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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第二十四話

 ──源一郎は店を出た。これでお鈴が動き始める。あの娘なら大丈夫だろう。頭の回転も速く、機転も利く。客の話から有用な情報を引き出すことなど、造作もないはずだ。


 それから源一郎は溜池を後にし、赤坂御門を通って日枝神社へと向かった。石段を登り、境内に入る。


 朝の境内は清々しい空気に満ちていた。神職たちが箒で境内を掃いている。祭りの準備も着々と進んでいるようだ。神輿の飾り付けがさらに進み、華やかさを増している。幕が張られ、提灯が吊るされ、祭りの雰囲気が徐々に高まっていく様が感じられた。


 源一郎は境内を歩きながら、警備の要所を改めて確認した。


 奉納品蔵の位置。裏手の道。逃走経路になりそうな場所。参道の見通し。一つ一つを頭に叩き込んでいく。


 蔵の周辺を見ると、番人が二人配置されている。昼夜交代で見張っているのだろう。厳重な警備だ。蔵の扉には大きな錠前がかかり、周囲には柵も設けられている。


 源一郎は溜池側にある裏手の道も歩いた。ここは人目につきにくい。もし何か企む者がいれば、ここへ舟を渡って侵入を試みるかもしれない。


 裏手の道は細く、木立に囲まれている。昼でも薄暗く、夜になれば真っ暗だろう。だが、それゆえに侵入者にとっては都合が良さそうだ。


 境内を一通り見終えると、源一郎は改めて考えた。


 ──山王祭は神田祭と並ぶ天下祭だ。江戸城内に神輿が入り、将軍も上覧する格式高い祭礼──だが、それゆえに人が集まり、何かあれば混乱も生じやすい。


 源一郎は前世で見た祭りの風景や過去の出来事を思い出しながら、祭りで起こりうるトラブルを頭の中で整理した。


 まず考えられるのは、町人同士の喧嘩。各町内が競って豪華な山車を出し、その順番や進路の取り合いで小競り合いが起きる。江戸っ子の気風は激しく、些細な衝突が殴り合いに発展することも珍しくない。


 次に火災の危険。提灯や燭台の火が山車や家屋に引火すれば、混雑した人混みの中では消火活動が遅れ、大火に繋がる恐れがある。


 そして盗難や犯罪。人混みに紛れてスリや巾着切りが横行する。祭りの賑わいは、悪党にとっても格好の稼ぎ場となりやすい現実がある。


 こうしたトラブルを未然に防ぎ、あるいは迅速に対処するため、町奉行所配下の与力や同心が巡回し警戒を強めている。


 だが──源一郎が対処すべきは、そうした表立ったトラブルではない。


 もっと重大な犯罪──騒ぎに乗じた大規模な窃盗。不審火や放火、火災の発生。迫る危険に備え、察知し、排除することこそが求められていた役目だった。


 ──頭の中で考え得るトラブルを整理していると、源一郎は、ふと神楽殿の方から笛の音が聞こえてきたことに気づいた。笛と太鼓の音色。誰かが舞の稽古をしているのだろう。


 源一郎が神楽殿の方へ近づくと、巫女装束を着た娘が舞っているのが見えた。


 昨日は見なかった娘だ。垂髪──長い黒髪を後ろで結い、白い和紙で束ねている。清楚な白装束に緋袴。手には神楽鈴を持ち、優雅に舞っている。笛と太鼓の音色に合わせ、流れるように動く。


 神楽舞──祭りに奉納するための舞だろう。源一郎は少しの間、その舞を見ていた。


 巫女は鈴を振りながら、ゆったりと回る。袴の裾が翻り、鈴の音が清らかに響く。その一つ一つの動きには意味があり、神を招き、神を慰め、神に感謝を捧げる祈りが込められている。静謐でありながら、神秘的な──人ならぬものとの交わりを感じさせる舞だ。


 巫女の舞は、神が降臨する依り代となることを目的としているという。天岩戸の前で天鈿女命が舞ったように、神を楽しませ、降臨する神の心を和らげるために奉納される。その起源は神話の時代に遡り、今もなお神社の祭祀において重要な役割を果たしている。


 美しい舞だ──源一郎は、その神聖な雰囲気に時を忘れて見入った。


 舞が一段落ついたのだろう、巫女が鈴を下ろした。その時、舞に集中していた巫女が源一郎に気づいた。


「あの……」


 巫女が近づいてきた。源一郎は慌てて姿勢を正した。


「火付盗賊改方の者です。山王祭までの期間中、見回りに参りました。お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」

