第十二話
本所の屋敷に戻ると既に日は落ち、闇が深くなっていた。
屋敷の門をくぐり、玄関の式台で草履を脱ぐ。廊下に上がると、座敷童の菖蒲が静かに現れる。
小さな影が障子の向こうに浮かび、襖がすぅっと音も無く開く。障子戸の隙間から幼い少女の姿をした座敷童が、源一郎を覗くような見上げていた。その目は黒く静かで澄んでいる。
「おかえり」
菖蒲の声は囁くように小さい。だが、その声には親しみと温かみがあった。
「あぁ、ただいま」
源一郎は笑顔で答えた。この小さな妖怪と知り合ってから、彼女はたまにこうして源一郎の帰宅を迎えてくれる。大体が乳母のおたかが不在の時か、夜遅く、出迎えられない時。誰かが出迎えてくれることが、源一郎には嬉しく感じられた。
源一郎は座敷に入り、畳に腰を下ろした。菖蒲も静かに隣に座る。小さな手をちょこん、と膝の上に置き、黒い目で源一郎を見つめている。
「何か悩んでる。事件は解決したんじゃないの?」
菖蒲が小さく問うた。その声は静かで平坦だが、心配の色が滲んでいるような気がした。
「窃盗の下手人を捕まえて、窃盗をさせていた黒幕も捕らえた。だけど……問題が残っているんだ。それがまた厄介でな」
源一郎は菖蒲に事情を話した。黒幕である甚五郎が自白しないこと、吉蔵たちを道連れにしようとしていること、拷問も止むを得ないかもしれないこと。その全てを。
菖蒲はただ静かに聞いていた。その小さな顔に、時折悲しげな表情が浮かぶ。人の世のややこしさを、この小さな妖怪も長い時を生きる中で理解しているのだろうか。
「それで……」
源一郎は少し躊躇してから言った。
「折り入って、菖蒲に頼みがある」
「何?」
「甚五郎を……少し脅かしてほしいんだ」
菖蒲は訳がわからないと小首を傾げた。その仕草は幼く、可愛らしい。
「脅かす?」
「ああ。甚五郎は……人の情を持たない男だ。だが、恐怖心は持っているはずなんだ」
源一郎は菖蒲に何をして欲しいのかを説明した。
「この時代、人々が根源的に恐れているのは怨霊、祟り、死後の苦しみ。他にも地獄に落ちること、成仏できず彷徨うこと、霊となって苦しみ続けること」
「……」
「もし、甚五郎にその恐怖を見せることができれば……心変わりして真実を話すかもしれない」
源一郎は菖蒲を見た。あやかしなら──妖怪なら、人を恐怖させる術を熟知しているのではないか。妖怪の本質とは人間の闇への恐れや願い、信仰が形になったもの。目には見えない人間の想い、そのものの筈だと。
「人でない存在の姿を見せて、死後の世界の恐ろしさを暗示する。罪を犯した者の末路を見せる。それで自身の悪行を振り返らせ、罪の意識を呼び覚ますことができれば……」
「……わかった」
菖蒲はようやっと源一郎の言うことが理解出来たと、少し考えてから静かに頷いた。
「いつ?」
「急で悪いが今夜だ。明日になれば、責めが始まる。なるべく急ぎたいんだ」
「わかった」
源一郎は立ち上がった。
「案内する。ついてきてくれるか」
「うん」
菖蒲は立ち上がった。その小さな体が、ふわりと浮かぶ。そして、源一郎の背中にピトリ、と背負うようにくっついた。その姿は、まるで幼子を背に負っているようにも見える。──実際には菖蒲は他の者には見えないのだが。
源一郎は再び刀を腰に差し、羽織を纏った。
「では、行こう」
源一郎と菖蒲は屋敷を出た。夜の本所は静かだった。月が中天に昇り、青白い光が町を照らしている。人通りは少なく、時折遠くで犬の遠吠えが聞こえるだけだ。風が吹き抜け、木々の葉が揺れる音が聞こえる。夜の静寂は深く、源一郎の足音だけが響く。
本所から桜田門外近くにある役宅まで、道のりは長い。隅田川沿いの道を進み、両国橋を渡り、小伝馬町、日本橋を抜け、やがて江戸城前の桜田門外へと至る。夜の江戸を横断する道行きだ。
源一郎は本所の路地を抜け、大通りへと出た。夜の江戸は静かだが、まだ完全に眠っているわけではない。夜鷹が軒先に立ち、遅くまで営業している居酒屋からは笑い声が漏れてくる。夜回りの拍子木の音が遠くから響いている。
源一郎が両国橋を渡りかけた時、欄干の影に唐傘お化けがいるのに気づいた。傘を揺らしながら、ポツリと月を眺めている。
「よう、唐傘」
源一郎が声をかけると、唐傘お化けはクルリと傘を回転させて振り向いた。一つ目に、一本足の奇妙な姿。
