第百九話
翌日の夕刻──源一郎は京橋の蕎麦屋に立ち寄り、本太郎から報告を受けた。
「──番頭の仁助ですが、ここ十日ほど、毎晩のように店を出ております。酉の刻を過ぎた頃に裏口から一人で出てきて、中橋広小路にある居酒屋に入ります。一刻ほど飲んでは、ふらふらと帰っていく。特に誰と話すでもなく、ただ一人で飲んでいるようです」
本太郎は蕎麦の丼を脇にどけ、真面目な顔で続けた。
「近江屋に長く勤めている者で、五十前後。奉公人の中では一番の古参だそうです。近隣の者に聞きますと、以前は堅い人で夜に飲みに出るような者ではなかったと」
「最近になって変わった、と」
「はい。顔色も優れず、やつれたと心配する者もおるようです」
源一郎は頷いた。──仁助という男の変調。祈祷詐欺の圧に押し潰されかけている証なのだろうか。
「分かった。今夜、俺がその居酒屋に行く。鳥居は見張りを続けてくれ」
「承知しました」
§
宵五つ──。
源一郎は着流しに着替え、役宅を出た。刀は二本とも腰に差しているが、火盗改の十手だけは懐に忍ばせた。髪は簡素に束ね直し、足元は雪駄、腰元には目を引く巾着に根付けという、粋でいなせな装い。非番の武士とは分かるが、遊び心と洗練さが混在した姿だった。
秋の夜は冷える──。風が襟元に忍び込み、往来の人影もまばらになっていた。通りには数軒の居酒屋が提灯を掲げている。その中の一軒──「升屋」と墨書きされた古い暖簾が目に入った。本太郎の報告にあった店だ。
間口は狭いが、中から話し声と煮売り、酒の匂いが漂ってくる。暖簾をくぐると、土間に長い板張りの台が置かれ、床几が七、八脚並んでいた。職人風の男や商人が数人、銚子を傾けている。武士の姿もちらほらとあった。奥の土間で年若い娘が忙しそうに皿を運んでいる。店主の娘だろう。
「へい、いらっしゃい。お一人ですかい」
台の向こうから店の親父が声をかけてきた。五十過ぎの、愛想の良い禿頭だ。
「ああ。酒を一本と、何か肴を」
「鰯の塩焼きと里芋の煮っ転がしがあるよ」
「それでいい」
源一郎は店の奥に目を遣った。
──いた。
隅の床几に、一人の男が背を丸めて座っている。五十前後。痩せた体躯に、きちんと整えられた着物。だが、その肩には疲労が積もっているのが見て取れた。手元の猪口を時折口に運ぶが、酒を楽しんでいる様子はない。酔いたいのでもない。暗い表情で顔を俯かせている。
──近江屋番頭、仁助。
源一郎はそう確信した。本太郎の報告通り、誰とも話さず、壁に寄りかかるようにして座っている。商家の番頭が居酒屋に一人通い詰めている。それだけで、近江屋の内情が推し量れた。
源一郎は仁助から一つ離れた床几に腰を下ろした。酒と肴が運ばれてくる。鰯の塩焼きを箸でほぐしながら、暫くは静かに飲んだ。
隣の職人たちが材木の値の話をしている。その向こうでは商人風の男が連れと何やら掛け値の相談をしていた。源一郎はそうした喧騒の中で仁助の様子をそれとなく窺った。
仁助は銚子を傾けるが、猪口になかなか注がない。注いでも口を付けるまでに間がある。酒に手を伸ばしては止め、溜息をつく。その仕草が三度繰り返された時──源一郎は自然に声をかけた。
「御仁、随分と難しい顔で飲んでおられるな」
仁助がびくりと顔を上げた。源一郎を見る。警戒──ではなく、気まずさに近い色が浮かんだ。隣の客に陰気な空気を撒き散らしていた自覚があったのだろう。
「……これは、申し訳ございません。場を暗くしてしまいまして」
「いや、別に責めているわけではない」
仁助は居住まいを正し、小さく頭を下げた。源一郎は笑った。
「俺も一人で飲む夜はたまにそういう顔になる。考えごとがある時は特にな、屋敷にいるとどうにも落ち着かなくなる。そんな時は、こうして一人酒を飲むこともある──」
