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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第十八話

 詰所内には既に数名の同心たちが集まっていた。陽が昇り始めたばかりだというのに、皆きびきびと動いている。刀の手入れをする者、書類を確認する者、密偵からの報告を聞く者。


 その反面、与力の姿はまだ見えない。与力の出勤時間は同心よりも遅く、帰るのは早い。何もなければ大体は、およそ10時くらいの鐘四つに来て、16時くらいの七つには帰ってしまう生活だった。


「これは、渡辺様」


 年配の同心、父──藤治郎の元部下であった権助が源一郎に気づいて声をかけてきた。顔に傷のある、いかにも場数を踏んだ風情の男だ。四十前後だろうか。


「あぁ、おはよう。権助」

「今日が正式な十手授与でございますな」

「ああ、流石に緊張している」


 源一郎が苦笑すると、権助も笑った。


「渡辺様なら大丈夫でしょう。期間は短いながらも……もう皆、実力を認めておりますから。何も案ずることはないかと」

「そうか?そうならば、よいのだが……」


 与力と同心。身分の違いは厳然とあるが、源一郎は堅苦しい上下関係を好まない。現場で共に働く仲間として、対等に接したいと思っている。もちろん、公の場では礼儀を守るが、普段はこれくらいが丁度良い。


「渡辺様、頭取がお呼びです。書院でお待ちになっています」

「あぁ、わかった」


 そう、若い同心──新八に声を掛けられる。彼は甚五郎捕縛の折にも同行した同心であり、まだ二十歳を過ぎたくらいの、理想に燃えた若者らしい目をしていた。


 源一郎は詰所を抜け、廊下へと出た。


 その渡り廊下の先に、平蔵の部屋がある。火付盗賊改方の長谷川平蔵。通称「鬼平」と呼ばれる、江戸でも屈指の名役人だ。厳しいが公平で、部下の面倒見も良い。その振る舞いから町民からは「今大岡」と呼ばれてもいた。


 部屋の前で、源一郎は一度深呼吸をした。


 緊張する。今日は特別な日となる。正式に十手を授けられ、与力として、火付盗賊改方の一員として正式に認められる。その重さを改めて感じる。


「失礼いたします。渡辺です」

「源一郎か。入れ」

「はっ」


 襖を開けると、平蔵が机に向かって座っていた。四十半ばを過ぎた頃だろうか。髪には白いものが混じり始めているが、背筋はまっすぐ伸びている。鋭い目つきだが、どこか温かみもある。


 源一郎は部屋に入り、正座した。


 部屋にいたのは平蔵だけではなかった。筆頭与力の高橋も同席している。四十後半くらいの実務能力に長けた与力で、火付盗賊改方における与力たちをまとめ上げている人物であった。


「源一郎、本日はおめでとう」


 高橋が穏やかに声をかけてきた。彼は源一郎が父、藤治郎が亡くなって以降、与力の職務を継ぐにあたり何くれと助言を与え、導いてくれた恩人の一人である。曰く、藤治郎とは同じ時期に与力の役目を仰せつかった同期であるらしい。


「高橋さん、ありがとうございます」


 その声に源一郎は深々と頭を下げる。それから高橋はニヒルに笑んで頷き、今度は平蔵の方へと視線を向けた。


 源一郎もつられて平蔵に顔を向けると、しかし、平蔵は微妙そうな顔をしていた。


「おいおい、こういう時はまず頭の俺から一言かけるべきだろう」

「おっと、それは失礼いたしました」


 平蔵が立ち上がった。その手には、紫の房の付いた黒塗り鉄製の十手が握られている。十手自体は質素な鉄の棒だ。だが、その重みは単なる金属の重さだけではない。


「渡辺源一郎」


 平蔵の声が、部屋に響いた。短い一言だが、言霊が込められているかのように、何か芯に響く力があった。


「お前は初仕事において、深川の盗賊一味を見事に捕らえ、続く浅草の夜鷹火盗の群においても手際よく一網打尽とした。その働きは目覚ましく、火付盗賊改方与力としての資質を十分に示した」


