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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第二十一話

 ――源一郎は店を出た。


 外に出ると池の水面に反射した日差しが目に眩しく感じた。もう午の刻――だいたい昼の一二時くらいを過ぎている。太陽は中天にあり、夏の強い日差しが照りつけている。ジリジリとした熱で額に汗が滲んだ。


 源一郎はそのまま溜池沿いの道を歩き始めた。


 溜池の側には茶屋が並び、女たちの声が聞こえてくる。客を呼び込む声、笑い声、三味線の音色。この辺り一帯が岡場所として機能していることがよく分かる。


 武家屋敷が近く、溜池という人通りの多い場所に作られた休息地。表向きは料理茶屋だが、実態は遊興の場。格式ある武家地や寺社地の近くに、こうした町人の経済活動の場所があり、幕府も完全には取り締まれていない。それは――武士の支配と、経済を回す町人という、江戸の町の二面性を現しているように思えた。


 源一郎は来た道を戻り、赤坂御門の前に出た。


 情報収集の為の仕込みはこれでいいだろう。明日、料理茶屋で働くことになる密偵を連れてくる。そこから本格的に噂を集める予定だ――。


 だが、その前に。源一郎は足を止め、周囲を見回した。


 赤坂の町にも妖怪は住んでいる。人の多い場所には必ずと言っていいほど、あやかしが集まる。祭りが近づいているこの期間中、何か異変の兆しがないか、彼らにも会って確認しておいた方がいいと源一郎は考えた。


 路地裏へと一歩足を踏み入れる──。


 人通りの多い表通りから一本入ると、そこは静かな裏道だ。武家屋敷の塀が続き、木々の影が濃い。日差しが遮られ、少しだけ涼しい。赤坂は江戸城に近い要地であり、大名屋敷や旗本屋敷、寺社地が密集している。その裏手や森の残る場所こそ、あやかし達が棲みついていそうな場所だ。


 源一郎はさらに赤坂の町を歩いた。武家屋敷の裏手、寺社の境内、古い木の根元──あやかし者が好みそうな場所を一つ一つ回る。


 薄暗い路地の奥、幽霊坂と呼ばれる坂道の近くを通った時、ふと冷たい気配を感じた。人魂──ではないが、人ならぬものの気配だ。


「……誰かいるのか?」


 源一郎が声をかけると、坂道の上の方から、ぼんやりとした影が現れた。人の形をしているが、輪郭が曖昧だ。何かしらの理由で成仏できないでいる者の霊だろうか。


「……」


 幽霊坂の怪異──赤坂には、こうした坂道にまつわる怪談が多い。昼でも薄暗く、人通りが少ない坂には、幽霊や人魂が出ると噂されている。だが、この霊はただそこにいるだけで、話を聞くこともできなさそうだった。


