り付けがさらに進み、華やかさを増している。幕が張られ、提灯が吊るされ、日に日に祭りの雰囲気が高まっていく。
源一郎は境内を歩きながら、いつものように本殿前、奉納品蔵、裏手の道──警備の要所を改めて確認した。
そして、溜池での舟のように、神社境内においても変化があった──山王祭まであと数日となり、神社の随神門が開いたままになっていた。通常、夜は門を閉めているのだが、祭りの準備や参拝で人の出入りが多いため、慣例として開けたままにすることになっているのだと聞いていた。
──それは、警備上の隙になりうることだ。
それから、源一郎は参拝客の様子も観察した。
祭りが近いためか参拝客が増えている。朝だというのに、既にたくさんの参拝客がいた。商人風の男、老婆、若い女──その属性は多種多様で、皆、明るい表情で参拝している。だが、その人の群れの中に一人混じって、妙に落ち着かない様子の男がいた。
年の頃は三十前後か。町人風の装いで、特に容姿に目立つところはない。だが、その男は参拝するでもなく、神輿を見るでもなく……境内を観察するように見回している。蔵の方を見たり、裏手の道の方を見て回ったり──まるで、その動きは何かを確認しているようにも見えた。
源一郎がその男を離れた場所で観察していると、背後から声がした。
「──よう、兄さん」
驚いて振り返り、頭上を見ると、そこには神猿がいた。日枝神社の神使である神猿だ。木の枝に座り、源一郎を見下ろしている。
「これは、御無沙汰しております」
源一郎は小声で答えた。周囲に人がいないことを確認してから、木から降りてきた神猿に近づく。
「──なぁ兄さん。前に神域で嫌な気が流れてるった話したの覚えてるか」
神猿が唐突に言った。源一郎は思い出した。神猿が神域で焦燥とか、苦痛とか、鬱屈とした空気が混じり漂うことがあると言っていたことを。
「はい。気色悪く、確か鬱陶しいと仰っていたような」
「そうだ、それだ。どろっと甘くて、苦い、臭ぇ匂いがしやがる。最近、そういう嫌ぁな気を持つ野郎がどんな奴なのか気づいたんだがよ。妙なんだ」
……匂い。神猿は顔をしかめながら言った。
「妙、とは?」
「それがよ。アイツら普通の町人風の格好してるんだが、山王にこれっぽっちも信心が向いてねぇ。明らかに何か別の目的で来てやがる」
源一郎は眉をひそめた。
「それは……どのような様子でしたか?」
「境内をじろじろ観察しててよ。蔵の方を何度も見てやがった。それに、裏手の道の方もな」
神猿の言葉に、源一郎の警戒心が高まった。
「いつ頃からか、分かりますか?」
「ここ数日ってとこだ。それにな、『匂い』がすんのは一人じゃねぇ。何人も来てやがる。そいつら皆して、同じような気配を持ってやがんだ。ったく、気色わりぃったらねぇぜ」
源一郎は考えた。何か目的を持って、ここに来ている──?
「もしや……今も境内にいますか?」
「おう、いるぜ。ほら、あそこの──」
神猿が示した方を見ると、先ほど源一郎が観察していた男がいた。
「……あの男ですか」
「そうだ。嫌ぁな気がぷんぷんしやがる」
源一郎は男を見た。男は相変わらず境内を散策しながら観察している。特段に不審な動き、というほどでもない。だが──何かが引っ掛かる。茶屋でも感じたような、言いようのない違和感がある。
「分かりました。少し話を聞いてみます」
「おう、頼んだぜ兄さん」
源一郎は神猿から離れ、男の方へと近づいた。男は源一郎に気づいていないようで、まだ蔵の方をじっと見ていた。
「おい、少しよいか」
源一郎が声をかけると、男はびくりと肩を震わせた。振り返った顔には、 明らかな動揺の色がある。……妙だ。視線は合うが、目の焦点が合っていない?それに瞳孔が収縮し、汗を流している。明らかに通常の状態ではない。
「な、何でしょう……」
「……火付盗賊改方の者だ。お前に少し聞きたいことがある」
源一郎がそう言うと、ただでさえ悪い男の顔が土気色になった。
「か、火盗改……」
呟き、男が後ずさりする。その動きに視線を鋭くする。火盗改と聞いただけでこの反応──疚しいことがないのに逃げようとするなど、何かを隠していることは明らかだ。
