第十九話
役宅を出て、源一郎は早速赤坂へと向かった。
麻布から赤坂へ。道中では立派な武家屋敷が増えていく。大名屋敷の白壁、重厚な門構え。町の雰囲気は本所や日本橋ともまるで違う。格式高く、歩いているだけでどこか緊張感があった。
そして、歩きながら思う──坂道が多い。赤坂という地名の通り、この辺りは起伏が激しい。源一郎は坂を登りながら、町を観察した。
武家奉公人が行き交い、大名屋敷の門前では槍持ちが立っている。商家もあるが日本橋のような賑やかさはない。もっと静かで、落ち着いている。格式を重視した店構えとでも言うのだろうか。
それに加えて、寺社も多い。赤坂は、武家と寺社の町だった。
そう、辺りを散策しながらも──源一郎はまず、日枝神社を目指した。山王祭の中心である日枝神社。平蔵に言われた通り、まずはここに挨拶をしなければならない。
日枝神社の門前では既に祭りの準備が始まっていた。提灯が飾られ、櫓が組まれている。祭り囃子の稽古だろうか、笛の音がどこからともなく聞こえてくる。
そして、遠くに大きな石段と鳥居が見えた。山王鳥居──上部に三角形の笠木が乗った、独特の形をした鳥居だ。朱色が鮮やかで、遠くからでも目立つ。
その奥に、荘厳な社殿が聳えている。
それこそが日枝神社──江戸城の裏鬼門を守る重要な神社であり、過去、比叡山の日吉大社から勧請された大山咋神と呼ばれる山の神を、神仏習合して天台宗の護法神──山王権現として祀った社だ。
源一郎は石段を登り始めた。
登るにつれ、視界が開けていく。小高い山の上からは江戸城周辺の町並みが一望できる。右手には江戸城の西の丸の巨大な屋根と、その周囲を取り巻く堀。更にその向こう、永田町から霞が関、桜田門方面にかけては、整然と並ぶ大名屋敷の白壁と、広大な庭園の緑が広がっている。
左手を見れば、起伏に富んだ赤坂の坂道が続き、谷間には組屋敷が密集し、高台には大名の屋敷が組屋敷を囲むように配置されている。江戸城下の立体的な構造が一目でわかる眺めだった。
台地の上に建つこの神社は、まさに「高みから都を守る」山の神に相応しい場所だった。武士の都、江戸の威容と秩序がここからは一望できる。
蝉の声が響き、湿気を含んだ風が吹き抜ける。石段を登るほどに、下の町のざわめきが遠くなり空気が澄んでいく。
境内に入ると、祭りの準備が進んでいた。
神輿が何基も準備されている。飾り付けも豪華だ。金色の装飾、色とりどりの幕。白装束の神職たちが忙しく動き回っている。
この神輿に加えて、山王祭前日の宵祭りには江戸城城下町の各町から山車が出され、社前へと集まることになる。町中を神輿と山車の行列が練り歩き、その祭礼行列は半蔵門から江戸城へと入り、将軍家が上覧を行ったのち、竹橋門から抜けることになるのだ。
源一郎自身、江戸で暮らす中で何度も見たことがある。だが、こうして祭礼の準備から見ると、その壮大さが身に染みてわかる気がした。
源一郎が境内を歩いていると──ふと、妙な気配を感じた。人の気配ではない。だが、妖の気配でもない。もっと清浄で、神聖な──
「よう、兄さん」
唐突に背後で声がした。
源一郎が振り返ると、社殿の脇、大きな木の根元に、一匹の猿がいた。
いや──ただの猿ではない。
神職の装束を纏った、猿の姿をした存在だ。上下とも白色の水干に袴の姿──いや、よく見れば袴には紋様が描かれている──をしていた。背丈は子供ほどもあり、二本足で立っている。顔は猿そのものだが、その目には知性が宿っていた。
神猿──神の使いだ。
源一郎は過去にも、妖怪や怪異、幽霊といった存在だけでなく、神の使いと呼ばれる存在にも会ったことがある。稲荷の白狐、天満宮の神牛。彼らは、あやかしとは違い、人の恐れではなく信仰によって力を得ている、神聖な存在だ。
