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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第十七話

 初夏の陽気は日に日に強まり、そろそろ梅雨入りも近い。朝のうちは爽やかだが、昼になると蒸し暑さが増してくる。町を歩く人々の額には汗が滲み、商人たちは店先に簾を垂らして日除けにしていた。空には雲が多く、湿った風が吹く。夏至を過ぎた頃の、どこか生暖かい空気。


 浅草の夜鷹火盗の群を捕らえてから、早ひと月が過ぎた。あの事件は──決して簡単なものではなかった。


 ──全ては、ひと月前の晩のことだ。


 その夜、源一郎は権助と若い二人、それと浅草の地理に詳しい同心、それに加えて権助の従える岡っ引きらを引き連れ、浅草寺の裏手へと向かった。そこで手分けして警戒に当たる手筈だった。


 観音裏──通称そう呼ばれる場所は、江戸でも定番の隠れた色里だった。表の仲見世は賑やかで華やかだが、一歩裏へ回れば景色が一変する。芝居小屋や見世物小屋、茶店や小屋、僧坊が密集し、影が深い。吉原への通りということもあって人通りは絶えないが、入り組んだ道が多く、役人の目は届きにくい。夜になれば更に警戒が緩む場所であった。


「──渡辺様、この先でございます」


 同行している権助が低い声で囁き、源一郎は頷いた。


 この数日、浅草の観音裏で夜鷹火盗の類による強盗が相次いでいた。夜鷹を装って近づき、裏路地へ連れ込み、仲間の男たちが取り囲んで暴力で脅し金品を奪う。更に悪質なことに、その集団内には逃げる際に火をつけて逃走する者がいるという。


 火をつける──それが、火付盗賊改方が動く理由だった。


 源一郎たちは観音堂の裏手、薄暗い路地へと足を踏み入れた。仲見世の喧騒は遠くなり、仄かな行燈の明かりが揺れるばかりで静かな闇が広がっている。そこは納屋や物置小屋が並び、迷路のように入り組んだ道であった。


 角を曲がると、小さな明かりが見えた。提灯の灯りの下、女が一人、壁に寄りかかって立っている。


 夜鷹だ──。


 年の頃は二十代後半か。薄汚れた着物を着て、髪は乱れている。顔には一応か白粉を塗っているが、日頃の疲れが滲み出ていた。


 源一郎たちは物陰に身を潜め──しばらくすると、一人の男が近づいてきた。やり手の手代風の身なりをした若い男──実は変装した同心の一人、田沼新吾であった。その新吾に夜鷹が声をかける。


「ちょいとお兄さん、人肌が恋しくはないかい──?」


 新吾──手代風の男は一瞬躊躇したように見えたが、女の少し気怠げな表情が色っぽく見え……本能には逆らえずに頷いた。


「ついといでよ。いいとこ、知ってるからさ」


 夜鷹が男の腕を取り、奥の路地へと引き込んでいく。


「……行くぞ」


 源一郎が権助に合図し、二人は静かに後を追った。


 路地は更に暗くなる。両側に小屋が立ち並び、密集しているせいで月明かりもほとんど届かない。夜鷹と男が、小屋の物陰へと消える。


 その瞬間──五人の男が飛び出してきた。


 強盗だ──しかして、その正体は借金や重い年貢から逃れたり、犯罪を犯して故郷から追放された農民などであり、戸籍のないまま江戸に流入してきた無宿人。彼らは短刀や材木を手にし、夜鷹の連れて来た男の周囲を取り囲んだ。


「金を出せ!」

「ごめんなさいね、助平は余所でしてちょうだいな。まぁ、一つお勉強になったと思っておくれよ」


 手代風の男が悲鳴を上げて見せ、夜鷹は彼の財布を抜き取ると、強盗の側に回った。


 だが、源一郎たちはその場面を見てもまだ動かない。もう少し待たなければならない。最大の目的である放火犯を捕らえるには、火をつける瞬間を押さえねばならないのだ。


 男から金を奪った強盗たちが手に持っていた棒で、男の正体も知りもせずに集団で殴りかかる。男は倒れて動かなくなったように見せ……強盗たちが逃げようとした、その時──。一人の男が、懐から火打石を取り出した。


