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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第十四話

 甚五郎の自白から三日後。火付盗賊改方は職掌上、若年寄の配下であったが、裁判権を握る更に上の役──老中より吉蔵たちの裁可が下っていた。


 火付盗賊改方の御白洲は役宅の奥にある。板敷きの部屋で上座には平蔵が座りその両脇に与力や同心たちが控えている。奉行所の公の物とは異なり、簡素な御白洲の中央には縄で縛られた吉蔵、清次、若い手代の三人が座らされていた。


 その顔は長い牢暮らしで更にやつれている。目の下には深い隈ができ、頬はこけ肩は落ちている。罪の重さが心身を蝕んでいるのが見て取れた。


 源一郎も与力として平蔵の脇に座っている。初めて参加する御白洲の場だ。前世の裁判所とは異なり、簡素であるが故の厳粛な空間。装飾も何もない板敷きに畳の部屋。その屋外、下段には白砂が敷かれた空間がある。


 人の運命を決める言葉がここで交わされる。その重さが空気を張り詰めさせていた。


 御白洲には他の与力や同心たちも居並んでいる。皆、真剣な表情で三人を見つめている。この裁きを見届けるために集まった者たちだ。ベテランの同心たちは今回のことで既に源一郎の働きを認め始めている。初仕事で黒幕まで捕らえた、その手腕を評価する目が源一郎に向けられていた。


 平蔵が口を開いた。その声は低く重く御白洲全体に響く。部屋中に静寂が満ちる中、その声だけが明瞭に届く。


「吉蔵、清次、そして新助。お前たちの丸屋から反物を盗んだ罪。ここに御老中の裁可を伝える」


 三人は頭を下げたまま何も言わない。ただ震えている。運命を待つ者たちの姿だ。背中が小さく見える。


 火付盗賊改方は、逮捕してから独自に詮議を行ったが、本来、それ以上の判決を下せるほどの裁判権はない。故に、裁きは火付盗賊改方頭取の上申を元に老中が下す。平蔵はその沙汰を伝える役目を担っており、裁定の言葉を代弁する者としてこの場に立っていた。


「──盗んだ反物は総額にして三十両相当。これは重罪である」


 平蔵の声は厳しい。その目は三人を見据えている。三十両。町人の三年分の生活費に相当する。その重みが御白洲の空気を更に重くする。


「通常であれば遠島もしくは追放となるところだが──」


 平蔵はそこで言葉を切った。三人は息を呑んでいる。源一郎も固唾を呑んで見守っている。周囲の同心たちも息を潜めている。


「お前たちは賭場の元締め甚五郎に脅されていたこと、家族を守るためであったこと、これらの事情が酌量され刑が軽減された」


 三人は顔を上げた。希望の光がその目に宿る。涙が頬を伝い始める。


「──吉蔵と清次は入れ墨に百日入牢、新助は百日入牢とする」


 三人は安堵と驚きが入り混じった表情をした。遠島ではない。入牢だ。百日。それなりに長い期間だが、それでも遠島よりははるかにましだ。江戸を離れずに済む。家族と会える。戻ることができる。


 だが、入牢は決して軽い罰ではない。


 小伝馬町の牢屋敷に送られ、そこで百日を過ごす。牢内は役人ではなく、囚人の中から選ばれた牢名主という者が実質的に支配している。新参者は付け届けがなければ牢名主に折檻を受け、食事も寝る場所も最悪のものを与えられる。家族からの差し入れがなければ、まともな食事にもありつけない。病が蔓延し、寒さと飢えで命を落とす者も多い。百日──その日々は地獄のようなものだろう。


 そして、吉蔵と清次には入れ墨が施される。腕に罪人の証が刻まれる。一度刻まれた入れ墨は消えることはない。一生、罪人としての烙印を背負って生きることになる。世間の目は冷たい。職を得るのも難しくなるだろう。それでも──遠島よりはましだ。江戸にいられる。家族と共に生きていける。


「ありがとうございますっ……!」


 吉蔵が頭を深く下げた。その声は震えている。涙が頬を伝い床に落ちる。


「本当にありがとうございます……!」


 清次と新助も涙を流しながら頭を下げた。三人とも床に額をつけて平蔵に感謝を示している。その背中が震えている。二十年以上前から店に尽くしてきた吉蔵。家族を持ちながら道を踏み外した清次。まだ若く、将来があった新助。三人それぞれの人生がここで一度終わり、そして新たに始まることになる。


