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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第二十二話


 日も落ちた頃、源一郎は本所の屋敷へ戻った。式台の上に座り、草履を脱ぐ。


「お帰りなさいませ、坊ちゃん」


 少し前慌てた様子で、おたかが玄関で出迎えた。夕餉の支度をしていたのだろう。姉さんかぶりをした頭に前掛けをした出で立ちだった。


「あぁ、ただいま」


 源一郎は笑顔で応じた。誰かが出迎えをしてくれるというものは良いものだと思いながら。


「夕餉の支度ができておりますよ。お疲れでしょう」

「ああ、ありがとう」


 源一郎は式台から六畳ほどの控えの間に上がる。流石に足が疲れている。今日は随分歩いたのだ。日枝神社から溜池まで、そして、溜池や日枝神社の周辺を念入りに何度も往復した。さらに、赤坂の町中を歩き回り、あやかし達にも話を聞いて回った。前世では交通機関が発達し、これほど歩くことなど滅多になかった。


 それに――慣れもあるだろうが、役目の度におよそ一時間半――往復三時間かけて本所から桜田門外、南の麻布まで歩いているのだ。慣れもあるだろうが、江戸時代の人の体力と健脚具合はつくづく凄いものだと感じる。


 控えの間から屋敷の奥へと進み、居間に着くと既に膳が用意されていた。


 夕餉は質素だが温かいものだった。麦飯、味噌汁、焼き魚、豆腐、漬物。それに茄子の煮浸しと冷奴。中級武家の食事としては質素かもしれないが、おたかの心のこもった料理だ。味噌汁からは味噌と煮干しの良い香りがする。焼き魚は鮎だ。焼けた皮が香ばしく、この淡泊な身と塩味が、またよく合うのだ。


 源一郎は黙々と箸を進めた。


 麦飯の素朴な味が口の中に広がる。白米だけではなく麦が混ざっているのは、経済的な理由もあるが、江戸っ子の食生活としては普通のことだ。それに脚気の予防にも良い。


 味噌汁を一口──温かさが疲れた体に染み渡る。焼き魚の塩加減が絶妙で、飯が進む。茄子の煮浸しは出汁がよく利いていて、夏野菜の甘さと旨味が感じられた。冷奴は豆腐の滑らかさと薬味の生姜が食欲を刺激する。全てが幼い頃から舌に馴染んでいる、おたかの料理だった。


「坊ちゃん、今日はどちらへ?」


 おたかが尋ねた。


「ん、赤坂だ。日枝神社、溜池の周辺を見回っていた。あそこは夜になると蛍が飛ぶらしい」

「……そういえば、山王さまのお祭りが近くありますね。山王祭に向けた市中の巡回でございますか……お勤めご苦労様でございます」


 おたかが源一郎の湯飲みに茶を注ぎながら言った。赤坂、日枝神社と言っただけで何の役目を仰せつかっているか予測する辺り、生前、おたかは源一郎の亡き父である藤治郎から役目の話をよく聞いていたのかもしれない。


「ありがとう」

「本所の娘衆も皆、着飾って出かけるのを楽しみにしておりますよ。誰ぞ、誘ってみてはいかがです。背も高く、見てくれは悪くないのですから」

「いや、それはな……それに今年は祭り見物はできないだろうし」

「……まぁ、お役目がございますからね。坊ちゃんがお勤めしているおかげで皆が安心して祭りを楽しめる訳ですから。立派なお仕事です」


 源一郎は苦笑し、箸を置いた。茶碗の飯を食べ終え、味噌汁も飲み干した。前世の食に溢れ、腹がはち切れれるような満腹感は中々得られないが、こちらの方が健康的といえばそうだろう。


「そうだ。おたか、お鈴はどうしてる?呼んでくれないか」


 おたかの目が少し見開かれた。


「お鈴を……?」

「ああ。明日から少し仕事を頼みたい」


 おたかは少し心配そうな顔をしたが、頷いた。お鈴とは、渡辺家の敷地内に住む女性奉公人の名前であった。


「かしこまりました。では、お呼びいたします」


 おたかが部屋を出ていった。襖が閉まる音が静かに響く。


 源一郎は茶を飲みながら考えた。


 ――お鈴とは幼い頃からの付き合いだ。元々は町人の娘だったようだが、両親を早くに亡くし、父である藤治郎が残されたお鈴の面倒を見ていた。それに、どうにも──お鈴の生家は狐憑きと言われる血筋だったらしく、源一郎と同じで妖怪が見えることがある。ただし、源一郎ほど明瞭には見えず、見えたり見えなかったり、本人曰く曖昧な感覚なのだという。