だが、その神聖さに反して──目の前の神猿は、意外とフランクだった。
「おう、兄さん。噂は聞いてるぜ。妖怪、怪異、幽霊らとダチになってる人間がいるってよ。お前さんのことだろう?」
神猿が気さくに話しかけてくる。源一郎は少し驚いたが、すぐに姿勢を正して頭を下げた。
「日枝神社の神猿様ですね。火付盗賊改方与力、渡辺源一郎と申します」
「堅苦しいねぇ。まぁ、そういう挨拶も嫌いじゃないけどよ」
神猿は笑った。人間のように笑う猿──その光景はどこか不思議だが、源一郎にとってはある意味、見慣れたものだった。
「俺ぁ、『まさる』って呼ばれてんのさ。魔が去る、勝る、縁……色々な意味が込められててねぇ。人間どもは願掛けで、俺らの像を撫でては色々願い事をしていくよ」
「どうやらそのようで……」
神猿は少し得意げに言った。
日枝神社では、狛犬の代わりに神猿が置かれている。山の神である大山咋神の使いとして、猿が神聖視されているのだ。
「厄除けとか、商売繁盛とか、縁結びとか。母猿の像なんかは、子宝安産のご利益があるってんで、女の参拝者も多いんだぜ」
「それは……ありがたいことですね」
「まぁな。俺たちゃ、神様と人間を繋ぐ役目さ。人間の願いを神様に伝え、神様の加護を人間に届けるってな」
神猿はそう言って、源一郎をじっと見た。
「兄さんは今日はどうしたんだい?」
「はい。山王祭期間中の見回りを命じられています。まずはご挨拶にと」
「そうかそうか。ご苦労さんだねぃ」
神猿は木の幹に寄りかかり、頷いた。
「しかし、お前さん。本当に見鬼の才があるんだな」
「はい、生まれつきです」
見鬼の才──人ではない何かの存在が見える才能のことを言う。それはかつて他の神使にも言われたことのある言葉だ。霊魂である幽霊は比較的見えやすく、想いである妖怪や怪異は見えづらい。まして、神に仕える神使が見えるというのは特別なことであると。
「珍しいもんだ。しかも、才の持ち主が人を斬る役目を仰せつかった火付盗賊改方の役人ときた。まぁ……別に悪いって訳じゃないが。才を活かせねぇ役目なのは勿体ねぇわな」
「そうですか……」
才を活かせる役目──恐らくは神職や僧侶のことを言っているのだろう。
人には気味悪がられたり、変人扱いされることもある力だったが、この神猿は源一郎の才について肯定的に捉えているのだろう。源一郎は少し安堵した。
「──それじゃあ、俺は行くぜ。と……あぁ、そうだ。忘れてた。兄さんには言っとくが──どうにも最近、嫌な気が社に紛れててよ。どうせ近辺を見回りするってなら、ちぃと気をつけて見ててくれや」
「嫌な、気……ですか?」
「ああ。焦燥とか、苦痛とか、鬱屈とした空気ってのか……そういう気色の悪ぃもんが漂ってくんだよ。鬱陶しいったら、ありゃしねぇ。ったく、俺は鼻が良くねぇってのによぉ……どこから漂ってくんのかも、よくわかんねぇ」
神猿は境内を見回した。
「神域ってのは、清浄でなきゃならねぇんだがな……どうにも濁っちまってる」
「……」
源一郎は黙って聞いた。神の使いが感じる「濁り」──それは、人間の目には見えないものだ。そして、当然、源一郎にも見えるものではない。
「ま……そう心配することもねぇと思うけどな。祭りの力が全部洗い流してくれらぁ」
神猿はそう言って、ひょいと木の上へ飛び移った。
「じゃ、俺は戻るからよ。何かあったら、また声掛けてくれや」
「はい。よろしくお願いします」
源一郎が頭を下げると、神猿は木々の間に消えていった。
源一郎は少しの間、その場に立っていた。
神域の濁り──神猿が感じる嫌な雰囲気。それが何を意味するのか、まだ分からない。だが、何かが起きようとしている前触れのように感じられた──。