「よしっ……!火ぃつけて逃げるぞっ……!」


 納屋の壁際には藁が積んである。男が火打石と火打金をカッチカッチと打ち、火花を散らせた。


「そこまでだ!」


 源一郎がすかさず飛び出す。すぐさま男の手を掴みあげ、その火付け行為を妨害した。


「な、何だ、てめぇ!」

「火付盗賊改方だ!神妙にお縄につけ!」

「ひっ……」


 火付盗賊改方の名を聞いて、夜鷹の女が悲鳴をあげる。同時に、倒れていたはずの新吾が跳ね起きた。格好は手代の風貌のまま、その表情が鬼とも見紛わんばかりに激変する。


「てめぇ……よくも好き勝手殴ってくれやがったなァ。観念しろ、コラァ!!」

「だ、騙したなっ!」


 強盗の一人が叫ぶが、手代に変装していた新吾は素早く動いて男の腕を取った。


「悪く思うなよ。これも務めだ。かかれ!」


 源一郎が号令を出すと同時に権助と岡っ引きも飛び出し、他の夜鷹強盗たちを取り押さえにかかる。だが──隙を突いて、その内の一人が逃げ出してしまった。


「くそっ!一人逃げたぞ!逃がすな、追え!」

「逃がすか!」

「俺が行く!」


 捕まえていた火付け犯の首根っこを手刀で打ち据え、気絶させる。そのまま源一郎は逃走した一人を追いかけた。


「渡辺様!こちらは我らにお任せを!」


 権助が叫び、その場に残った強盗の相手をした。


 路地を駆け抜け、男を追う。権助が呼子笛を鳴らしたのだろう、背後で甲高い音がした。男はそれでも必死で逃げるが、源一郎の方が速い。角を曲がったところで男の襟首を掴み、そのまま引きずり倒した。


「観念しろ!」

「ぐっ……ちくしょう!」


 男が暴れるが、源一郎は力で押さえ込む。六尺ある源一郎に比べ、強盗をした男の背は低く五尺と少し──この時代、平均身長が155センチほどである中、源一郎はとんでもない大男であった。無論、体格でも、力でも敵わない相手に為す術などない。


 そこへ、夜鷹が集まる他の地点を張っていた同心が駆けつけ始め──下手人を逃さないようにと、周囲を固めていた岡っ引きや、下っぴきたちも集まって来た。


「渡辺様、こちらは全て確保しました!」


 遠くで権助の声が聞こえる。源一郎はその男を同心に引き渡し、元の現場へと戻った。


 そこでは、火打石を持っていた男、金を奪った下手人たち強盗、そして夜鷹の女──全員が既に縄をかけられていた。


「この者たちを牢へ」


 源一郎がそう命じると、下手人たちはぞろぞろと歩かされていく。その中で、夜鷹の女が声を荒げた。


「ま、待ってちょうだい!御役人の旦那さまっ!あたしは脅されてただけなんだよ!」


 源一郎は振り返り、冷たく言った。


「騙されたかどうかは、それこそ詮議の中で明らかになること。大人しくしていろ」

「嘘じゃないんだよぉ!」


 女は憐れみを誘うように泣きながら訴えるが、誰も耳を貸さない。火付けに関わった疑いがある以上、裁きの場まで牢に繋がれるのは当然の流れだった。


 火付けは未然に防がれた。だが、話はもう少し続く。


 ──その翌日、火付盗賊改方の役宅では捕らえた者たちの吟味が行われ、源一郎は平蔵の部屋で事のあらましを報告していた。


「昨夜、浅草観音裏にて、夜鷹と強盗の一味を捕らえました。夜鷹が客を引き込み、強盗たちが取り囲んで金品を奪う手口です。そして、逃走の際に火をつけようとした者を視認確定、火をつける直前に取り押さえました」

「そうか」


 平蔵が頷いた。その声音いつも通りに低く、落ち着いている。


「源一郎。お前は奴らの処遇はいかほどと心得ている」


 源一郎は少し黙り、それから一呼吸おいてから続けた。


「……実行犯は市中引き回しの上で火刑、その他は獄門が相当かと存じます」


 平蔵も少し黙っていたが、やがて頷いた。


「そうだな。火付けは大罪だ。此度はなんとか直前に防げたが、これだけ重罪だと広めているというのに、それでも火付けを選ぼうとする大馬鹿者が多すぎる……今一度、綱紀を引き締めるためにも、見せしめが必要となるだろう」


