第二十三話
翌朝、源一郎が目を覚ましたのはまだ日も昇らない明け方だった。
まだ薄暗い部屋の中で、遠くから鶏の鳴き声が聞こえてくる。夏の朝は早い。空が白み始め、徐々に明るさを増していく。源一郎は寝床から起き上がり、身支度を整えた。
井戸で顔を洗い、髪を整える。冷たい水が心地よい。夏の朝とはいえ、この時刻はまだ涼しい。
居間に行くとおたかが既に起きて朝餉の支度をしていた。
「お早うございます、坊ちゃん」
「あぁ、おはよう」
源一郎は膳の前に座った。朝餉は麦飯と味噌汁、それに漬物と梅干し。質素だが、朝の食事としてはこれで十分だ。黙々と箸を進めながら、源一郎は今日の予定を考えた。
午前中の内にお鈴を連れて萬屋へ行き、店主の惣兵衛に紹介、お鈴には茶屋女として働きながら情報を集めてもらう。その後、日枝神社の見回り。奉納品蔵の周辺、裏手の道、参道……一つ一つ念入りに見ておく必要がある。
黙々と食べ進め、食事を終えると源一郎はお鈴の支度が終わるのを居間で待った。女性の支度はいつの時代も時間がかかるものだ。諸々の準備が整うまで、もう少しかかるだろう。
──ほどなくして襖が開き、お鈴が入ってきた。
その姿を見て、源一郎は少し驚いた。
昨夜とは全く違う雰囲気だ。着物は細かい細かい麻の葉文様が入った落ち着いた色合いの、灰紫の木綿。だが襟元には鮮やかな花柄の刺繍の入った半襟が覗き、帯揚げには淡い桃色が使われていて、控えめながらも目を惹く工夫がされている。化粧も昨夜より少し華やかだ。口紅の色が鮮やかで、頬にも薄く紅が差されている。
髪は昨夜と同じ島田髷だが、おたかに結い直して貰ったのだろう──少し高く結われている気がする。そして明らかに異なるのは、いつだったか源一郎が祝いで買い与えた手絡に、珊瑚の玉簪、装飾の施された櫛が一つずつ島田髷に添えられていた。
少々派手……のように思えるが、遊女は勿論、浮世絵に描かれる茶屋女と比べたら大人しい方であろう。むしろ、キッチリ着こなしていて貫禄があるように見える。
「いかがでしょうか、源一郎さま」
お鈴が小さく回って見せた。着物の裾が翻り、袖が揺れる。髪に挿した簪が光を弾いた。
「ああ……」
源一郎は頷きかけて──ふと、島田髷をじっと見た。
正直なところ、現代を生きた経験のある源一郎には、島田髷の良さが未だによく分からない。前世の感覚で言えば、サラサラの髪を下ろした方が柔らかく、親しみやすい印象を受ける。結い上げた髷は確かに端正で美しいが、どこか堅苦しく感じてしまう。それに……
この時代、女は髷を元結で根本から結い、鬢付け油で固めている。なので、簡単に解くことも出来ず、解いても現代のように湯が自由に使える訳ではないので髪もあまり洗えない。だから当然、臭い。酷いと虱も沸く(発狂)。特に夏場は酷いことになる……それは元現代人の感覚では耐え難い。それを我慢しているだけでも、源一郎にとっては相当なストレスだった。
今では周囲を説得して髪を洗う回数を増やすことが出来たが……昔、それをお鈴に言って泣かれたことがあったのを源一郎は、ふと思い出した。
「……下げ髪の、鬢付け油を使わない方が俺は好きだ」
源一郎は思わず口にした。一瞬、お鈴の表情が強張る。
「……まぁ」
お鈴は少し首を傾げ、微笑んだ。だがその微笑みには、どこか冷ややかなものが混じっていた。
「源一郎さまは、ふしだらな女がお好みのようで」
「……」
「幾らなんでも髪を結い上げもせずに外を歩くなど……だらしない女のすることでございます。いえ、それとも……夜伽の、床で髪を解いた女の姿が、お好きだということでしょうか」
お鈴の言葉には、明らかに揶揄う響きがあった。源一郎は内心で慌てた。
「あ、いや、そういう意味では──」
「よろしいかと。殿方というものは、皆そのようなものでしょうから」
お鈴はさらりと言った。だが、その目には明らかに不満げな色がある。源一郎は失言だったと悟った。女心──それは男には中々理解し辛いもの。
