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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
四章 京橋狐猫口寄騙

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第百五話


 ──お鈴の様子がおかしい。


 源一郎がそれに気づいたのは、話が終わりに近づいた頃だった。


 神谷とお絹との打ち合わせは滞りなく進んでいた。近江屋への潜入の段取り、連絡の取り方、緊急の際の合図。源一郎は頭の半分で話を進めながら、もう半分でずっと、背後に控えるお鈴の気配を伺っていた。


 茶を注ぐ手は淀みなく、相槌も過不足なく、表情は常の通り。しかし──長く共に暮らし身近で見続けてきた者として、理由の説明しがたい違和感があった。


 ──心当たりはある。


 お絹が「私が行く」と言った、あの瞬間のこと。道理としてはお絹に任せるのが最善。しかし、お鈴の心中は別だろう──そのくらいの察しはついていた。だが、お鈴は顔色一つ変えなかった。故に理解してくれると源一郎はそのまま話を進めてしまった。


 ──甘かったか……後で話そう。


 源一郎は腹を決め、神谷との協議を締めくくった。


 神谷とお絹が腰を上げる。源一郎も立ち上がり、二人を玄関先まで見送った。お鈴も家人の務めとして、源一郎の後ろに静かに控えている。


「──では、お絹のこと、お頼み申す。段取りがつき次第、お絹を此方へ寄越します故」


 神谷が向き直り頭を下げた。源一郎はそれに静かに頷いた。


 その時だった──。お絹が笠を被ろうとした動きを、ふと止めた。視線が源一郎の後方へと流れ、式台の陰に控えるお鈴の姿を真っ直ぐに捉える。


 お絹はしばし、何かを見定めるようにお鈴の姿を見つめていた。お絹の視線の先──お鈴は俯いたまま、目を合わせようとしない。お絹の眦が、ほんの僅かに細められた。それから、チラと源一郎へと視線を寄越す。


 ──やはり、妙な何かには気づいているか。


 御庭番の密偵としての観察力というものか。もしくは同じく憑き物を抱える者としての勘。それらが、お鈴の内側で揺らぐ『何か』を嗅ぎ取っているのか。神谷もおそらく変化自体には気づいていよう──諜報に身を置く者が微細な態度の変化を見逃すはずがない。


 しかし──神谷もお絹も何も言わなかった。他家の事情には深く入り込まないという意思表示か。お絹は視線を外し、静かに笠を被り直す。神谷は源一郎に一礼するのみ。


「……では、また」


 お絹は言葉少なにそう言い残し、神谷の後に続いて門を出ていった。


 源一郎は玄関口に立ったまま、二人の背が門の向こうへと遠ざかるのを見送った。二人の姿が角を曲がって消えても、しばらくその場を動かなかった。


 ──お絹は、帰りの間際にお鈴に『何を』見たのだろうか。


 玄関に立ち尽くしたまま、源一郎は思案した。


 源一郎の胸中に、言い知れぬ不安が広がってゆく。お絹が先に名乗り出た、あの場の流れ。お鈴が動く前に、話が決してしまった。源一郎自身、お鈴に潜入を託すか否かを口にする間もなかった──。


 お鈴は何も言わず、顔色一つ変えなかった。しかし、言い出す機会すら与えられぬまま役目を攫われた──その無念が、あの静けさの下に沈んではいないだろうか。


 源一郎は深く息を吐き、踵を返した。


 座敷に戻ると、お鈴は既に茶器を片付け終えていた。盆を抱え、立ち上がろうとしている。その手つきも、所作の運びも、普段と変わらぬお鈴の姿だった。


「お鈴」


 様子を伺うように声を掛けた。お鈴の手が、一瞬止まった。それから、ゆっくりと振り返る。


「──はい、旦那様。何か御用にございますか」


 源一郎は僅かに眉を寄せた。お鈴が呼ぶ旦那様とは、場に他に人がいる時の呼び方だ。今この場には、二人しかいない。敢えてその呼び方を選んだということは、踏み込んでほしくない一線があるということなのか。


