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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第二十五話


 夕刻時。源一郎は再び萬屋を訪れた。


 店は客で賑わっていた。武士たちが酒を飲み、女たちが相手をしている。笑い声や三味線の音が聞こえてくる。煙草の煙が立ち込め、酒の匂いと料理の匂いが混ざり合って漂っている。店内は活気に満ちていた。


 昼間の静けさとは打って変わり、夕刻から夜にかけての萬屋は溜池随一の茶屋として繁盛していた。御家人や旗本の下級武士たちが日々の務めを終えてから、ここで一時の寛ぎを求めるのだ。


 源一郎は目立たないよう、店の隅の席に座る。視界を遮るように置かれた屏風の陰から、店内を見渡した。


 お鈴の姿がすぐに目に入った。


 数人の武士に囲まれ、笑顔で話をしている。その周りには他の茶屋女もいるが、明らかにお鈴に注目が集まっていた。新入りでチヤホヤされている面は確かにあるが、隠せぬ色気と存在感を放っている。


「お鈴ちゃん、もう一杯どうだい」


 三十前後の武士が杯を差し出した。少し酔いの回った声だ。


「まぁ、お客様ったら。もうだいぶお召し上がりになってますよ」


 お鈴は笑顔で受け流した。その声音には適度な親しみと、しかし一定の距離を保つ絶妙なバランスがある。


「いいじゃないか。お鈴ちゃんと飲む酒は格別なんだよ」

「まぁ、お上手ですこと」


 お鈴は器用に話を逸らしながら、他の客にも気を配っている。杯に酒を注ぎ、料理を勧め、話を聞く。その手際は見事なものだった。一人の客に集中しすぎず、かといって疎かにもせず、複数の武士たちを巧みに相手している。茶屋女として何年も働いてきたかのような熟練の技だ。


「なぁ、おい、お鈴。この後、二人でどうだ」


 別の若い武士が、年上の武士を押し退ける──。酔った様子で身を乗り出して、そのまま肩を寄せようとした。手が伸びてくる。だが──。


「まぁ、お客様。私、まだこの店に来たばかりで、仕事を覚えるので精一杯なんです」


 その腕は空を切る。お鈴は柔らかく、しかしきっぱりと断っていた。体を引いたのではない。自然な動作で茶を注ぐ仕草に移り、結果として武士の手が届かなくなっただけだ。拒絶しているようには見えない。ただ、仕事に集中しているだけのように見える。


「そう言うな。俺はお前に惚れたのだ」

「いけませんよ。他のお客様もいらっしゃるのに」


 お鈴は笑顔のまま、巧みに距離を取った。その表情には嫌悪の色もなく、かといって期待を持たせるような甘さもない。絶妙な塩梅だ。武士を傷つけることもなく、しかし誤解を与えることもない。


「なんだ。お鈴、冷たい女だな、お前は」


 武士はしつこく食い下がった。拗ねるような態度だが、その目が情欲に塗れている。お鈴の腕を掴もうと手を伸ばす──が、やはり、お鈴はその手をすり抜けた。まるで風のように、自然に、しかし確実に。


「まぁ、そんなに冷たく見えますか?ほら、お客様の杯が空いてますよ」

「……じゃあもう一本もらうか」


 武士は不服そうだが、お鈴が宥めつつ杯に酒を注ぐと、渋々引いた。そのお鈴の動きは自然で、しつこい武士とも距離を一定に保っている。酒を注ぐ手つき、杯を差し出す角度、微笑みの度合い──すべてが計算されているように見えた。しかし、武士は一端は引いたようだが、その目は諦めたようには見えなかった。機会を窺っている目だ。


 源一郎は感心した。お鈴は客の扱いに慣れている。初日だというのに、想像以上に上手くやっているようだった。密偵として潜入させたのは正解だったと、源一郎は内心で頷いた。あの手際なら、客から情報を引き出すことなど容易いだろう。