「いえいえ、とんでもございません。お目汚しを……」


 源一郎は丁寧に頭を下げ、すると巫女も同じように頭を下げた。


「あの……昨日もお見かけいたしました。千鶴と申します」


 その声は静かで、落ち着いている。温かみがある声だ。


「改めまして。火付盗賊改方の渡辺と申します。美しい舞でした。思わず見入ってしまうほどに」

「それは……ありがとうございます」


 源一郎は素直にそう言うと、巫女──千鶴は少し頬を染めた。


「祭りのため、毎日稽古をしております」

「そのようですね。舞の稽古は長いのですか?」

「はい。幼い頃から習っておりますので」


 千鶴は穏やかに微笑んだ。


「父である宮司が、神楽は神様への大切な供物だと申しまして、手を抜くことは許されませんから」


 どうやら目の前の巫女は宮司の娘であるらしかった。


 しかし、そうか。千鶴が宮司の娘であるならば、噂にあった宮司の縁戚にあった元神職──兼嗣についても知っているだろう。身内の様子がおかしくはないか、と聞くのはあまりに失礼だろうが……少しくらい反応は見てみたいと源一郎は考えた。


「大変ですね」

「いえ、神様に捧げる舞ですので」


 千鶴はさも当然といった風に、静かに答える。


「渡辺様は、見回りのためにお見えになったとのことですが……」

「はい。祭りは多くの人が集まりますので、何か問題があってはいけません。天下祭なら尚更のこと」

「そうですか……どうか、ご無理をなさいませぬよう」

「いえ、役目ですから。ですが、ありがとうございます」


 源一郎は答えた。巫女から労いの言葉をかけられるなど珍しいことだ。それだけで源一郎は疲れが癒されるような気がした。千鶴が優しく微笑む。


「祭りが無事に終わるよう、尽力いたします」

「お願いいたします」

「それと──もし何か不審な人物を見かけたり、おかしなことがあれば、教えていただけますか?」

「不審な人物……ですか?」


 千鶴は少し不安そうな顔をした。動揺するように視線が揺れる。その反応に目を細める。


「はい。祭りが近づくと、不埒な者が現れることもあります。何か気になることがあれば、どうぞ遠慮なく」


 源一郎は少し間を置いてから、さらに続けた。


「──これは立ち入ったことをお聞きしますが、最近、神社の関係者の中で、何か変わったことはございませんでしたか?例えば、そう……様子のおかしい方がいたとか、急に見かけなくなった方がいたとか」


 千鶴の表情が一瞬強張った。その反応は明らかだった。源一郎が誰のことを言っているのか察したのだろう。


「……それは……」


 千鶴は言葉に詰まった。視線が泳ぎ、何かを言うべきか迷っているようだ。


「もし何かご存知でしたら、教えていただけませんか。不測の事態を警戒するには知る必要があります」


 源一郎は穏やかに、しかし真剣な眼差しで千鶴を見た。


「……実は」


 千鶴は小さく息を吐き、意を決したように口を開いた。


「以前、こちらで神官をしていた兼嗣という者がおりました。宮司の遠縁にあたる者だったのですが……」

「はい」

「少し前に、神官を辞めまして……それから、姿を見なくなったのです」


 千鶴の声は小さく、どこか心配そうな色が滲んでいた。


「辞められた理由は?」

「そ、それは……私も詳しくは存じませんが、父と何か揉め事があったらしく……」


 千鶴は言いづらそうに視線を落とした。それは何かを知っているが言えない、といった表情のように見えた。


「分かりました。詳しいことをお聞きして申し訳ありません」

「いえ……もしかして、『また』何か問題を起こそうとしているのでしょうか……?」


 千鶴は不安そうに源一郎を見上げた。無意識だろうが、『また』と使ったあたり、相当に心配しているのだろう。


「ご心配おかけして申し訳ありません。ただ、念のため確認をしているだけです。お気になさらず」


 源一郎は気づかないふりをして、安心させるように言った。千鶴は少しほっとした表情を見せたが、まだ不安は消えていないようだった。


「また何か心配事や不安があればお知らせください」

「……分かりました。もし何かあれば、ご相談いたします」


 千鶴は迷うように頷いた。


「では──稽古の邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。私はこれで失礼します」

「いえ、こちらこそ……」


 千鶴は再び頭を下げ、再び神楽殿へと戻っていった。その後ろ姿を源一郎は見送った。


 ──その後で、もう一つ源一郎は違和感に気づいた。千鶴は源一郎を忌避しなかったのだ。火付盗賊改方の与力という立場を知っていても、普通に接してくれていたのだ。


 千鶴の父である宮司は源一郎に対して冷たかった。挨拶に訪れた時も、その態度は素っ気なく、早く帰ってほしいという雰囲気が滲んでいた。それは火付盗賊改方が暴力的で、時に人を殺めることがあるからだろう。神職にとって、そうした穢れは忌むべきものであるから。


 だが──どうしてか、千鶴は違った。源一郎を変わらず普通の人のように接した。


 優しい、世間を知らないと言えばそれまでだが……どこか引っ掛かるような思いを抱えながらも、源一郎は境内を後にし神社の石段を下っていった──。


 これから赤坂の町を一通り巡ってから役宅に戻る。後は、お鈴からの報告を待つのみだった。

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