 源一郎は頭を下げたまま、聞いている。


「よって火付盗賊改方頭、長谷川平蔵より、ここに正式に十手を授ける」


 平蔵が十手を差し出し、源一郎は両手で受け取った。ずしりとした重み。鉄の冷たさが掌に伝わってくる。


「この十手は権威の象徴ではない。責任の証だ」


 平蔵の声は、低く静かだが胸に迫る響きがあった。


「これを手にする者は、人の命を預かる。軽々しく扱ってはならぬ。そして、この十手を抜く時は、必ず正義のためでなければならぬ」

「はっ!肝に銘じます」


 源一郎は深く頭を下げた。


 十手の重みが、ずしりと腕に伝わる。これは、ただの道具ではない。十手を持つからには、人の命を左右する権限、その責任、行使する覚悟が求められる。


「顔を上げよ」


 平蔵の声に、源一郎は顔を上げた。そこでは平蔵が微笑んでいた。厳しい表情の中に、温かみがある。


「源一郎。お前の父、藤治郎は優れた与力だった。だが、お前はお前だ。父の名に縛られる必要はない。お前自身の道を歩め」

「はい」

「期待しているぞ」


 平蔵が軽く頷き、高橋も源一郎に今一度声を掛けた。


「源一郎──いや、渡辺。火付盗賊改方与力として、お父上に劣らぬ働きを期待している」

「ありがとうございます。精進いたします」


 源一郎は改めて頭を下げた。


 ──部屋を出ると、廊下に他の与力たちが待っていた。平蔵たちと話をしている間に、いつの間にやら出仕していたらしい。皆、祝福の言葉をかけてくれる。源一郎は一人一人に丁寧に礼を述べた。


「渡辺、おめでとう」

「ま、これからよろしく頼むぞ。早くここのやり方に慣れ、人を使うことを覚えるのだな。いつまでも与力が現場に出ていては──」

「いやぁ、若いのに立派なものだ。ウチの倅なんぞなぁ──」


 与力たちの言葉は、それぞれに個性があって面白い。源一郎は先達である彼ら一人一人の言葉に丁寧に耳を傾けた。


 源一郎は詰所に戻った。どうやら同心たちも祝福してくれるようだった。


「渡辺様、おめでとうございます」


 権助が笑顔で近づいてきた。


「あぁ、ありがとう。権助」

「これで正式な与力様として認められた訳ですな。今日は祝い酒といきたいところですが……」

「まだ仕事があるからな」


 源一郎が苦笑すると、権助も笑った。


「その通りでございます。では、仕事が片付いたら、また皆で一杯やりましょう」

「ああ、その時はぜひ」


 源一郎は詰所の仲間たちを見回した。皆が手を止めて源一郎を見ていた。この人たちと共に、江戸の治安を守る。その責任の重さを、改めて感じる。


「──源一郎、まだいたか。少し話があったのを忘れていた。ちょっといいか」


 そこへ、平蔵がやってきた。源一郎は、平蔵と向き合った。他の同心たちは一歩下がり、こちらに注目をしている。


「はっ」


 源一郎は再び平蔵の書院部屋へと戻ることになった。


 §


 書院に戻ると、平蔵は机の上に地図を広げていた。


「もうすぐ山王祭があるだろう」

「はい」

「天下祭として、江戸最大の祭礼だ。将軍家も上覧される。警備は厳重にせねばならぬ」


 平蔵が地図を指差した。赤坂の日枝神社が描かれている。


「今現在手空きとなっているお前には、赤坂周辺の見回りを任せる。無論、天下祭の中心的である日枝神社も含めてだ」

「承知いたしました」


 源一郎は地図を見つめた。


 山王祭──前世の歴史の授業で習った記憶がある。江戸三大祭の一つ。いや、将軍が観覧することになる祭りだとして、天下祭として最も格式が高いとされている。何しろ江戸城内に民衆の担ぐ神輿が入ることを許された、唯一の祭礼だ。それだけ将軍家は日枝神社に祀られる産土神を重要視していたのだろう。その祭礼の見回りを任されるとは……


「責任重大ですね……」

「ああ。だが、そう大きな問題は起こらんだろう。精々が祭を前にして気の高ぶった民衆の牽制。騒ぎを起こした者の捕縛に、喧嘩の仲裁。町同士で仲が悪いこともあるが、そういった揉め事は奉行所同心に任せておけばいい」


 だから、そう気負うことはない、と平蔵が源一郎を見た。その目には信頼が宿っている。源一郎もそれに応えるように頷いた。


「祭りまでまだ幾らか日数がある。それまでに、周辺の様子を見て回れ。もしも怪しい動きがあれば、捕らえ、すぐに報告しろ」

「はっ」

「日枝神社にも一言挨拶をしておけ。火盗改方が周辺の見回りに入ることを伝えておいた方が良い」

「承知いたしました」

「うむ。では、行け」


 源一郎は部屋を出た。


 廊下を歩きながら、源一郎は十手を腰裏の帯に差した。ずしりとした重み。これが、与力としての証。腰が落ち着いて、気が引き締まる思いだった。


「山王祭か……よし」


 源一郎は決意を新たにした。必ず、無事に祭りを終わらせる。それが、十手を授けられた者の責任だ。

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