 源一郎は複雑な思いで頭を下げた。


 前世においても放火は重罪だ。場合によっては死刑求刑も有り得る。だが、江戸の法では更に重く、火付けは大罪中の大罪だった。未遂であっても、故意犯には火刑──火あぶりという厳罰が科される。


 木と紙でできた江戸の町では、火事は最も恐れられる災厄だった。一度火が出れば、たちまち町全体が燃え上がる。多くの人命が失われ、財産が灰になる。だからこそ、火付けには容赦ない罰が下された。


 源一郎もそれは理解している。だが、火刑という同害復讐の意が込められた非人道的な刑罰には、受け入れがたい気持ちもある。現代人としての感覚と、江戸の火付盗賊改方役人としての立場の狭間──源一郎の心は揺れ動いていた。


 ──その後、判決は既に決まっていたようなものだったが、罪状の詳細な吟味が進められた。


 女は奉公先で問題を起こしたことで暇を出され、貧しさから夜鷹稼業に身を落とした。その後はしばらく夜鷹として生活を繋いでいたが、より楽な暮らしをするために無宿人たちと組んで強盗を働くようになった。火をつけたのは、逃走を容易にするためだったという。


 彼らの供述から、他にも同様の手口で金品を奪っていたことが明らかになった。被害者は十人以上。中には、激しく抵抗したせいで集団で暴行された結果、命を落とした者もいた。報告を受けた奉行所では、その下手人探しがこれから始まる、という所だったという。


 源一郎は、その後、被害者たちの話を聞く機会があった。


「金を奪われたのは悔しいですが……あの夜、もう少しで火事になるところでした。あの日から眠れぬ日々……!お役人様が下手人を捕まえてくださらなければ、江戸の町全体が燃えていたかもしれません……」


 火付盗賊改方に陳情した商人が涙を流しながら語った。火事が起きれば、自分の店だけでなく、周囲の人々の人生も破壊してしまう。火付けとは、個人の金品を奪うだけではない。社会全体へのテロに他ならない。


 一の小火を見過ごし大火となれば、万の人が死に、江戸は焼け野原になる──。それだけ江戸の町は火災に対して脆弱だった。


「ありがとうございますっ……!本当にありがとうございますっ……!」


 その言葉を聞いて、源一郎は少し救われた気持ちになった。


 自分の仕事は、町を守ることだ。人々の命を守ることだ。そのためには、時には厳しい判断も必要だと──。それが与力としての責任なのだと、改めて思い知った。


 ──そして、老中より裁きが下された。


 火付けの実行犯は火あぶり、他の夜鷹や強盗を行っていた男たちは獄門。全てが平蔵から提出された上申書の通りに、そして公開の場で執行されることとなった。


 その日の光景は、今でも刑場に立ち会った源一郎の目に焼き付いている。


 獄門に処された首が並び、男が火刑に処される。叫び声を上げ、炎の中で助けを求めた。しかし、やがて声は途切れ、皮膚は焼け爛れてゆく。周囲では町民たちがその凄惨さに息を呑み、中には目を覆う者もいた。だが──火付けを一つ許せば、江戸の町にその姿が溢れることになる。それだけは絶対に避けなければならないことだった。


 その光景を見ながら、源一郎は静かに手を合わせた。


 前世なら、こんな光景は見ることもなかっただろう。だが、今は違う。町の平穏を守るために自分が捕らえた者が、こうして命を失う。その重さを、しっかりと受け止めねばならない。


 それが、火付盗賊改方、与力としての職務だと思っていたからだ。


 §


 そして今──あの事件から、ひと月が過ぎた。


 源一郎は本所にある拝領屋敷を出た。


「坊ちゃん、行ってらっしゃいませ」


 おたかが玄関先で深々と頭を下げた。五十を過ぎた老女だが、背筋はまだしゃんとしている。この家に仕えて三十年。源一郎の父、渡辺藤治郎──諱を綱重と言う──の代から渡辺家を支えてきた、源一郎にとっては母代わりのような女だった。


