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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第十六話

 夕方──源一郎は日本橋の高級居酒屋で熊造や同心たちと酒を酌み交わしていた。


 小さな店だが清潔で料理もうまい。客も数人いるが過剰に騒ぐことなく、皆静かに飲んでいる。行灯の明かりが店内を柔らかく照らしている。


「いやあ、若旦那と飲めるなんて光栄なことでさぁ」


 熊造は嬉しそうに杯を傾けた。その顔は赤く染まり始めている。


「そんな大げさな」

「いえいえ!与力様と岡っ引が一緒に酒を飲むなんて珍しいことですよ」

「そうなのか」

「ええ。そりゃもう、身分が違いますからね。でも若旦那は違う。あっしら岡っ引きや下っ引きまで、ちゃんと人として扱ってくださる。先代もそうでした」


 熊造は感謝の目で源一郎を見た。その目には本物の情と恩義とがある。故に、ただの職務上の上司としてではなく、源一郎を──正しくは恩人である父の藤治郎の息子として見ている目。恩を返すために、自身が支えなければと考えているのだろう。


「あっしは、若旦那とこれからも共に働きてぇ。微力ながら力添えさせていただきやす」

「ああ、こちらこそ頼む」


 源一郎は杯を掲げ、二人は杯を合わせた。陶器がぶつかる音が小さく響く。周囲では他の同心たちも楽しげに酒を飲み交わしている。


 酒を飲みながら今回の事件のことを振り返った。丸屋の盗み、甚五郎の逮捕、そして裁き。色々なことがあった。まださほども時は経っていないのに随分と長いことのように感じる。


「それにしても」


 熊造が言った。


「若旦那はよく犯人の手口を見破りましたな。屋根から入るのも、盗品の隠し場所だって普通気づきませんでしょう」

「ああ、まあ色々とな」


 源一郎は曖昧に答えた。妖怪が見えることは秘密だ。平蔵はその人を見る目が鋭すぎて早々に見破られてしまったが……あとは、乳母のおたかと幾人かくらいで、源一郎が人ではない者が見えることは知らない。


「……実は、先代から聞いたことがあったんでさぁ。若旦那は時折、目には見えない者たちと会話してるって。流石にこの目で見るまでは半信半疑でしたが」

「父上から聞いていたのか」


 熊造は声を潜めた。周囲に聞こえないように配慮している。


「へぇ。でもまぁ、あっしは誰にも言いやしやせんよ。それが若旦那の力なら大事にしなきゃいけねぇ。変わり者だなんて言われたら若旦那も困りますでしょうからね」


 熊造は真剣な顔で言った。その目には源一郎を守ろうとする意志が宿っている。


「御頭様も若旦那のことご存知なんですかい」

「ああ、知っている。というより、見破られてしまった」

「そうですか……御頭様は懐の深い方ですから、きっと大丈夫でしょうが」

「ああ、そうだと思う」

「良い上役に恵まれやした」

「本当にな」


 源一郎は心からそう思った。平蔵という上役に恵まれたことは本当に幸運だ。


「気を遣わせるようで、すまんな」

「いえいえ。それにあっし、思うんですけどね。その力があるから若旦那は人の心が分かるんじゃねぇかと」

「人の心?」

「へい。見えないものが見える。そりゃあ──人の見えない部分も見えるってぇことだ。吉蔵たちの苦しみも、甚五郎の悪意も。全部まるっと見えちまってるんじゃねぇかと」


 熊造の言葉に源一郎は少し考えた。確かに、あやかし──妖怪や怪異、幽霊の類が見えるということは、人には見えないものを目に映しているということ。だとすればそれは、目には見えない、人の心の奥底をも見通すことが出来ると言い換えられるのかもしれない。