「おや、源一郎さん、また会いましたね。こんな夜更けにどうしたんです?」
「ちょっと野暮用でな。これから火盗改の役宅まで行くんだ」
「野暮用?」
「牢に捕らえている悪党を少し脅かして懲らしめようと思ってな。菖蒲に協力してもらうことになった」
唐傘お化けはワサワサと傘を揺らした。その動きは……興味深そうにしている。
「へぇ、何だか面白そうじゃないですか。私もついて行っていいですか?」
「ああ、構わないぞ、むしろ頼みたいくらいだ」
源一郎は気軽に答えた。幾らか集めた方が脅かすのにも迫力が出るだろうと考えたのだ。
唐傘お化けは嬉しそうに傘を揺らし、カロンカロンと下駄の音を鳴らしながら、源一郎の後ろについてくる。
両国橋を渡りきり隅田川沿いの道を進むと、川面に映る月明かりが美しく揺れていた。水の音が静かに響き、風が川縁に植えられた柳の枝を揺らしている。──チャプン、と川辺から何かの影が現れた。
茶緑色の体をした小さな妖怪が、川から顔を出して源一郎を見ている。頭の皿には水が満ちており、月明かりに照らされて白く輝いていた。
「河童か」
「源一郎。こんな遅くに何しとるんだ?人は寝る時間だぞ」
「いや、実はな今から野暮用に行くんだが……」
源一郎が事情を説明すると、河童は目を輝かせた。
「悪い人間を脅かしに?面白そうだな、俺も行くぞ!」
「そうか?ならちょっと手伝ってくれ」
源一郎が快諾する。河童は川から上がり、源一郎の後ろについてきた。唐傘お化けの隣だ。ペタリペタリ、水気を含んだ足音が小さく響く。
連れを増やして、さらに歩いていると、今度は路地の角から一反木綿が飛んできた。長い白い布が風に乗って滑空し、源一郎の周りをヒュルリと舞う。
「お?源一郎どん!どけ行っど?」
一反木綿が薩摩訛りで言った。薩摩生まれなのだろうか。言葉の圧が妙に強い。
「あぁ、これから火盗改の役宅に悪党を懲らしめにな……妖怪たちの力を借りようと思って」
「ほぉ、おもしかごだっで。ほんなこつ皆に声かけて来っど!」
「え?いや、そう無理に誘わなくとも……」
「遠慮せんで、よかよか!手はぁ多いほがよかろ」
「待て、遠慮なんてしてなっ──」
「ほじゃ、行って来もすッ!」
一反木綿は逸るように源一郎の頭上をヒュルリと一度舞い、飛んで行ってしまった。どうしてか、源一郎の胸に言い知れぬ不安が過る。
源一郎は……気を取り直して再び歩き始めた。四人──いや、一人と二体と一つになる。後ろを歩く妖怪たちは少数ながらワイワイと楽しそうな様子だ。それから、小伝馬町に差しかかったあたりで、また声をかけられた。夜中でも分かるほどにサァッと青白い肌をした美しい女。
「おばんでがす、源一郎さぁ。こっだ夜ふけに皆連れ立って、どさいぐの?」
「今度は雪女か……ちょっと役宅にな……」
「あぃや、皆してあづまっで、おもしぇごど?おらも着いでっで、ええ?」
「あ、あぁ……」
東北訛りの緩い言い回し。雪女が言うと妙な色気があった。しかし、それよりも源一郎は、予感が当たったとばかりに不安になり始めた。妖怪が増えている。まだ四体だが、役宅に着くまでにどれだけ増えるのか。
それから小伝馬町を抜け日本橋。そこには夜の繁華街が広がっていた。料理屋や茶屋から明かりが漏れ、夜更けだというのに三味線の音が聞こえてくる。
路地の奥から、またまた何かが現れた。
女の姿をした妖怪が、ニュルリニュルリと首を異様に伸ばしながら近づいてくる。その首は三尺以上も伸びており、顔が源一郎の目の前まで迫ってきた。
「あら、源一郎様じゃありませんか。皆もこんなに集まって」
ろくろ首が妖艶な声で言った。
「こんな夜に、どちらへ」
「役宅へ……」
源一郎が答えると、ろくろ首は首を揺らしながらクツクツ笑った。
「こんな楽しそうなのに私だけ仲間外れなんて嫌よ。私もご一緒してよろしくて?」
「あぁ……」
源一郎は少し歯切れ悪く答えた。正直に言えば、これ以上増えると困る。
だが、ろくろ首は既に列の後ろに着いていた。首を元の長さに戻し、雪女の隣を歩いている。だが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。源一郎は歩き続けた。