「お前、何を隠している──?」
源一郎が低く問うと、男はさらに動揺した様子を見せた。その揺れる視線は源一郎ではなく、虚空を見ている──。
その瞬間、男は突然走り出した。境内を駆け抜け、表の参道の方へと逃げようとしている。
「待てッ!」
源一郎は追いかけた。男は必死の形相で走る。参拝客の中を縫うように逃げる男を追う源一郎。道行く人々が驚いたように道を開けた。
「おい、どこへ行くつもりだ!逃げるなッ!」
男の足は早いが、源一郎はもっと早い。追いつくのは直ぐのことだった。
「お前……何故逃げた」
男の腕を掴み、低く問うた──その瞬間。
「これはいったい何の騒ぎですか!」
背後から怒声が響いた。振り返ると、そこには神官の装束を着た男が数人立っていた。その中心にいるのは、日枝神社の宮司だ。加えて、その傍らには──身なりの良い紋付袴姿の武士が二人。
「あなたは……確か、火盗改の渡辺殿か。この神域で何をしていらっしゃる」
宮司の声は冷たく、険しい。男を掴んでいた源一郎は構わずに引き倒し、地面へと押さえつけた。
「この者が不審な動きをしていたので調べようとしていました」
「不審な動きですと?何を根拠にそのようなことを」
宮司が怪訝そうな顔をした。宮司を取り巻く神官たちも源一郎を険しい顔で見ている。
「その者は山王への参拝客だろう。それを無法にも取り押さえようとするとは、一体どういうつもりだ」
側にいた武士が前に出た。年の頃は四十前後。厳しい目つきをしている。
「失礼だが、あなたは?」
「……私は寺社奉行吟味物調役、堀田だ。そちらは南町奉行所与力の木村殿」
寺社奉行吟味物調役を名乗る武士が言った。寺社奉行とは全国の寺社に関わる事柄を担当する職掌。その吟味物調役とは法律や古文書、宗派に関する深い知識を持ち、訴訟を取り扱う行政・司法の専門家──実質的に、寺社奉行を動かしているブレーン。寺社専門の裁判所調査官のようなものだ。
「吟味物調役……」
「そうだ。火付盗賊改方の役人殿。この寺社地は寺社奉行の管轄であることは、ご存知のはずだが?」
堀田の言葉には、明らかな皮肉が込められていた。
「無論、承知している」
源一郎が答えると、南町奉行所の木村と呼ばれた与力が嘲るような口調で言った。
「承知しているのならば、なぜ我々に何の報告もなく、勝手に参拝客を取り調べようとする?火盗改方は、そのような乱暴な手法で名を馳せてしまっているようだが」
木村の言葉に、源一郎は拳を握った。確かに、男は特に何もしていない。ただ境内を見ていただけだ。だが──神猿の警告がある。この男は何かを隠している──。それは間違いないことだ。
「お騒がせしたことを詫びよう。しかし、この者を尋問する権限が私にはある」
「権限?権限があれば何をしても良いとでも仰るのか?」
宮司が鋭く言った。
「ただ蔵を見ることが罪になるとでも言うのか!祭りが近いのだ。参拝客が蔵や神輿を見るのは当然のことではないか。それを咎めるとは、一体どういうおつもりかっ」
宮司の言葉に、堀田が続けた。
「火付盗賊改方は、確かに不審人物を未然に取り締まる権限を持つ。だが、ここは寺社地だ。神事に関わることで何か不審なことがあれば、まず我々寺社奉行に報告し、許可を得るのが筋ではないのか」
「然り」
木村が言った。確かに、奉行所は火付盗賊改方に厳しい目を向けることが多い。しかし──。
「火盗改方は凶悪な下手人を追うのが本分だろう。神域で勝手な振る舞いをされては困る。それとも何か?火盗改方は寺社奉行の領分を無視して良いとでも思っているのか?」
木村の言葉には、明らかな侮蔑が込められていた。
火付盗賊改方は、その苛烈な取り締まりで知られている。疑わしい者を容赦なく検挙し、時には誤認逮捕も多い。町人たちは町奉行を『檜舞台』と呼んだが、火盗改を『乞食芝居』と蔑んだ。それは乱暴で、品がなく、無法者のような取り締まりをする──そういう嫌われる世評があったからだ。
そして、寺社奉行所は神社仏閣を管轄する職掌。火盗改とは別系統にあり、より格式を重んじる。町奉行所を含め、火付盗賊改方との間には、しばしば軋轢があった。