 だが……


「それはどうだろうな。人間ってのはそんな簡単なもんじゃないだろ」

「はは。だから若旦那はお優しいって話ですよ。人の弱さと痛みが分かってらっしゃる」


 熊造は杯を傾け、源一郎も一つ飲み下した。美味い酒だ。味は兎も角、この世に生きていると実感することができる。


 酒が進み、料理が運ばれ、夜は更けていく。焼き魚、煮物、漬物。前世と比べれば、どれも素朴な料理だが美味い。酒ともよく合う。


 外からは日本橋の活気ある夜の賑わいが聞こえてくる。幾つもの提灯の明かりが通りを照らし、御座敷遊びにでも興じているのか遠くで三味線の音と楽しげな声が聞こえる。この町の活気が源一郎を包んでいる。


 ──二人はそれから他愛もない話をした。江戸の町のこと、最近の出来事、面白い噂話。酒が入ると話題は尽きない。そして、夜も更けた頃、皆は店を出た。


「では、渡辺様、私共はこれにて」

「あぁ、明日からもよろしく頼む」

「はい、共に江戸に蔓延る悪逆の輩を懲らしめてやりましょう!」


 酒が入って気分良く、呵々と笑い合う。


「──それじゃあ、若旦那、夜道にお気をつけて」

「ああ、お前もな」


 皆と別れると……源一郎は一人、本所への暗い夜道を歩き始めたのだった。


 §


 夜も更けた頃、源一郎は本所の屋敷へと帰った。


 月が中天に昇り、町は静けさに包まれている。遠くで犬が吠え、風が木々を揺らす音が聞こえる。日本橋とは異なり、本所の夜は本当に静かだ。星が無数に輝いている。前世ではそうそう見ることのできなかった星空だ。