「行ってくる」


 源一郎は笑顔で応じた。


 ふと庭の方を見ると、小さな影が縁側の上に座っていた。菖蒲だ。座敷童の少女が、小さく手を振っている。源一郎も彼女に手を振り返した。


「坊ちゃん、外ではお気をつけください。また変人だ、などと噂が立っては大変ですよ」

「分かっている」


 おたかには菖蒲の姿は見えない──。だが、この家を長年守ってきた座敷童がいることは知っている。源一郎が時折、誰もいない方角に話しかけ始めても、今のように何もない場所に手を振っても、おたかが今更不思議がることも不気味がることもない。


 ただ、その消えない汚れように染み付いて取れない噂が源一郎の婚期を遠ざけていることには、一言──いや、二言、三言言わずには気が済まないらしかった。


 源一郎は逃げるように門を出た。


 本所の町は既に目覚めている。長屋から人々が出てきて、井戸端で顔を洗っている。棒手振りが威勢のいい声を張り上げ、納豆売りの「なっとぅ~」という掛け声と鈴の音が響く。朝餉の支度をする煙が、あちこちの家から立ち上っていた。


 ──空を見上げると雲が分厚い。いつの間にやら梅雨入りが近い季節になっていた。


 源一郎は大通りへと歩を進めた──。


 今日は特別な日だった。火付盗賊改方の与力として、正式に十手を授けられる日。


 前世なら、これで「試用期間終了」とでも言うのだろうか。いや、それよりも──正式に仲間として認められた、ということの方が近いかもしれない。組織の一員として、正式に迎え入れられる。


 その十手は、ただの辞令ではない。前世を基準に言うなれば警察手帳のようなもの。身分を証明し、権限を示すもの。しかし、その一方で──権限の行使が人の生き死に影響する分、その責任の重さは現代の感覚とは比べものにならないように、源一郎には感じられていた。


 源一郎は両国橋へと向かった。


 隅田川に架かる橋は、既に多くの人で賑わっていた。魚河岸へ向かう商人、大工道具を担いだ職人、野菜を天秤棒で運ぶ棒手振り。人々は皆、活気に満ちている。


「おぅっ!兄さん、今日もいい朝だねぇ!」


 橋のたもとで、魚売りの男が声をかけてきた。


「ああ、いい朝だな」


 源一郎は笑顔で応じた。


 前世では、見知らぬ人間に声をかけられることなど、ほとんどなかった。だが、江戸では違う。人々は顔を合わせれば挨拶を交わし、世間話をする。『噂』によって危険を知り身を守る。それがこの町の防犯の術であり、温もりだった。


 両国橋を渡り、日本橋へと向かう。


 町の様子が少しずつ変わっていく。本所の下町から、商人の町へ。呉服屋、両替商、薬種屋。未来でも名前が残るような大店が立ち並び、活発に人が出入りを繰り返している。


「ようこそおいで下さいました。こちらが今流行の──」

「今朝は鱚がいいよ!天ぷらにゃあ最高だ!よっ、お姐さん、どうだいっ」

「握り飯ー、握り飯はいらんかぃー」

「だんごぉ〜、花より団子〜、焼きたてだよぉ!」


 棒手振りの声はどこにいても聞こえてくる。朝日が昇るにつれ、町全体が明るさを増していく。だが、日差しは既に強い。歩いている内に額に汗が滲む。本格的な夏が近づいてきている。


 源一郎は日本橋を越え、さらに江戸城方面へと歩を進めた。


 武家屋敷が増えてくる。白壁の塀、重厚な門構え。槍持ちが門前に立ち、行き交う者を見張っている。町の空気が、少しずつ引き締まっていく。


 桜田門外に位置する大名屋敷街より南──麻布。火付盗賊改方の役宅は、江戸城の程近くにあった。


 白い土塀に囲まれた屋敷は、質素ながらも威厳を感じさせる佇まい。門には槍持ちが立ち、訪れる者を逐一見張っている。その目は鋭く、通り過ぎる者一人一人を値踏みするかのようだ。


 しかし──


「渡辺様、お早うございます」


 門番が丁寧に頭を下げた。源一郎の顔はこの屋敷の主──長谷川平蔵の陪臣である彼らには、既に覚えられている。


 出仕し始めてからそう時はたっていないが、源一郎は既に手柄を立てている。その上、門番である彼らに対しても源一郎の人当たりは悪くないので、関係は良好だった。


「あぁ、おはよう」


 そう、源一郎は軽く会釈して役宅の門をくぐった。


 

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