 源一郎は静かに通り過ぎた。ただの霊ならば用はない。騒ぎを起こして祭りの邪魔をするような力もないのだろう。


 ──次いで、武家屋敷の裏手を歩いた。塀の向こうには、大名屋敷の広い庭園が広がっている筈だ。裏手の道に立つ、古い一本の松の木の根元に、妙な気配を感じた。


「……そこにいるのは誰だ?」


 源一郎が声をかけると、木の陰から、細長い影が伸びてきた。


 その伸びた先を追って見上げると──視線が追いつくことなく、背丈がどんどん伸びていく。


 最初は人ほどの背丈だったものが、見上げるほどに巨大になっていく。顔は坊主頭で、目が異様に大きい。江戸の町でよく語られる妖怪──見越入道だった。


「おい、見るなよ……」


 見越入道が低い声で言った。


「見れば見るほど、俺は伸びるんだ……」

「すまない。見越し入道、見越した」


 源一郎は視線を切った。見越入道は、見上げれば見上げるほど背が伸びる妖怪だ。対処法は簡単──見越し入道、見越したと言えばいい。


 源一郎が言うと、見越入道は縮んでいき、普通の人間と同じ背丈になった。


「誰かと思えば源一郎か。どうした」

「赤坂の見回りの役目を仰せつかったんだ。最近、この辺りで何か変わったことはないか?」

「……ないな」


 見越入道が少し考えてから答えた。


「祭りが近いと人が増える。少し騒がしくなったくらいだ」

「そうか」

「……まあ、祭りだから、何か起きてもおかしくはないがな」


 見越入道が意味深なことを言った。


「どういう意味だ?」

「祭りの時期は、心が浮つき、注意が散漫になり、普段であれば有り得ないような失態も起こり得るということだ。それは人も、あやかしも変わらん」


 見越入道はそう忠告すると、再び木の陰に消えていった。


 源一郎は妖怪たちに話を聞いたが、どれも同じような答えだった。祭りが楽しみ、人が増えて賑やか、それ以外に変わったことはない──と。


 赤坂は江戸城の裏鬼門を守る重要な地だ。政治の中心に近く、権威と暗部が交錯する場所。だが、早々に事件になど当たり着く訳もない。


 ──そして、次いで源一郎は豊川稲荷の社の前で足を止めた。


 赤坂一ツ木にある豊川稲荷──正式には妙厳寺という曹洞宗の寺だが、境内に祀られた稲荷の社が有名で、江戸の人々からは豊川稲荷と呼ばれている。この稲荷では、吒枳尼天という仏教の女神を祀っており、稲荷神と習合した独特の信仰を持つ。


 源一郎は境内に入った。


 吒枳尼天を祀る本殿、正面近くには狛犬ならぬ狛狐が二対。本殿脇にある奥の院の参道には、大きな赤い鳥居に、朱色の幟、居並ぶ狛狐が連なり、一種異様な光景が広がっている。参拝者の姿はまばらだが、奥の院の社殿前には供物が置かれ、線香の煙が立ち上っていた。


「失礼します」


 源一郎は本殿の前で一礼し、近づいた。本殿の前に配置された狛狐。その像の脇に──白い狐が寝そべっていた。


 子供ほどの大きさがあり、尾は三本に分かれている。妖狐ではあるが、普通の妖狐ではない。豊川稲荷の使い──吒枳尼天に仕える神の眷属だ。


「豊川稲荷の使いの御方ですね。初めまして。火付盗賊改方与力、渡辺源一郎と申します」


 源一郎は丁寧に頭を下げた。


「ほう、幕府の役人か。それも、私が見える目を持っているとは」


 白狐は身を起こすと、一度、匂いを嗅ぐようにスンと鼻を鳴らして興味深そうに源一郎を見た。その目は金色に輝き、知性と力を感じさせる。


「山王祭期間中の見回りを命じられまして。この辺りで何か変わったことが起きていないか、お聞きして回っております」

「変わったことはないが、大きな祭りだからね。当日になれば騒ぎは色々起こるさ」


 狐は尾を揺らした。


「この辺りの人でない者たちは皆、祭りを楽しみにしてる。人間が集まれば、活気が出る。あやかし者にとっても、祭礼の活気は心地良いものだよ。町の澱んだ空気を浄化する役目があるから。でも、そういう空気に当てられて騒ぐ者らはどうしても出てくる」

「そうですか……では、今の所は何か?」

「今の所は何もないとも」


 白狐はあっさりと言った。


 神の使いである白狐が何も感じていないということは、少なくとも妖怪や神域に関わる異変はなさそうだ。


「ただまぁ──」


 そういうことが聞きたいのではないだろう?と、狐が続けた。


「人間の世でのことを聞きたいのなら、あまり私たちを当てにはしないことだよ。人間が企む悪事というのは、あやかし達の目には映りにくいものだからね。それがどうして悪行になり、何が善行になるのかよく分かってもいない。人間の規則は、人間にしか分からない」

「……なるほど」

「だだし──赤坂というのは、江戸城に近い場所。人の権力が集まる場所には必ず裏があるもの。金が動き、陰謀が渦巻いている」


 白狐は鋭い目で源一郎を見た。


「だから、お前さんの勘が何か感じると言っているなら、それは人間の仕業によるものかもしれないね」

「……ありがとうございます。参考になりました」


 源一郎は感謝の言葉を述べ、深く頭を下げた。


「うん。何かあったら、また来るといい。供物を持ってね。この辺りのことなら、『猿』ではなくて私の方が詳しいと覚えておくといい」


 源一郎が神猿に会ったことに気づいていたのだろう。白狐は神猿に対抗するようにそう言うと、社殿の影に消えていった。それはまるで、白い煙が消えるように。


 ──源一郎は豊川稲荷を後にした。


 妖怪たちは皆、祭りを楽しみにしているようだが、異変の兆しは感じていない──だが、それは逆に言えば、もし今後何か起こるとしたら、それは純粋に人間の仕業だということ。


 気のせいかもしれない。取り越し苦労かもしれない──だが、源一郎の胸の中には、何かが起こるという予感があった。


 源一郎は虎之御門の前を通り、赤坂を後にした。日がだいぶ傾いている。今日の見回りはこれで終わりになりそうだった。

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