 今ではおたかの養女ということになっており、藤治郎が源一郎の密偵とするべく、妾であり──若い頃は父の密偵でもあった、おたかと共に教育していた。


 頭の回転が速く、人当たりも良い。情報を集めるには適任だ。源一郎が密偵としての仕事を頼むのは初めてだったが、お鈴であれば役目を果たしてくれるだろう。


 ほどなくして襖の向こうで声がした。


「お呼びでございますか」

「あぁ、入っていいぞ」


 お鈴が入ってきた。年の頃は二十二、三。切れ長の目に、白い肌。きめの細かい肌は透き通るように美しい。髪は島田に結い上げ、質素だが清潔な着物、前掛けをつけた姿は一介の奉公人とは思えないほどに凛とした雰囲気がある。立ち居振る舞いに無駄がなく、所作が美しい女だった。


「お鈴、座ってくれ」

「はい、旦那様」


 源一郎は膳を横に避け、お鈴に座るよう促した。お鈴は正座し、背筋を伸ばして源一郎を見た。その目には静かな覚悟のようなものが宿っている。


「……おたかは行ったか?いつものようにしていいぞ」

「……はい」


 お鈴がこくりと頷く。おたかがおらず、誰も周囲にいないことを確認すると、お鈴は途端に硬い表情を緩めた。


「源一郎さま。それで、どうなさったのですか?急に呼びつけるなんて珍しい……」


 お鈴は口調を変えた。幼い頃は家族のように、それこそ兄妹のように接してきた。厳しい義母の前では丁寧な態度、言葉遣いをしているが、二人きりの時は昔からやや砕けた言葉を使う。おたかに知られれば眉を顰められるであろうが、源一郎としてはもっと気安いやりとりを望んでいた。


「急で悪いが、明日から赤坂の茶屋に潜り込んでもらいたい」


 源一郎は単刀直接に言った。そのことにお鈴は少しも驚かず、静かに頷いた。


「かしこまりました。それで、どこの茶屋に潜れば?」

「萬屋という店だ。店主の惣兵衛には話をつけてある。お前を茶屋女として雇い入れることになっている」

「萬屋……」


 お鈴は少し考えた。記憶を辿るように目を細める。


「溜池沿いの二階建ての店ですね。暖簾に萬の字が染め抜かれている」

「よく知っているな」

「以前、近くを通ったことがありますから」


 お鈴は静かに答えた。その記憶力の良さに源一郎は改めて感心した。以前、見聞きしたことをしっかりと覚えている。


「それで、集めてほしい情報というのは?」

「山王祭が始まるまでの間、赤坂の巡回を任されている。だが、俺は赤坂に伝手がなくてな……日枝神社周辺で何か不穏な動きがないか、情報を集めて欲しい」


 源一郎は声を落とした。


「特に赤坂近辺に住む武家の客が多い店だ。旗本の家人や御家人が何を話しているか、どんな噂が流れているか。細かく聞いておいてくれ。他にも日枝神社への参拝客、神職も立ち寄ることがあるだろう」