宮司を取り巻く神官たちが、源一郎を睨んでいた。参拝客たちも、騒ぎに気づいて集まってきた。
「そこな者を放すがいい」
捕まえた男は、源一郎によって地面に押さえつけられたまま──。
「このような野蛮な手法で、山王への参拝客を脅かす。これは由々しきことだ」
宮司が続けた。その口調は昂るように徐々に厳しく、非難に満ちてゆく。
「折角の祭りを台無しにするおつもりか。天下祭ですぞ。山王日枝神社は将軍家の祈願所ぞ。それを穢すとは──」
「穢す、だと──?」
源一郎が呟き、堀田が宮司の言葉を継いだ。
「──そもそも、火盗改方のような者が神域に立ち入ること自体、『穢れ』ではないのか。盗賊を追うような者が清浄な神域に足を踏み入れることが、どれほど不敬なことか」
堀田の言葉に、神官たちが頷いた。
「その通りです」
「火盗改など、神域には相応しくない」
「穢れが及びます」
神官たちの言葉が、源一郎に浴びせられる。周囲に集まった参拝客たちの視線も、次第に源一郎を非難するものに変わっていく。
「──その者は火盗改方に疑われたこと、よほど不安だったのだろう。だから、逃げたのだ」
木村が腕を組んで、もっともらしく言った。
「火盗改方の頭領殿には、我々から申し上げておこう。貴殿らのような者が神域をうろつくことは、天下祭に相応しくない、とな」
「ああ、それが良ろしかろう」
宮司が頷いた。その声はさも良い考えであると、内心の声を映すように弾んで聞こえる。
「寺社奉行を通して御老中にも伝えよう。火盗改の乱暴な振る舞いで神域が穢され、祭りの準備が妨害されている、と」
そして……散々に言われ続けた源一郎は──。
一切の表情を消すほどに、完全にブチギレていた。
「好き放題言ってくれる……人の職分に口出しすると碌なことにならんぞ──」
源一郎は男を放し、立ち上がった。男は這い蹲ったまま……怯えた表情で源一郎を見上げている。
源一郎の声は低く、静かだった。だが、その身から発せられる怒気は──尋常ではなかった。
場の空気が一変していた。
武士とは言え、職分は文官である堀田や木村、宮司とその取り巻きの神官たちが蹈鞴を踏んだ。離れた場所で様子を見ていた周囲の参拝客すら、源一郎の放つ異常な怒気を感じ、例外なく蛇を前にした蛙のように身動きを止める。
それは──人間の放ってよいものではなかった。
人型の鬼──バケモノ。渡辺綱の血を引くと言われる、鬼切りの血。五つの頃から人ではない者たちを視、友とし、剣の研鑽を重ね、二十年以上も共に生きてきた男。
渡辺家家伝、鬼切流の正当継承者。本気を出してしまえば、何人も恐れぬ、何人も止められぬ、何人たりとも太刀打ちできぬ武人。人の姿をした、鬼切りの鬼。その片鱗が露わになっていた。
堀田の顔から血の気が引いた。木村は後ずさりし、神官たちは息を呑んだ。参拝客の何人かはそれだけで腰を抜かした。
源一郎が一歩踏み出す──。たったそれだけで怒気をぶつけられた者達は気圧され、一斉に尻餅をついた。
「ひっ……」
「化け物……」
「こ、これは……」
神官たちが震えながら呟く。宮司は顔を青ざめさせながらも、決死の思いで言葉を絞り出した。
「も、もう、お帰りくだされぇっ。こ、これ以上、神域に立ち入らないでいただきたいっ」
その言葉は、先程と比べれば大分弱々しかったが、明確な拒絶の念が込められていた。堀田も木村も……もはや何も言えない。ただ、源一郎を恐怖の目で見ているだけだ。
「兄さん、落ち着け。ウチのが悪かったからよぉ。そんくらいにしといてくれや」
いつの間にか傍に来ていた神猿が源一郎を宥めた。
「……」
源一郎は深く息を吐いた。それを受けて、源一郎の放つ怒気が霧散していく。
空気が元に戻る。だが、堀田も木村も宮司も、呆然と源一郎を見ていた。周囲の参拝客たちも、固唾を呑んで様子を伺っている。
最後に──源一郎は捕まえていた男を極寒の目で見下ろす。男は顔面蒼白で、涙目になっていた。
「では、これにて御免」
源一郎は深く一礼すると、踵を返して境内を後にした。背後で、誰かが倒れる音が聞こえた。