「だが、忘れるな」


 平蔵の声は再び厳しくなった。その目が三人を見据える。


「入牢は決して楽な罰ではない。小伝馬町の牢屋敷に送られ、百日の間そこで過ごす。牢の中は牢名主と呼ばれる罪人が支配しており、満足に食事を取ることも寝ることも出来ない。病が蔓延し、寒さと飢えで命を落とす者も多い」


 三人の顔が青ざめる。だが、平蔵の言葉は続く。


「だが、それでもお前たちは生きて帰ってこなければならぬ。家族が待っている。百日後、必ず牢から出て、真面目に働け」


 三人は頷く。百日。牢名主の仕置、飢え、寒さ、病。その全てに耐えなければならない。だが、それでも遠島よりはましだ。江戸にいられる。家族と再会できる。


「そして、吉蔵と清次には入れ墨が施される。腕に罪人の証が刻まれる。一生、その烙印を背負って生きることになる」


 平蔵の声は重い。


「それでもお前たちにはまだ未来がある。入牢を終えた後は二度と罪を犯すな。賭博にも手を出すな。家族のためにも己のためにも真面目に働け。それができるか」

「はい、必ずっ」


 吉蔵が力強く答えた。その声には決意が込められている。


「清次、新助、お前たちもか」

「はい……!」

「はいっ……!」


 二人も力強く答えた。


「ならば良し。奉行所に引き渡す。連れて行け」


 平蔵の指示で同心たちが三人を連れて行った。三人は何度も何度も頭を下げながら御白洲を後にした。その背中には希望が宿っている。百日後。彼らは牢から出て新しい人生を始める。その日を信じて。


 裁可が終わり、平蔵は源一郎を見た。


「人が人を裁くというものは難しいものだ。だが、避けては通れん。源一郎、お前もそれを心得ておけ」

「はい」


 源一郎は深く頭を下げた。


「今回は丸屋三郎兵衛が情状酌量を願い出たからな。老中への上申にその旨を記した。そして結果として軽減された」

「はい、承知しております」


 平蔵の言葉には重みがある。上役への上申。それは言うほど容易なことではない。だが、平蔵は三郎兵衛の願いを聞き入れた。旗本という特権階級にありながら、町民の声を尊重した。それが平蔵という人物の器の大きさだった。


「だが、罪は罪。甘くはできん。百日の入牢は決して軽い刑ではない。牢の中はこの世の悪の坩堝、地獄に他ならん。出牢するにはその全てに耐えなければならぬ。獄死する者も多い。それでも──遠島よりは再起の目はある」

「はい」

「そして──甚五郎は別だ」


 平蔵の目が鋭くなった。その声には怒りが込められている。


「あやつは黒幕だ。賭博場を開き、借金漬けにすることで多くの者を脅し、盗みまでさせていた。過去にも同様の犯行を繰り返しており、到底許されることではない」

「はい」

「甚五郎は死罪とする。明日、鈴ヶ森で処刑される手筈だ」


 源一郎は頷いた。それが甚五郎の罪に対する罰だ。賭場開帳、盗品売買、脅迫、盗みの教唆、そしてその常習性を鑑みた裁可が下りている。その罪は重い。命をもって償うしかない。


「分かりました」

「では、源一郎。お前も見届けろ。与力として人の死を見届けることも仕事の一つだ」

「はい」


 源一郎は御白洲を後にした。


 廊下を歩きながら源一郎は少し複雑な気持ちになった。吉蔵たちは入牢、甚五郎は死罪。それがこの時代の裁き。


 前世ならもっと違う裁きがあったかもしれない。もっと軽い刑、もっと更生の機会。弁護士がいて証拠を精査して何度も裁判が行われて……だが、この時代ではこれが当たり前だ。それでも平蔵は上申し、老中は情状を斟酌してくれた。百日入牢──決して軽くはないが、それでも遠島よりははるかにましだ。


