第二十話
日枝神社を後にした源一郎は、赤坂の町を歩き始めた。
石段を下りながら、改めて周囲の景色を眺める。眼下に広がる武家地の町並み。白壁の大名屋敷。その間には疎らとなった木々の緑が広がっている。遠くに見える江戸城と外縁の堀。この高台から見下ろす景色は、まさに武士の都、江戸の威容そのものだ。
源一郎は石段を下り切り、表参道を通って大名屋敷の門前を通り過ぎた。槍持ちが門前に立ち、鋭い目で行き交う者を見張っている。武家奉公人たちが忙しく往来し、商人が荷車を押して坂を登っていく。
本所や深川とは違う。この町には独特の気品があり、格式がある。そして──困ったことに、下町で根を広げる熊造のような岡っ引きたちの伝手は、ここでは役に立たないだろう。
――だが、一帯の警備をする上では、この赤坂近辺の内情を探り、知る必要がある。つまり、早急に情報を仕入れる伝手を手に入れなければならなかった。
源一郎は石段を下り切ると、改めて日枝神社の周囲を確認することにした。
ここ赤坂は地名の通り、坂が多い。赤坂見附から紀尾井町にかけて、急な登り坂が続いている他、名前の付いた坂が多い土地だ。
表参道から日枝神社の裏手へ回ろうとする。すると、道は谷筋へと続く緩やかな坂となっていた。起伏に富んだ地形。高台に武家屋敷が並び、谷筋に町屋、組屋敷、寺社地が入り乱れている。
源一郎はそのまま坂を下り、神社の裏手へと回った。神社の裏手に近づくと寺院が軒を連ね、石段がさらに下へと続いているのが見える。そして、その石段を下りていくと、急に視界が開けた。
眼下に、大きな池が広がっている──溜池だ。
源一郎は池のほとりに立ち、その大きさに目を細めた。
日枝神社の裏手に位置する巨大な貯水池。池の水面は穏やかで、朝日を反射して輝いている。周囲には石垣が巡らされ、整備された景観を呈していた。谷筋を利用し、上流からの水を堰き止めるダム状の構造になっており、石垣と土塁で築かれた堤が、谷の出口を塞いでいる。その向こう側には広大な水面が広がっていた。
この溜池は、江戸城の防火用水と城下への飲料水の供給という、二つの重要な役割を担っている。江戸の頻繁な大火への対策として、水の確保は至上命題。溜池はその要となる存在だった。
だが──。
日枝神社側の対岸――赤坂御門を抜けた向こう側の溜池沿いの通りには茶屋が立ち並んでいるのが見えた。
そこは表向きは料理や休憩を提供する茶屋だが、実際には非公認の岡場所として知られている。
岡場所とは、吉原のような公認の遊郭ではなく、色茶屋や飯盛旅籠といった形態で営業している私娼の集まる場所のことだ。本来であれば幕府の取り締まりの対象ではあるが……日枝神社の裏手という立地、高台の武家屋敷に囲まれたこの谷筋は人の往来が多く、また武士たちのそうした需要もあるため、完全には取り締まりきれていない現状があるのだろう。
源一郎は池に沿って周りを歩き始めた。途中で赤坂御門を抜け、日枝神社裏手の対岸へと出る。
茶屋の前を通り過ぎると、女たちの「お侍様、寄っていきませんか」「いい酒がありますよ」「お団子はいかがですか」という元気な声が聞こえてくる。
前世のキャッチは無視するに限るという経験則から、源一郎は目を合わせることもなく黙って歩き続けた。だが、周りを見れば、声を掛けてくる女を無視できなかった男たちが一人、また一人と捕まえられるように茶屋へと引き込まれていっていた。