さらに進むと、古い蔵の前でぬっぺふほふに出会った。顔のない妖怪が、源一郎を感知して近づいてくる。
「ついていく……」
「いや、もう本当に十分……」
源一郎が言いかけたが、ぬっぺふほふは既に最後尾に並ぼうとしていた。
源一郎は内心で本気で焦り始めた。妖怪が六体になった。これ以上増えると本当に困る。人には見えないだろうが、役宅に大勢で押しかけたら、それこそ大騒ぎになる。
「あのな、皆、俺は遊びに行く訳じゃ──」
源一郎が言いかけた時、空から一反木綿が降りてきた。
「源一郎どん!皆に声かけて来もしたど!」
「い、一反木綿、本当にこれ以上は……」
源一郎は頭を抱えた。これは予想以上に増えている。しかも、一反木綿は源一郎が悪党を懲らしめに行くと触れ回ってしまっていた。早く役宅に行かないと大変なことになる気がした。急がなければ。
「源一郎、悪党を懲らしめると聞いたぞ。我も同行し手を貸そう」
だが、そう思ったのも束の間。突然、空から舞い降りてきた鴉天狗が厳かな声で言った。それから──
「おーい、源一郎!何か面白いことがあるんだって?」
「一反木綿が手伝えって。悪党を脅かすんだろう?」
「俺も行く!絶対行く!」
「なんだぁ?祭りか?祭りなのか!」
「ちょ、ちょっと待て!多すぎる!」
そして──。
噂が噂を呼んだ。妖怪、魑魅魍魎、人でない存在たちの集まる祭りがあると──路地の奥から、暗がりから次々と、あやかし達が現れ始める。
源一郎は慌てて叫んだ。だが、一度集まった妖怪たちは聞く耳を持たない。
「何言ってんだ、源一郎。楽しいことは皆でやるもんだろう」
「そうだそうだ!」
「久しぶりに面白いことがあるんだ。参加させろ」
妖怪たちは口々に言いながら、源一郎に早く行けとばかりに先頭に押しやる。その列はどんどん長くなっていく。
源一郎は冷や汗を流した。これは完全にまずい。役宅に、あやかしの大群を連れて行くなど、正気の沙汰ではない。そもそも、人でない存在を連れ込もうという考え自体が斜め上だが。
「いや、本当に、これは……」
「……集まりすぎ」
源一郎が流石に弱ったように言うと、背中の菖蒲が小さく耳元で呟いた。
騒ぎは留まることを知らない──更には見たこともない妖怪や訳の分からない怪異の類までも現れ始めた。
武士のような格好をした鬼。鳥獣戯画のように二足歩行する獣。体の透けている母子の幽霊。無数の目を持つ奇妙な存在。肩車した手足が異様に長い妖怪。おかめの面を被った女。
おどろおどろしく、怨念をまとっているようで、でも奇妙で滑稽な存在たち。百鬼夜行絵巻に描かれているような、名前も分からない大小様々な存在たちが次々と集まってきた。
源一郎の後ろには──気づけば長蛇の列ができていた。
「ちょっと待て!お前たち!」
源一郎が振り返って叫んだ。だが、あやかしの群れ──妖怪たちや正体不明の怪異たちは楽しそうに歩き続けている。
「源一郎が面白いことをするぞ!」
「悪党を脅かすんだって!」
「久しぶりの祭りだ!」
「楽しみだなあ!」
列の大多数を成す妖怪たちが口々に囁き合っている。その声は興奮に満ちている。足取りも軽い。
源一郎は頭を抱えた。これはまずい。本当にまずい。こんな大勢で役宅に行ったら、一体どうなるのか。だが、もう止められない。あやかしたちは源一郎の言葉には耳を貸さず、楽しそうについてきている。
源一郎は後悔し始めた。最初から黙って行けばよかった。なぜ唐傘に、河童に、一反木綿に声をかけたのか。だが──後悔しても時既に遅し。
「もう無理だ……」
源一郎は諦めた。こうなったら、もう止められない。人でない存在たちは娯楽に飢えている。一度集まり始めたら、誰にも止められない。
列はさらに長くなった。数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに集まって来ている。三十、四十、五十……いや、もっといるだろう。
その光景は、まさに百鬼夜行だった。
源一郎は列の先頭を、内心ビクビクしながら歩いた。これはまずい、本当にまずい、と思いながら……
だが、もう引き返すことも、どうすることもできない。源一郎は覚悟を決めた。ここまで来たら、もうやるしかない。どうにでもなれ、と。