「いらっしゃいませ」


 別の女が源一郎に気づいて声をかけてきた。四十過ぎの、少し丸い顔をした女だ。店の古参なのだろう、落ち着いた雰囲気がある。


「煎茶を一つ」

「かしこまりました」


 女が奥へと消え──しばらくして、お鈴が源一郎のところへやってきた。盆に茶を載せている。


「お待たせいたしました」


 お鈴は茶を置きながら、小さく囁いた。客には聞こえない声だ。


「──戌の刻に店が閉まります。溜池の北側、お地蔵様の近くで待っていて貰えますか」


 源一郎はその声に反応せず──茶を飲みながら、店内の様子を観察した。お鈴との関係を悟られてはならない。密偵であることがバレれば、情報収集どころではなくなる。


 客の多くは御家人だろう。身なりからそれが分かる。皆、束の間の息抜きに来ているようだ。酒を飲み、女たちと笑い、日頃の堅苦しさから解放されている。武士という立場は窮屈だ。上には絶対服従、下には威厳を保たねばならない。家では家長としての責任がある。だからこそ、こうした場所で羽を伸ばすのだ。


 お鈴は再び客の間を回っていた。話を聞き、笑い、酒を注ぐ。その動きを見ていると、確かに情報を集めるには最適の場所だと思えた。酒が入れば口も軽くなる。女に気を良くすれば、ついつい余計なことまで喋ってしまうものだ。


 ──源一郎が茶を飲み終え店を出ると、外は既に暗くなっていた。


 溜池の周辺には行燈の明かりが灯り、夜の賑わいを見せている。水面に映る月の光が揺らめき、昼間とは違う幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 源一郎は溜池の北側へと向かった。地蔵──溜池の端に小さな祠がある。その前に源一郎は立ち、戌の刻を待った。


 夜の溜池は静かだった。茶屋からは笑い声や三味線の音が聞こえてくるが、溜池の端は人通りも少なく、闇が深い。水面に月が映り、風が波紋を作る。遠くで蛙が鳴き、虫の声が響く。


 戌の刻──午後八時頃。茶屋から女たちが出てきた。それぞれ客を取る者もいれば、別れを告げ帰路につく者もいる。この辺りの茶屋では夜這いは禁じられているが、別の場所で密会する客と女もいる。そういう稼ぎ方をする女もいるのだ。


 その最後にお鈴が出てきた。店の奥で何か用事を済ませていたのだろうか。少し遅れての退出だった。お鈴は周囲を確認してから、溜池の北側へと向かってきた。


「お待たせしました」


 お鈴が祠の前に現れた。その顔には少しだけ疲れが滲んでいる。


「いや。どうだった?」

「疲れました」


 お鈴は珍しく素直に言った。だが、収穫はあったようだ。その顔には充実感もある。初日の仕事を無事に終えた安堵と、何かを掴んだという手応えが混ざっている。


「客の扱いが上手いな。初日とは思えなかった」

「ありがとうございます」


 お鈴は小さく笑った。


 源一郎が提灯を持ち、二人は溜池沿いを歩き始めた。萬屋からは少し離れた場所だ。人目につかない暗がりを選んで歩く。夜の溜池沿いは昼間とは違う顔を見せる。茶屋の明かりが水面に映り、幻想的な雰囲気を醸し出している。静かな水音と、遠くから聞こえてくる三味線の音。夜の江戸は昼とは別の顔を持っていた。