 お鈴は頷いた。その目は至極冷静で、一時とは言え私娼である茶屋女として潜り込めと命令した源一郎に対しても、向ける眼差しには少しの揺らぎもない。


「それと──」


 源一郎は続けた。思い出すのは茶屋で仕入れた気になる話――


「日枝神社の元神官、兼嗣という男なのだが。店主の話では姿を消しているという。何かが気になる」

「神官ですか……」


 お鈴は眉をひそめた。その表情に僅かな興味が浮かぶ。


「その神官に、どのようなおかしなことが?」

「ただの勘だ。それはまだ分からない。そこのところも詳しく探ってほしい」

「分かりました」


 お鈴は真剣な顔で頷いた。その瞳の奥には主人から初めて頼まれた密偵としての仕事に、静かに意気込むような熱が見えた。


「いいか、無理はするな。危険を感じたらすぐに引き上げろ」

「わかってますよ。何かあったら源一郎さまが悲しみますものね」


 源一郎は短く言うも、お鈴はクスリと笑った。その声には揶揄うような色がある。


「はぁ……では明日、一緒に萬屋へ行き、店主に紹介する。それと……念のため店主には客は取らせるなと言ってあるからな」

「あらあら、嫉妬深いこと」

「どうとでも言え」

「ふふ」


 お鈴は嬉しそうに笑った。


「では準備しておきますね。茶屋女というと着物も変えた方が良さそうですね」

「それらしい恰好で頼むぞ」

「わかっていますよ。お役目の一助となれるよう、勤めさせていただきます」


 お鈴は微笑んで一礼すると、源一郎の食後の膳を持って、静かに部屋を出ていった。襖が閉まると源一郎は反対側の縁側に出て、そのまま庭に接している廊下へと座りこんだ。


 夜風が心地よい。庭には月明かりが差し込み、草木の影が揺れている。虫の音が静かに響く。蟋蟀だろうか、規則正しい鳴き声が夏の夜を彩る。遠くでは蛙の声も聞こえる。夏の夜の穏やかな時間。


 だが源一郎の心は、『何か』を予感しているように穏やかではなかった。


 ――ふと、いつの間にか小さな影が源一郎の隣に現れていた。座敷童の菖蒲だった。


「おかえり」


 菖蒲が源一郎に向けて小さく手を振った。小さな体、白く可愛らしい顔立ち。月明かりに照らされたその姿はまるで幻のよう。だが、その目には妖怪としての古い知恵が確かに宿っている。


「ただいま、菖蒲」


 菖蒲は源一郎の隣に腰を下ろした。縁側から足を出してぶらぶらとさせる。昼間の暑さも去り、夜の涼しさが心地よい時間となっていた。


「さっきの話聞いてた。妖怪たちも皆楽しみにしてる。お祭り」

「あぁ、そうらしいな」


 源一郎は苦笑した。


 今日、赤坂で出会った、あやかし達は皆、同じことを言っていた。祭りが楽しみ、人が集まって活気が出るのは心地が良い──異変の兆しなど、誰も感じていなかった。


「菖蒲も祭りが楽しみか?」

「うん。活気があるのは好き」


 菖蒲が微笑んだ。その笑顔は無邪気で可愛らしい。


「でも、源一郎は忙しそう」

「ああ、仕事だからな」


 源一郎は頷いた。


「菖蒲は、妖怪の繋がりで赤坂日枝神社の周りで何か変わったことがあったと聞いてはいないか?妖気が乱れているとか、人じゃない者が増えたとか」

「うーん……」


 今日、何度も繰り返した質問──。菖蒲は首を傾げ、しばし考え込んだ。その仕草は子供そのものだが、彼女の交友関係は非常に広い。何かあればその噂は菖蒲にも入ってくる。


「知らない。何もない」

「そうか……」


 源一郎は少し考えた。


「では、最近、何か不穏な気配を感じるということはないか?」

「不穏?」


 菖蒲はもう一度首を傾げた。


「うーん……特に何も。皆、お祭りが近いからってソワソワしてるくらい。皆、お祭りが好き」

「そうか、分かった」


 菖蒲は仄かに笑った。その笑顔は無邪気で可愛らしい。

 

 他のあやかし達も言っていたが、菖蒲が何も感じていないということは、やはり妖怪が関わっている事件が起こることはなさそうだ。


「ありがとう、菖蒲」

「うん、でも──」


 菖蒲が少し真剣な口調で言う。


「──あまり、お鈴に無理させないこと。お鈴は意外と繊細。狐が興奮する」

「ああ、わかってる」


 狐が興奮するというのは、お鈴に流れる狐憑きの血のこと──もしくは、憑いている狐のことを言うのだろう。興奮して血が騒ぐという訳ではないが、狐憑きの者は無意識に願ったことが大なり小なり叶ってしまうのだ。それが良いものか、悪いものかは別として……


「じゃあね」


 そう源一郎に忠告した菖蒲は、再び小さく手を振ると、ふわりと消えていった。まるで闇に溶けるように、月明かりの中の影に消える。


 源一郎は縁側に座ったまま、夜空を見上げた。星が瞬いている。雲が少なく、星がよく見える夜だ。天の川がうっすらと見える。


 明日からお鈴が密偵として動き、情報が集まり始めるだろう――源一郎は身を清めるとすぐに床に就いたが、なかなか眠れなかった。頭の中で、今日のことが繰り返される。


 日枝神社。神猿の愚痴。豊川稲荷。白狐の助言。溜池。料理茶屋。店主の惣兵衛。そして元神官の噂……乱雑な情報の断片。だが……これから何かが起ころうとしている。そんなモヤモヤした予感があった──。


 だが、それが何なのかは、まだ分からない。源一郎は天井を見つめながら、眠気が来るまで静かに考え続けたのだった。


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