やがて、桜田門外を過ぎ、しばらくすると役宅が見えてきた。高い土塀に囲まれた広い敷地。門の両脇には篝火が焚かれ、赤い炎が闇を照らしている。その明かりに照らされて、門の前に立つ夜番の槍持ちの姿が浮かび上がる。
火付盗賊改方は夜の見張りや捕り物もあるので、役宅は夜中であっても開門しているのだ。
「……着いてしまった」
源一郎は小さく呟いた。言葉尻に後悔が滲む。
門番は提灯を掲げて、夜の闇を見張っている。特に変わったことはない。いつもの夜だ。
源一郎は深呼吸をした。そして、門に向かって歩き始めた。後ろには、長蛇の列となった妖怪や霊的存在、怪異たちが続いている。
門番は欠伸をしながら立っていた。夜中の見張りは退屈だ。何も起こらない夜が続いている。今夜も平穏に過ぎるだろうと──そう思っていた。
そんな時──門番は急に寒気を感じた。
「……ん?」
門番は首を傾げた。夏の夜なのに、えらく急に冷たい風が吹いてきた。息が白く見える。背筋がぞくりとする。
「なんだ……妙に寒いな……」
門番は辺りを見回した。だが、異変は他に何もない。ただ、源一郎が一人で門に向かって歩いてくるだけだ。
「渡辺様……?こんな夜中にいかがされたのですか?」
門番が声をかけると、源一郎は少し強張った笑顔で答えた。
「あ、ああ……ちょっと急ぎの用があってな……」
源一郎の声は妙に上ずっている。門番は不思議そうな顔をした。
「そう、ですか……お勤めご苦労様で御座います。渡辺様。どうぞお通りください」
門番は道を開け、源一郎が通る。そして──源一郎の後ろに続いて、目には見えない何かが続々と門をくぐっていった。
不思議なものだ。門番は何かが横を通っているような気がして、急に身震いした。寒い。とても寒い。まるで真冬のような寒さだ。どうしてか体が凍えるような心地になる。
「な、なんだ……今日はえらく冷え込む……珍しいこともあるもんだ……」
門番はもう一人の夜番を見た。相棒も同じように身震いをしている。
「お、俺も寒い……急にどうしたってんだ……」
二人は不思議そうに寒い寒いと言い合い、篝火に手をかざして温める。門番たちは背筋を凍らせる異様な寒気に震えながら、何が起きているのか分からないまま、ただ身を縮めていたのだった。
──源一郎が役宅の中に入り、裏庭にある牢へと向かうと、役宅の中でも篝火は焚かれていた。庭の数カ所に置かれた篝火が、屋敷の外を赤く照らしている。その踊る炎が木々や建物に揺れる影を作り出し、まるで何かが蠢いているように見えた。
篝火の明かりを頼りに、庭を横切る。石畳を踏む足音が静かに響き──やがて母屋から離れた場所に、納屋を改装した仮牢が見えてきた。
夜の役宅は昼とは違う顔を見せていた。静寂と暗闇、そして炎の揺らめき。それらが混ざり合い、異様な雰囲気を醸し出している。
そんな役宅の裏庭に、あやかし者たちが溢れかえり始めた。木々の影に、土塀の上に、空中に、地面に。ありとあらゆる場所に妖怪、怪異、人でない存在が集まっている。
集まった妖気が役宅全体を包み始めた。冷たい風が吹き抜ける。煌々と辺りを照らしていた篝火が空気の冷え込みに負け勢いを落とすと、月明かりが青白く輝き影が濃くなった気がした。
「あれが牢だ」
源一郎が指差すと、背に乗った菖蒲が静かに頷いた。
納屋を改装した仮牢のある裏庭には篝火が一つだけ焚かれている。その明かりに照らされて、太い格子が嵌められた入口が見える。中は光が届かず真っ暗で、源一郎の目には何も見えない。だが、格子の向こうからは確かに人の気配が感じられた。
皆が牢にソロリソロリと近づいた。夜の闇の中、牢の格子が篝火の明かりに照らされている。中では甚五郎が横になっており、寝ているようだった。呼吸の音が聞こえる。
「あの男が甚五郎だ」
源一郎が小声で言うと、菖蒲は牢の中を覗き込んだ。その小さな目が、甚五郎を見つめる。
「……悪い顔。きらい」
菖蒲が小さく呟いた。その声には、感情が乗っていないように感じられるが、源一郎にはほんの僅かに侮蔑の色が混じっているように思えた。
「ああ、悪党だからな」
源一郎は苦笑しつつ頷いた。
「少し脅かして貰えるか。ただし……殺したり、怪我をさせたりはしないように」
「わかった」
集まった人でない者達が、どうするこうすると相談をし始め──そして、その妙なざわめきに気づいたらしい。牢の中で甚五郎が身動ぎする気配があった。