──ふと、池の水面を見ると、色鮮やかな鯉や水面では鴨が泳いでいる。どうにものどかな光景だが、この池の周辺には人臭い賑わいがある。武家地と庶民の遊興が交差する場所。江戸における武士階層と町民階層という異なる身分が混じり合う『あわい』が、ここには同居していた。
源一郎は一軒の茶屋の前で足を止めた。他の茶屋よりも少し控えめな佇まい。二階建ての造りで、一階には客席が見える。暖簾には「萬屋」と染め抜かれていた。
源一郎は茶屋の戸を開けた。
「いらっしゃいませぇ」
店の女が愛想よく声をかけてきた。年の頃は三十前後か。化粧は濃いが、笑顔は慣れたものだ。
「煎茶を一つ」
源一郎は腰を下ろした。
店内には他に客が数名。旗本の身内か御家人かは分からないが武士らしき男たちが酒を飲んでいる。女たちが側に座り、話し相手をしている。皆、くつろいだ様子だ。刀を置き、酒を飲み、女たちと笑っている。ここは彼らにとって、束の間の憩いの場なのだろう。
源一郎は店内の様子をそれとなく観察しながら、茶を待った。
店の奥には小さな厨房があり、そこから煮物の匂いが漂ってくる。床の間には掛け軸がかけられ、季節の花が生けられている。質素だが、それなりに整えられた店なのではないだろうか。
「お待ちどうさま」
女が茶を運んできた。湯気の立つ煎茶。良い香りがする。
「うむ」
源一郎は茶代を払った。前世の感覚で言えば三百円ほどだろうか。銅銭を渡すと、女は丁寧に受け取った。
「お侍さん、一人かい?」
「ああ」
「寂しいねぇ。話し相手くらいしようか?」
「ありがたいが、遠慮しておくよ」
源一郎がそう言うと、そうかい、と女は少し鼻白んだ。しかし、源一郎は湯呑を置き、気にすることなく女に静か頼み事をした。
「少し、店の者と話をしたい。店主を呼んでくれないか」
女は一瞬、怪訝そうに源一郎を見たが、すぐに笑顔を作り直した。
「へぇ、旦那様。少々お待ちを」
奥へと引っ込むと、ほどなくして年配の男が現れた。白髪交じりの頭に、上等な着物。茶屋の店主としては儲けているのだろう。
「私が店主の惣兵衛と申します。お武家様、何かご用でしょうか」
男は丁寧に頭を下げた。表情は柔和だが、目の奥には怪訝そうな色があった。何か理不尽なことを言われないから警戒でもしているのだろう。
「少々、話がある。――が、ここは人目がありすぎる。奥で話せないか。ここはそうした店だろう?」
源一郎は声を落とす。その威圧感を感じる物言いに惣兵衛は一瞬眉をひそめた。だが、すぐに笑顔を作り直した。
「へぇ、かしこまりました。どうぞこちらへ」
惣兵衛は源一郎を奥の小部屋へと案内した。客席からは見えない、店の帳場にあたる部屋だ。六畳半ほどの空間に、帳簿や算盤が置かれた小さな文机がある。商人の仕事場といった風情だ。
襖が閉められると惣兵衛は改めて源一郎に向き直った。その表情は警戒の色が濃い。
「して、お武家様。何の御用で?」
「火付盗賊改方の渡辺だ」
腰裏の帯に挟んであった十手を引き抜いて見せると、源一郎は威圧感を込めて低く言った。
その一言で惣兵衛の顔色が一変した。さっと血の気が引き、額に汗が滲む。商人の笑顔が消え、強張った表情になる。ひゅっ、と喉の音が鳴り、唾を飲み込む音も聞こえた。
「か、火盗改の、お役人様で、ございましたか……」
惣兵衛は震える声で呟いた。その目には明らかな恐怖が浮かんでいる。両手が小刻みに震え、必死にそれを抑えようとしているのが分かった。
無理もない。火付盗賊改方は放火や盗賊、賭博など重大な犯罪を取り締まる未来でいう警察や公安、検察を合わせて割ったような組織だ。その権限は強大で、不審者を見つければ即座に捕縛し、必要とあらば拷問も辞さない。町奉行所の与力や同心とは違い、その人員は武官で構成されており、責めによる苛烈な取り調べを行うことから、町人たちからは非常に恐れられていた。