「何か分かったか?」

「はい。いくつか」


 お鈴は声を潜めた。夜道を歩く人影はまばらだが、用心に越したことはない。


「まず、日枝神社の元神官、兼嗣のことですが……」

「ああ」


 源一郎は頷いた。惣兵衛から聞いた、宮司の縁戚である元神官の名だ。そして今日、千鶴からも聞いた名だ。


「正直、あまり良い評判を聞く方ではないようです」

「ほう」

「聞こえてくるのは女遊びが過ぎるとか、借金があるとか……そういう噂ばかりですね」

「女遊びに、借金」


 お鈴は少し躊躇いがちに言ったが、源一郎は眉をひそめた。神官という立場にありながら、随分と不埒な振る舞いだ。


「それに──神社の奉納金を盗んだという話もありました」

「なに、奉納金を?」

「はい。それで宮司様が激怒されて、神官を辞めさせられたとか」


 お鈴は呆れるように小さくため息をついた。噂通りであるならば、兼嗣とは相当に素行の悪い男らしい。


 ──神官を辞めることになったのは、奉納金を盗んだから。


 個人の内情を探るというのは卑しいことなのかもしれない。だが、情報は力だ──未来で生きていた源一郎はそれを知っていた。噂は往々にして真実ではないことがあるのには注意が必要だが、事前に知っているのと、知っていないのとでは話がまるで違う。


「他には」

「神官を辞める以前から、神社を度々抜け出していたという話も聞きました」

「……不真面目な神官もいたものだ」

「どこへ行っているのかは分かりませんが……吉原で兼嗣を見かけた、という話もあります」

「吉原か」


 源一郎は少し驚いた。料理茶屋の店主から兼嗣が夜遊びしていたと聞いてはいたが……まさか。吉原までは日枝神社からかなりの距離がある。江戸城を挟んで反対側だ。神官として勤めながら、そこまで足を伸ばして遊んでいたというのか。


「はい。今日来た客に、日枝神社詣でに来ていた浅草の商人が何人かいたのですが、その者たちが口を揃えて言うには──朝方に、浅草の辺りで兼嗣らしき人物を見ることがあったと」


 朝方──吉原に寝泊まりしたということか。一晩中遊び、夜明けとともに帰ってきたのだろう。


「確かに兼嗣だったのか?」

「顔立ちや背格好から、間違いないだろうと。以前、日枝神社で挨拶を交わしたこともあったそうですが、声をかけても何も言わずに立ち去ったそうです」


 お鈴は少し声を潜めた。


「どの辺りで見たのかは聞いたか?」

「観音様の裏手の方だと言っていました。やはり、その商人も吉原通いをしていたのではないかと……女遊びの噂の出所はどうやらここのようです」


 吉原──江戸で唯一公認された遊郭だ。浅草寺の更に北。隅田川に面した山谷堀よりも内陸側にある。しかし、まさか──。


「神職の身でありながら、吉原通いとはな」

「それに、観音裏の辺りには岡場所もございます。もしかすると、そちらに……」

「……金が尽きて吉原で遊べなくなった可能性もあるな」


 源一郎は眉をひそめた。


 寺社地の多い区域として知られた浅草の裏の顔──そこには吉原で遊べない庶民や下級武士のために、安価で手軽な岡場所が発展している──。


 兼嗣が神社を抜け出していたという噂。浅草の観音裏──吉原の近辺での目撃情報。そして──奉納金の盗み。可能性の話でしかないが、盗んだ奉納金は吉原の女に貢いだとも考えられる。遊郭で豪遊すれば金はいくらあっても足りない。だからこそ奉納金に手を出した──そう考えれば辻褄が合う。


「それで、その兼嗣は今どうしているのだ?」


 源一郎が尋ねると、お鈴は少し表情を曇らせた。


「それが……よく分かっていません。山谷堀にいたという噂もあれば、江戸を離れたという噂もあります。ですが、誰も確かなことは知らないようで……」


 お鈴は困ったように首を傾げた。今朝、千鶴から聞いた話と一致する。やはり兼嗣は神官を辞めた後、行方をくらましているのだ。


「分かった。引き続き、情報を集めてくれ」

「はい」


 お鈴は頷いた。


 宮司の縁戚ではあるが素行不良と奉納金の盗みで辞めさせられ、姿を消した。どこへ行ったのか。何をしているのか。


 そして──気になることもあった。千鶴の反応だ。


 兼嗣のことを聞いた時、千鶴は明らかに動揺し、言葉を濁した。「父と何か揉め事があった」とだけ言って、それ以上は語らなかった。あれは何かを知っているが言えない、という表情だった。