「……左様でございますか」
仁助は僅かに力を抜いた。だが会話を続ける気はないらしく、視線を猪口に戻す。
源一郎も深追いはしなかった。自分の鰯に箸を運び、酒を啜る。秋の夜風が暖簾の隙間から忍び込んでくる。
しばらく沈黙が流れた。店の喧騒が二人の間を埋める。職人たちが笑い声を上げ、店主の娘が「はいはい、只今」と慌ただしく動いている。
源一郎の銚子が空になった。もう一本頼み、そして何気なく仁助の方を見た。
「もう一杯、いかがか。──これも何かの縁だろう」
仁助は一瞬迷い、それから困ったように笑った。
「……縁、ですか。見ず知らずのお方に酒を注いでいただくのは気が引けますが」
「気にするな。一人で飲む酒は旨くなかろう。何、気晴らしに話を聞かせてくれてもいい」
源一郎は店の親父に目配せし、猪口をもう一つ貰った。仁助の前に置き、酒を注ぐ。仁助は両手で猪口を受け取り、一口含んだ。
「……かたじけない」
「御仁はここらに住む者か」
源一郎が何気なく訊いた。
「はい。この近く、京橋の紙問屋に勤めております」
「紙問屋か。この辺りは紙の問屋が多いな」
「ええ。京橋は紙商いの町でございますので」
仁助の声に少しだけ力が戻った。自分の仕事の話──慣れた領域に足を踏み入れた安心感だろう。源一郎はそこを拾った。
「俺は本所の者だが、役目の書状で使う紙はいつも日本橋で買っていた。京橋の方が質がよいのだろうか」
「日本橋は小売も多くございます。種類が多くございますが、お値段は少々張りましょう。京橋には問屋がございますので、まとまった量でしたらこちらの方がお得かと。──もっとも、問屋は大口の商いが主ですから、御武家様が一帖二帖とお求めになるには、やはり日本橋の方がお手軽かと」
「なるほど。商人の目で見ると違うものだな」
「いえ、私は紙のことしか知りませんので。思えば、もう四十年ほどになりますか……」
仁助は謙遜したが口調は滑らかだった。紙の話をしている時だけ、この男は番頭の顔になる。四十年という歳月が体に染み込んでいるのだろう。
「四十年と仰ったか」
「ええ。丁稚奉公から入りまして、手代、番頭と」
「ほう、番頭にまで──。それは大したものだ。もう店の隅々まで知り尽くしておられるだろう」
仁助は答えなかった。猪口を持つ手が止まった。
「……隅々まで、知っているつもりでございました」
過去形だった。源一郎はそれを聞き逃さなかった。だが、すぐには拾わなかった。代わりに鰯の骨を箸で抜きながら、別の話を向ける。
「紙問屋の番頭ともなれば、ご主人からの信も厚かろう。長い付き合いともなれば、もはや奉公人というよりも一族のようなものだろうか」
「……私、店の旦那様とは同い年でございます」
仁助の声が少し柔らかくなった。
「旦那様がまだ若旦那と呼ばれていた頃に、私も手代になりました。共に問屋仲間の寄り合いに行ったり、仕入れ先を回ったりもしました。店を背負うのは旦那様で、私はそれを支える。昔から、そういう間柄でございました」
──でございました。また過去形だ。
「お嬢様が産まれた時は……旦那様があたふたと走り回って、まるで初仕事の丁稚のようで。私も嬉しかった。まるで、自分にも子が出来たような心地でございましたから」
仁助の目が遠くなった。遠い日のことを語っているのだ。源一郎は酒を啜り、黙って聞いていた。
「お嬢様が小さい頃は、よく店に出てきてはかくれんぼをなさっておりましたなぁ……紙の束の裏に隠れるのですが、ころころと笑う声が丸聞こえで。旦那様が大真面目に探す振りをして……あれは、良い時分でした」
仁助の声が、不意に途切れた。
「ほんに……良い時分、でした」
三度目の過去形。鼻をすする。その声はもう、酒の温もりでは誤魔化せない震えを帯びていた。