そして──この溜池周辺の茶屋は表向きは料理茶屋だが、実態は非公認の岡場所であった。女たちが客を取る、言わば半分花街、半分料理茶屋のような形態。芸者や仲居、茶屋女が客の相手をし、酒や料理を出すだけでなく、求められれば夜伽の相手もする――そんな場所だ。
吉原のような公認の遊郭ではない。幕府の許可を得ていない違法な営業。本来であれば取り締まりの対象となる。店は取り潰され、主人は非合法な売春を黙認し利益を得ていたとして、重ければ遠島や追放の厳罰。女たちも叱りや所払いの罰を受ける。
店主の惣兵衛が顔色を悪くして恐れるのも当然だった。惣兵衛も廻りの同心には付け届けをして目こぼしされていたのだろうが……まさか奉行所の同心より恐ろしい火付盗賊改方が来るなど思いもしなかっただろう。
「お、お手柔らかにお願いいたします……何卒……何卒っ……」
惣兵衛は床に手をつき、深く深く頭を下げた。その顔面は蒼白で額から汗が滴り落ちる。
「うちは、その……確かに女たちが客を取ることもございますが……決して大っぴらには……そう、ひっそりと……両人の合意のもとで決めております……で、ですので……どうか、どうかっ、お目こぼしをっ……」
言い訳が口からこぼれる。だが、その声は恐怖に震えていた。
「落ち着け。今日は取り締まりに来たわけではない」
源一郎が言うと、惣兵衛は顔を上げた。その目には驚きと、わずかな希望の色が浮かんでいる。
「え……?」
「話を聞きたい。そして──」
源一郎は声を落とした。背中を少し曲げ、耳打ちするように顔を近づける。
「この店に一人、密偵を潜り込ませたい」
惣兵衛は呆然と源一郎を見た。口が半開きになり、言葉が出ない。
「みっ、密偵……で、ございますか……?」
「ああ。知っているだろうが、山王祭が近い。期間中、赤坂と日枝神社周辺の見回りを任されていてな。情報を集めたいのだ」
源一郎は惣兵衛の目を覗き込んだ。
「この辺りは武家屋敷が多く、旗本や御家人、日枝神社の参拝者も多く出入りする。何か不穏な動きがあれば、この溜池周辺の茶屋で噂になるだろう」
「へ、へぇ、それは確かにそうでございますが……」
惣兵衛は小さく頷いた。まだ状況が飲み込めていないようだが、火付盗賊改方の役人が何を求めているのか理解し始めているようだった。
「お前の店に密偵を置かせてくれれば──」
源一郎は少し間を置いた。
「この店のことは今は見逃してやる」
惣兵衛は息を呑んだ。そして、その目に理解の色が浮かぶ。ほとんど脅しに近い条件ではあるが、火付盗賊改方の役人は目をつぶってくれる。それはこの店にとって願ってもない取引だ。岡場所としての営業も……とりあえず黙認してもらえる。取り潰しの恐怖から逃れられる。
だが同時に──断れば、どうなるか。
火付盗賊改方が直々に訪ねてきた。その意味は重い。協力すれば店は守られる。拒めば……惣兵衛は額の汗を拭った。震える手で懐から手拭いを取り出し、顔を拭う。
「か、かしこまりました。お役人様の仰せのままに……」
惣兵衛は深く頭を下げた。床に額をつけ、帰順の意を示す。
「た、ただ……その密偵というのは……」
「明日一人の娘を連れてくる。一時でいい。茶屋女として雇い入れてくれ」
「へぇ……」
惣兵衛は頷いた。まだ不安そうな表情だが、従う以外に選択肢はないと悟っている。