江戸の女にとって、髪を結い上げることは身だしなみの基本であり、社会に出る際の礼儀だ。下げ髪のままでいるのは、就寝時か庭で髪を洗う時くらい。つまり、源一郎の発言は「きちんとした身なりをしなくていい」と言ったも同然──あるいは、もっと悪く取れば「床で髪を乱した姿が好きだ」という、極めて下品な意味にも聞こえてしまうのだと。
「……待て、訂正する。言葉が足りなかった」
源一郎は内心で焦りながら失言を訂正した。
「今の装いも、十二分に美しい。茶屋に行かせることを迷うくらいには」
「……」
それから目を合わせて言うと、お鈴は少し頬を染めて黙り込み……視線を逸らした。
「お言葉、有難く頂戴いたします」
隠しきれぬ笑みを浮かべたお鈴の表情からは、先ほどの不機嫌さはもう消え──源一郎は内心でホッと息をついた。
「では行くか」
「はい」
二人は屋敷を出た。
朝の本所は静かだ。まだ人通りも少なく、町が目覚め始めたばかりの時間帯。商家の戸が開き始め、朝の仕度をする音が聞こえてくる。店の前に水を撒く音、箒で掃く音、そうした日常の音が町に響く。
お鈴は源一郎の後ろを歩いた。やはり、武士と妙齢の女が一緒に歩いているのは少し目立つが、早朝のこの時間であれば気にする者も少ない。
二人は両国橋を渡り、日本橋方面へと向かった。朝日が昇り始め、空が明るくなっていく。川面が朝日を反射してきらきらと輝いている。渡し舟が行き交い、川沿いには早くも商人たちが店を開き始めている。
江戸の朝は早い。商人たちは朝早くから店を開け、客を待つ。職人たちも早くから仕事を始める。出仕のある武士たちも時刻に間に合うよう、早朝から身支度を整える。
日本橋を過ぎ、尾張町、新橋、虎ノ門外、赤坂方面へと向かう。新橋を越えたあたりから徐々に町の様子が変わっていく。町人の町から武家地へ。道幅が広くなり、白壁の屋敷が増えていく。
お鈴の足に合わせ……赤坂に着いた頃には、既に太陽は高く昇っていた。
源一郎は日枝神社の方へは向かわず、直接溜池の方へと向かった。虎の御門を通らず、江戸に張り巡らされた外堀に沿って歩く。
やがて溜池が見えてきた。
朝の光を受けて溜池の水面が輝いている。池の周辺には既に人の姿が見える。早くから開いている料理茶屋もあるようだ。そして──萬屋の暖簾が見えた。
「あれだ」
源一郎が指差すとお鈴は頷いた。二人は萬屋の前で立ち止まる。まだギリギリ朝と言える時刻だが、店の戸は開いている。中から掃除をする音が聞こえてくる。
源一郎は店に入った。
「いらっしゃいませ」
昨日とは違う女が出迎えた。年の頃は二十前後か。朝の仕事をしていたようで、手拭いを持っている。
「店主の惣兵衛はいるか」
「はい、少々お待ちください」
女が奥へと引っ込んで行き──ほどなくして惣兵衛が現れた。源一郎を見て、その顔に緊張の色が浮かび、惣兵衛は丁寧に頭を下げた。
「これはこれは、渡辺様。お待ちしておりました」
「約束通り、娘を連れてきた」
源一郎はお鈴を促した。お鈴が一歩前に出て、惣兵衛に向かって頭を下げる。
「お鈴と申します。よろしくお願いいたします」
惣兵衛はお鈴をじっと見た。その目で値踏みをするように、頭の先から足元まで眺める。
「ほう……これはなかなか……」
惣兵衛は満足そうに頷いた。
「器量もよろしい。お客様にも喜ばれるでしょう」
「客は取らせるな。情報を集めることが目的だ」
源一郎は念を押した。
「へぇ、それは勿論、分かっております」
惣兵衛は頷いた。だが、その目には少し残念そうな色があった。これだけの器量の娘であれば、客を取らせることができれば相当な稼ぎになるだろう。だが、火盗改の命令には逆らえない。逆らえば身の破滅だ。
「では、お鈴を頼んだぞ」
「かしこまりました」
惣兵衛はお鈴に向き直った。
「では、お鈴、こちらへ。他の娘たちを紹介しましょう」
お鈴は源一郎を振り返った。その目には不安の色はない。ただ静かな決意があるだけ。いや、むしろどこか楽しみにしているような光さえある。その目と合い、源一郎は小さく頷いた。
お鈴は視線を切ると惣兵衛について奥へと入っていった。その足取りは軽く、何の迷いも見られなかった。