 屋敷に着くと門をくぐり母屋へと向かった。


 乳母のおたかが行灯の明かりの中で待っていた。その顔には安堵が浮かんでいる。いつものように源一郎の帰りを待っていたのだ。


「お帰りなさいませ、坊ちゃま」

「ただいま。待っていたのか?遅くまで悪かったな」

「いいえ。お疲れでしょう。お風呂の支度をしておきましたよ」

「すまない。ありがとう」


 源一郎は風呂に入り一日の疲れを洗い流した。


 湯に浸かりながら今日一日のことを思い返す。処刑、報告、同心たちとの会話、熊造との酒。色々なことがあった。


 初めての事件を無事に解決できた。黒幕まで捕らえた。今回のことで、部下となる同心たちには一先ず、同じ職場で働く同士として認められたと見ていいだろう。


 源一郎は少し安堵した。だが、同時に命の重さも知った。人を裁くということの重さを。甚五郎の首が落ちる瞬間。あの光景は当分は忘れられそうにはなかった。


 風呂から上がり部屋に戻ると──。


 座敷童が部屋の隅に座っていた。小さく、希薄にも映る姿だがその存在はどうしてか温かい。源一郎にとって長い付き合いの友人だ。


「お帰り、源一郎」


 座敷童──菖蒲の小さな声が聞こえた。


「ああ、ただいま」


 源一郎は笑った。菖蒲にただいま、と伝えると、どうしてか、ようやく家に帰ってきたという気がする。


「事件、終わったの」

「ああ、終わった」


 菖蒲は少し首を傾げた。その黒い目が源一郎を見つめる。


「疲れてる顔してる」

「そうだな、少し疲れた」


 源一郎は畳に座り込んだ。菖蒲も静かに隣に座る。二人は並んで月明かりの差し込む庭を見た。


「悪い顔の人、死んだ」

「ああ」

「でも、源一郎、悲しそう?」


 菖蒲の声は静かで平坦だが、心配の色が滲んでいる。


「悲しいとは違うんだが……人が人を裁くのは重いんだよ。本当に正しいのか考えてしまうから」


 源一郎は正直に答えた。菖蒲には何でも話せる。この小さな妖怪は源一郎の秘密を知っている。妖怪が見えることだけではなく、未来の知識を持った転生者であることも。


「人間は難しい」


 菖蒲が呟き、源一郎が微笑む。その言葉は単純であるが故に真をついていた。


「そうだな。人間は面倒なんだ」


 源一郎は同意した。善人の顔をしながら平気で悪行を行う者もいるし、元は悪人であっても改心して善行に目覚める者もいる。人間は複雑で一筋縄ではいかない。


「妖怪より複雑」

「そうかもしれないな」

「源一郎は優しいから悪い人のことも考えちゃうんだね」


 菖蒲が源一郎を見た。その目は澄んでいる。人ではない妖怪の目だ。だが、人間よりもある意味では純粋な目。そのまま菖蒲は小さな手を源一郎の手に重ねた。冷たく、子供のように柔らかい感触。


「……そうだろうか。本当は俺の心が弱いだけなのかもしれない」

「別にどっちでもいいと思う。源一郎は、源一郎」

「……ふ、そうか、そうだな。ありがとう、菖蒲」


 源一郎は座敷童の頭を撫でた。小さく柔らかい感触。この存在がいつも源一郎を支えてくれる。


「お前はいつも俺を励ましてくれるな」

「だって、源一郎は私の友達だから」


 菖蒲は嬉しそうに笑った。その笑顔は幼く、純粋だ。


 源一郎は縁側に出て夜空を見た。月が綺麗に見える。星も瞬いている。江戸の夜は静かで美しい。だが、この美しさの裏には様々な闇がある。そして、源一郎はその闇と向き合っていくことを選んだ。


 この町の平穏を守る。それが源一郎の仕事だ。──重い役目だ。だがやりがいもある。


 そして、こうして座敷童のような存在たちも源一郎を支えてもくれている。おたかや渡辺家の奉公人たち、火盗改方の仲間もいる。全てを一人で背負う必要はない。支え合って、生きていく。それでいいのだ。


「さて、明日もまた役目だ。俺はもう寝るよ。あまり騒がしく遊ばないでくれよ?」

「前向きに検討する」


 座敷童は縁側の廊下の奥へと消えていった。小さな足音が遠ざかる。源一郎は、座敷童のどこぞの政治家のような物言いに苦笑しながら床に就いた。


 疲れていたが心地よい疲れだった。


 明日からまた新しい日々が始まる。


 火付盗賊改方、与力としての日々が。

 

 §


 翌朝、源一郎は早くから役宅へと向かった。


 初夏の朝は清々しい。川風が心地よく町は朝の活気に満ちている。豆腐屋の笛が聞こえ、魚売りの声が響く。商人が店を開け、職人が仕事を始め、町全体が動き出す。江戸の朝は変わらず今日も始まっている。


 役宅に着くと、詰所にはすでに他の与力たちや、同心たちが集まっていた。


「渡辺様、おはようございます」

「おはよう」


 源一郎は挨拶を交わし自分の席に着いた。報告書を整理し、次の仕事に備える。昨日までの事件の書類を紐で結い止め、片付ける。


 同心たちが源一郎の周りに集まってきた。


「渡辺様、次の役目は何でしょうか」

「まだ聞いていないな。この後、頭取から指示があるだろう」

「渡辺様と共に働けるのを楽しみにしておりますよ」


 権助が言い、他の同心たちも頷いた。それからしばらくすると平蔵が詰所に現れた。


「皆、集まったか──では本日からの役目を割り振る」


 平蔵が言うと与力、同心たちが姿勢を正した。定例──おおよそ週に一度、新たに仕事が割り振られることになっている。


「まず日本堤で賭場の摘発がある。神保、同心五人を率いて向かえ」

「はっ」

「次に小田切。本所で先日、小火があった。同心三人を率いて放火疑いの調査を指揮せよ」

「はっ」


 その後の順々に名と担当が振り分けられ、とうとう源一郎の番となった。


「──そして、渡辺」


 平蔵が源一郎を見た。


「お前には新しい事件を任せる」

「はっ、新しい事件ですか」


 源一郎は姿勢を正した。周囲の与力、同心たちも注目している。


「ああ、浅草でどうにも厄介な事件が起きているようだぞ」


 平蔵は一枚の紙を源一郎に渡した。源一郎はそれを受け取り目を通す。


「夜鷹と盗人が徒党を組み通行人を襲っている。夜鷹が客を誘い、人気のない場所に連れ込む。そこで盗人たちが襲いかかり金品を奪う。さらには、追っ手を撒くために放火までしているそうだ」