源一郎は気を引き締め、社務所へと向かった。平蔵に言われた通り、日枝神社の代表である宮司に挨拶をしておく必要があるのだ。
「御免。どなたかおられますか」
社務所の戸を叩くと、若い神職が出てきた。
「何方でしょうか」
「火付盗賊改方の渡辺と申します。山王祭期間中の見回りについて、宮司様に一言お伝えしたく」
神職の表情が、明らかに曇った。
火付盗賊改方──盗賊や放火犯を捕らえ、時には斬り捨てることもある役人だ。火付盗賊改方の役人は神域に穢れを持ち込む者として、神職からは忌避されることも多い。
「少々お待ちください」
神職が奥へと消え──しばらくして、神職が戻ってきた。だが、奥へは案内されない。
「宮司がお出になります」
やはり、中には入れてもらえないか、と源一郎は内心で苦笑した。仕方ない。火盗改方の者が神域に入るのは、あまり好まれることではない。さっきの神猿の反応が例外だっただけだ。
──それからしばらくして、宮司が戸口前に現れた。
六十を過ぎた頃だろうか。白髪に威厳ある佇まい。神職の白装束が、その厳格さを際立たせている。表情には明らかに眉をひそめる様子が見られた。
「火付盗賊改方与力、渡辺と申します」
源一郎は玄関先で丁寧に頭を下げた。
「山王祭期間中における諍いや騒動への警戒のため、赤坂周辺、及び日枝神社周辺を見回らせていただきます。何かお気づきの点がございましたら、お知らせください」
宮司は少し間を置いてから、短く頷いた。
「……そうですか、承知いたしました。よしなに」
その声は冷たく、言葉少なに拒絶の意が込められている。だが、火付盗賊改方の役目が幕府の命を受けている以上、拒むこともできないのだろう。
「では、これにて失礼いたします」
源一郎は再び頭を下げ、社務所を後にした。
まあ、こんなものだろう。火盗改方は人を斬る役目だ。神職から見れば、穢れそのもの。歓迎されないのは当然だった。
源一郎は気にすることなく境内を歩き始めた。
警備の要所を確認する。宝物殿の位置。裏手の道。逃走経路になりそうな場所。参道の屋台が並ぶであろう場所。
与力として、盗賊の視点でシミュレーションする。どこから侵入できるか。どこに隠れられるか。どう逃げるか。人混みに紛れてスリを働くならどこが良いか。喧嘩や騒ぎが起きやすいのはどこか。
前世の刑事ドラマの知識が案外役に立つ。犯罪者の心理を読む。それが、盗賊を捕まえる一助になっていた。
──ふと、源一郎は境内の端まで歩き、眺めを見下ろした。
眼下に広がるのは、武家地の整然とした景色。大名屋敷の白壁が整然と並び、その間に屋敷森の緑が広がる。そこに町屋のような雑然とした光景はほとんどない。
それに、江戸城の西の丸が、ここからならよく見える。将軍家の産土神として、この神社がいかに重要な位置にあるか──その意味を源一郎は改めて実感する。
祭礼の際、神輿はこの高台を下りて江戸城内へと入る。天下祭の格式の高さはこの立地からも窺える。平蔵は大きな問題は起きないと言っていたが……何かあった際の責任は想像以上に重いように感じられた。
境内を一通り見終えると、源一郎は石段を下りた。
これから毎日、赤坂周辺を見回る。日枝神社だけでなく、周辺の町や大名屋敷の周辺も。商家の並ぶ通り、裏路地についても怪しい動きがないか、目を光らせなければならない。
再び遠くから祭囃子の稽古の笛の音が聞こえてくる。高く、情感的な音色で、祭が近いことを知らせている──
「さて、行くか」
その音色を聞きながら源一郎は足を速めた。今日はまず、赤坂の町の地形を頭に入れ、怪しい場所がないか探す。赤坂近辺に住む、あやかし達に話を聞いて回ってもいいかもしれない。
祭りが終わるまでは油断できない。源一郎は赤坂の町を歩き始めた。見回りはこれからが本番だった。