「分かりました。私も新しい女を雇い入れようと思っていたところでございます。ちょうど良いといえば、その通りでございます」
「客の話をよく聞き、情報を集めさせる。お前も協力しろ」
「ははぁっ!お役に立てれば幸いでございます」
惣兵衛は再び頭を下げた。その表情には安堵と、かすかな計算の色が浮かび始めていた。密偵を置くことで、逆に火盗改との繋がりができる。それは将来的に店を守る盾にもなるかもしれない。そう考えることにしたのだろう。
「ところでな──この辺りで最近、何か変わったことはなかったか?妙な客が来たとか、おかしな噂を聞いたとか」
源一郎は声を潜めた。その問いに惣兵衛は少し考えた。顔を上げ、記憶を辿るように目を細める。
「さぁ……特に変わったことは……」
惣兵衛は首を傾げた。そして思い出したように続けた。
「あぁ、ただ……」
「何だ」
「山王さまの所の神官様が……最近、一人お辞めになったと聞きました」
「神官?」
源一郎は身を乗り出した。日枝神社の神官。その内情について知っておいて損はなかった。
「へぇ。宮司様の縁戚で、兼嗣様と仰る方なのですが……まだお若い方だったのですが、神官を辞されたとかで」
惣兵衛は声を落とした。あくまで店内で聞いた噂話の範囲でという前置きで。
「神職の者がここで酒を飲んでいた時に、愚痴るように漏らしていたのを耳に挟みました」
源一郎は眉をひそめた。
「それで、どんな愚痴だ」
「……流石に詳しくは聞こえなかったもので。ただ以前から、夜に遊び歩いているだとか、宮司様との関係が良くないとか……そんな話は聞いていました。それが、少し前に急に神官を辞められて、姿が見えなくなったそうで……」
「姿が見えなくなった?どこへ行ったのだ?」
「さあ……行方知れずのようです」
惣兵衛はそれ以上は知らないのだと申し訳なさそうに言った。
「他には?」
「いえ……変わった出来事と言えば、それくらいでございます」
源一郎は頷いた。
日枝神社の神官、兼嗣。宮司の縁戚だったが素行に問題があり、神官を辞めて姿を消した――それが何を意味するのかは、まだ分からない。元々、縁の薄い赤坂の噂を集める目的に過ぎなかったが……神猿の話と合わさると若干の不穏さを感じずにはいられない。
「分かった。何か情報があれば明日連れて来る密偵の娘に伝えてくれ」
「へぇ、かしこまりました」
惣兵衛は深く頭を下げた。源一郎が腰を浮かせて立とうと思った時、一つ思いついた。
「それと──聞いておくが店で働く女たちは、どういう者たちだ?」
「へぇ」
惣兵衛は少し緊張した面持ちで答えた。
「芸者が二人、茶屋女が三人おります。それに仲居が一人。皆、真面目な娘たちで……」
「年齢は?」
「芸者は二十前後。茶屋女は十八から二十五まで。仲居は三十を過ぎております」
「どこから来た?」
「皆、江戸の生まれでございます。芸者は深川の出で、茶屋女は本所や浅草から。仲居は神田の出です。皆、生活が苦しいようで……」
惣兵衛は一人一人の素性を説明した。夫に先立たれた者、親が亡くなり行き場をなくした者、貧しさゆえに身を売った者……皆、それぞれに事情があった。
「分かった。明日連れてくる娘も同じように扱ってくれ。他の女たちには密偵だとは言うな。……それと、間違っても客を取らせるなよ」
「か、かしこまりました……」
源一郎は惣兵衛を睨みつけて凄むと、今度こそ立ち上がった。
「では明日また娘を連れてくる」
「へぇ、お待ちしております」
惣兵衛は深く頭を下げた。惣兵衛は源一郎が部屋を出ても、しばらく頭を下げたまま見送るのだった。