「……夜鷹火盗の群ですか」


 権助が驚いた声を上げた。他の与力同心たちもざわめく。


「ああ。宝暦年間にも同様の事件があった。あの時は多くの被害者が出た。今回も同じ手口だ」


 平蔵の声は厳しい。


「判明しているだけで、すでに三件の被害が出ている。一件目は商人が襲われ、金を奪われた。二件目は大工が襲われ、道具まで奪われた。三件目は高利貸しが襲われ殺された上に放火があった」

「悪質ですな」


 筆頭与力の高橋が唸った。源一郎は紙を見る。そこには事件のあらましが記されている。被害者の名前、場所、時間帯。どれも夜の浅草で起きていた。


「ああ。だから早急に捕らえなければならん。これ以上被害者を出すわけにもいかぬ。放っておけば江戸が火の海になるぞ」


 平蔵は源一郎を見た。その目には若き与力が成長することへの期待の色がある。


「渡辺。お前に任せる。同心を四人つける。岡っ引きを使い情報収集から始めよ」

「承知いたしました」


 源一郎は頷いた。新しい事件だ。また一筋縄ではいかない事件になりそうな予感がする──。


「気をつけろ。相手は凶悪な連中だ。夜鷹は女だが、盗人たちは反抗してくるだろう」

「はい」

「それと──」


 平蔵は声を潜めた。他の与力同心たちには聞こえないように。


「──お前の力も使え。見えるものがあるなら全て活かせ」


 源一郎は平蔵を見た。この人は本当に理解している。使えるものは全て使う。そうでなくては、この広大な江戸という百万人都市を守ることなど到底叶わない。


「うむ。──では、皆、ゆけ。悪党どもは待ってはくれぬぞ」

「はっ!」


 平蔵の指示で与力、その指揮下にある同心たちはそれぞれの仕事に散っていった。源一郎も立ち上がった。初めて扱う緊急性の高い事件だ。緊張が走る。だが、怖じ気づいてなどいられない。


 周囲の同心たちが源一郎に注目している。


「権助、お前も来い。今夜から張り込みだ。準備を整えておけ」

「はっ」

「他に我こそはという者はいるか」

「渡辺様、私をお連れ下さい。浅草には少し伝手があります」

「私も!剣の腕には少しばかり自信がございます!」

「私を是非お使いください!必ずお役に立てるかと!」


 幾人かの同心が声を上げた。源一郎は申し出た同心たちの中から最も適したと思われる三人を選んだ。


 内二人は血気盛んな若い同心だ。源一郎と同じか下くらいの年齢の者たち。新たな与力に顔を売りたいという思いは当然あるのだろうが、その熱量もまた本物であろう。


 人選も終えると、源一郎は詰所を出た。一足先に浅草まで行き、早速聞き込みをしなければならない。そういえばと、源一郎は父である藤治郎の手記に、浅草を根城とする岡っ引きの名が書いてあったことを思い出す。その者にも会っておかなければならない。


──夜鷹火盗の群。凶悪な事件だ。一刻も早く下手人を捕まえなければならない。


 役宅の外に出ると初夏の陽射しが眩しかった。空は青く、大きな雲が流れている。源一郎は編み笠を片手に、浅草への道を歩き始めた。


 人と、あやかしの『あわい』に立ちつつも、この広大な江戸の町を守るため──火付盗賊改方与力、渡辺源一郎綱守の物語はまだ始まったばかりであった。


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