 重い裁決。だが、それが現実であり、この時代の正義だった。


 §


 翌日、甚五郎の処刑が行われた。


 処刑場は鈴ヶ森にある。江戸城を中心として町へ至る南の入口。東海道沿いの人里離れた場所だ。罪人たちはここで命を落とし、その屍は無縁仏として葬られることになる。生と死の境界とも言える場所であった。


 源一郎は鈴ヶ森に処刑を見届けに来ていた。火付盗賊改方の者として処刑を見届けるのも職務の一つ。自分たちが捕らえた罪人がどのような最期を迎えるか、それを見届ける責任がある。


 朝の空気はまだ冷たい。夏至も近いこの時期だが、明け方の鈴ヶ森は肌寒い。海が近いためか遠くで鳥が鳴き、潮風が草を揺らす。


 処刑場にはすでに多くの人々が集まっていた。見物人だ。この時代処刑は公開で行われる。見せしめのためだ。罪を犯せばこうなるという警告。それが江戸の秩序を保つ方法の一つだった。


 見物人たちは様々だ。野次馬もいれば真剣な顔で見つめる者、子供を連れた親もいる。現代人の感覚を持つ者としてはどうかと思ったが、それがこの時代の教育なのだろう。罪を犯せばこうなると子供の内に見せておくのだ。聡い子供は恐怖し、それだけで社会の規範を理解する。


 商人もいれば職人もいる。武士の姿も見える。僧侶の姿もある。そして──あの母子の姿も。身分を超えて人々が集まっている。


 源一郎は複雑な気持ちでその光景を見ていた。前世ではこんな光景は見たことがなかった。死刑はニュースで報道されるだけで、事前に執行される場所も時間も出回ることはなく秘密にされていた。だがこの時代では公開が当たり前だ。


 ──陽が昇り始める。朝日が処刑場を照らす。その光が現実味を増す。


 やがて甚五郎が連れてこられた。


 縄で縛られたまま処刑台に引き出される。その顔には諦めと恐怖が浮かんでいる。あれほどふてぶてしかった男が今は怯えている。死を前にして人は平等になる。身分も金も関係ない。ただ一人の人間として死に向き合う。


 甚五郎の目が源一郎を捉えた。一瞬、何かを言いたげな表情を浮かべる。だがすぐに俯く。もう何を言っても無駄だと悟ったのだろう。


 首切り役人が刀を構える。その動作は淡々としている。これまで何度も繰り返してきた動作。人の命を奪う動作がこれほど日常的に行われているのだと実感し、刀が朝日を反射して鈍く光る。


 甚五郎は最後に何か言おうとしていたが声にならなかった。ただ遠くで口が震えている。それは母の名か、父への恨みか……息が荒い。額に汗が滲む。


 そして──。


 刀が振り下ろされた。


 一瞬だった。甚五郎の首が一刀の元に地面に落ちる。鈍い音が響く。血が地面に広がる。見物人たちからどよめきが起こる。何が起こったのか理解出来なかった子供が、突然泣き出す。誰かが南無阿弥陀仏と唱え……女が目を覆う。男がいい気味だと唾を吐き捨てた。


 源一郎はその光景を黙って見ていた。


 人の命がこんなにも簡単に奪われる。


 刀一振りで人生が終わる。


 それがこの時代の現実。


 源一郎は見届けた後、処刑場を後にした。陽は高く昇り、空は青く澄んでいる。だが源一郎の心は少し重かった。朝の清々しさとは裏腹に胸に重いものが残っている。


 甚五郎は悪人だった。多くの者を脅し盗みをさせ、私腹を肥やし、過去にも同様の犯行を繰り返していた。だが、それでも人だった。家族もいたかもしれない。人生があった。若い頃は夢もあったかもしれない。子供の頃はきっと無邪気に笑っていたはずだ。


 その命が今、『処分』された。


 源一郎は深く息をついた。


 これが火付盗賊改方、与力の仕事だ。悪を裁き秩序を守る、時には人の命を奪うことにも関わる。直接手を下さなくとも責任の一端をどこかで担っている。


 重い職責だ。だが、誰かがやらなければならない。この、江戸の町の平和を守るために。


 源一郎は江戸の町へと歩き始めた。空は青く雲が流れている。町の喧騒が遠くから聞こえてくる。生きている者たちの声が。商人の呼び声、子供の笑い声、職人の槌音。生の営みの音がそこにはあった。

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