 宮司の娘として、身内に関わる恥ずべき話──奉納金の盗み、女遊び、借金──そうしたことを、外部の人間に話すわけにはいかない。それは当然のことだ。源一郎は千鶴の立場を思えば、あの反応は自然なものだと納得した。


 だが、だからこそ──兼嗣という男の素行がどれほど目に余るものだったのか想像してしまう。宮司が激怒して追放したというのは、単なる一度の失敗ではないのだろう。積み重なった不行跡の末の、最後の一線だったのではないか──。そう思わざるを得ない。


 二人は溜池沿いを歩き続けた。萬屋の明かりが遠くに見える。月が水面に映り、風が波紋を作る。静かな夜の江戸だ。所々に提灯の明かりが灯り、道を照らしている。


「それにしても、よく初日でここまで聞き出せたものだ」

「まぁ、昔から人と話すのは得意でしたから。おだてながら腕に触れて微笑めば、気があると簡単に勘違いしてくれます。江戸は女日照りですし、話を引き出すくらいはどうということありません」

「……怖い女だ。昔はもっと素直だったのに。勘違いした男は執念深く付き纏うことがあるから気をつけろよ」


 源一郎は本心から言った。お鈴の話を引き出す手腕は見事だった。男を扱う術を心得ている。だが、未来──現代社会を知っている身としては心配もしてしまう。夜の町の色恋営業、無理心中、怨恨という言葉が脳裏にチラついてしまう。この時代、女が一人で生きていくのは容易なことではない。だからこそ、危険も多い。


「まぁ、ひどい言い草ですね。しつこい客にはちゃんと注意しますよ」

「あの若い武士か」

「はい。ああいう人は適度に距離を取らないと、後で面倒なことになりますから」


 お鈴は実に冷静だ。男というものをよく理解している。期待を持たせすぎれば執着される。拒絶しすぎれば嫌われる。その間の絶妙なバランスを保つことが、茶屋女としての技術なのだろう。


「源一郎さまが見ていなかったら、もう少しきつく断っていたかもしれません」

「俺が見ていなかったら?」

「ないとは思いますけど。きつく言って、もし、あの客が逆上したら、源一郎さまが出て来てしまうではありませんか。私はお役目の邪魔をする気はありません」

「そう、か……」


 源一郎は何やら見抜かれている気がして居心地が悪くなった。お鈴は実に計算高い──そしてそれは、守られる立場ではないと言っているように聞こえた。密偵として、自分の身は自分で守る。そういう覚悟がある。


「頼りにしているぞ」


 そう言うとお鈴が照れくさそうに笑い──それから二人は言葉少なに歩いた。溜池沿いの暗がりを、提灯の明かりだけを頼りに。遠くで犬が吠える声が聞こえ、どこかの長屋から赤子の泣き声が聞こえてくる。生活の音だ。人々が暮らしている音。


 ──やがて、萬屋が見えてきた。店の明かりがまだ灯っている。


「そろそろ戻らないと」


 お鈴が立ち止まった。


「ああ。住み込みは大変だろうが暫くの辛抱だ。店の者に怪しまれないようにな」

「はい。今日から店の二階の部屋で寝起きすることになっています。他の女たちと相部屋ですが……まあ、情報を集めるにはちょうど良いかもしれません」


 お鈴は小さく笑った。


「無理はするな。体を壊しては元も子もない」

「ご心配ありがとうございます。では、また明日か明後日に」

「ああ。引き続き頼む」


 お鈴が微笑み、萬屋へと戻っていく。その後ろ姿を見送ってから、源一郎は本所への道を辿り始めた。


 夜の江戸は静かだ。提灯の明かりが道を照らし、遠くで夜警の拍子木が響く。月が空高く昇り、雲が流れている。


 源一郎の胸には、妙な胸騒ぎが渦巻いていた。兼嗣という男の影が、チラついている。気のし過ぎと言えば、その通りなのかもしれない。


 だが、確実に何かが近づいている──そんな予感があった。

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