 だが、源一郎は引かなかった。


「……いや、少し休んだらどうかと思うてな。あまり顔色が良くないようだ」


 お鈴は盆を抱えたまま、源一郎を見ていた。いつも通りの伏し目がちな角度。しかし、その瞳は普段より静かに凪いでいるように思える。


「ご心配には及びませぬ」


 微笑し、短くそう答えた。それから──ふっと唇の端が吊り上がるように動いた。


「旦那様こそ、お疲れでございましょう。──連日のお役目に、先程もずいぶんと心を砕いておいでのご様子でしたからね。……特に、あの、お絹様に対して」


 源一郎は言葉に詰まった。お鈴の口から放たれた言葉をすぐに飲み込めなかったのだ。


「な、なに?」

「あら、そんな顔をなさって。何か可笑しゅうございましたか?」


 お鈴は小首を傾げた。その仕草も普段のお鈴の控えめなものと寸分違わない。だからこそ──その口から出てくる、棘を含んだ言葉の違和感が際立った。


「お鈴、お前──今、何と……」

「申したままにございますよ。旦那様は私よりも、あのお絹様を頼りにしておられると。私などよりも、雌猫の方が良いのでございましょう?これだから男というものは信用ならない。──えぇ、えぇ。それだけのことでございますよ」


 源一郎は今度こそ言葉を失った。


 ──これは、何だ。


 お鈴の口から、こんな言葉が出たためしは無い。幼い頃からこの屋敷にあって、常に一歩控え、我を張らず、自分の望みの多くを胸の内に仕舞い込んできた。不平不満も口にすることはない。そのお鈴が平然とした顔で皮肉を紡いでいる。


 所作は変わらぬ。声も変わらぬ。にもかかわらず違和感は拭えない。目の前にいるのが本当にお鈴なのか、源一郎には確証が持てなくなっていた。


「お鈴……いったい、どうした」

「どうもいたしませぬ。いつも通りにございますよ。旦那様こそ、どうかなさいましたか。珍しいことでございますね。そのように狼狽えるとは。あぁ、可笑しい──」


 源一郎は、思わず半歩後ずさった。


 ──違う。


 これはお鈴の顔をしているが、お鈴ではない。知らぬ『何か』が、お鈴の面を借りて話している。そんな感覚だけが冷たく腹の底に落ちていった。


 源一郎が次の言葉を探しあぐねていた、その時──。


「──失礼仕りますよ、鬼切殿」


 縁側の方から、飄々とした声が響いた


 振り返ると、座敷の縁側に一匹の灰色の狐が音もなく座していた。黒みがかった灰の毛並み、先端が二股に分かれた尾、澄んだ金色の瞳。庭の祠から気配もなく現れた灰狐だった。


「灰狐殿──」

「妙な気配が祠まで届きましてね。狐筋のものが、中々に昂ぶっておるような──。それで、急いで様子を伺いに参った次第です」


 灰狐は板間に飛び跳ねて上がると、澄まして座る。お鈴の姿を見上げた。その金色の瞳が、ふっと細められる。


「……これは、これは」


 尾がゆるりと一揺れし、身体を巻く。


「鬼切殿。──これはいつものお鈴殿ではございませんよ」


 源一郎の背筋が冷たくなった。


「灰狐殿、それは──」

「鬼切殿のよく知るお鈴殿は、今は心の奥底でお休みになっています。表に出ておるのは、御先狐の方──お鈴殿の内に宿る、憑き物の方にございますよ」


 灰狐の声は穏やかだったが確信に満ちていた。お鈴の形をしたものは灰狐を見下ろし、くすりと笑った。


「あら、灰狐様。──よく、お分かりで」

「……目覚めたばかりの小娘が、生意気なことを。同じ狐筋にございますからね、わからいでか」


 灰狐が喉で低く笑うと、今度は源一郎に向き直った。


「驚かれるのも無理はございません。ですが鬼切殿、まずは落ち着かれませ。お鈴殿がいなくなったわけではございませぬ──ただ心の奥で眠っておいでなだけにございますれば」

「眠っている……」

「えぇ。古くから御先狐が表に出ておる間は、宿主の魂は眠りにつく習いにございましてな。しばらくすれば、また戻っておいでになりましょう」


 灰狐は尾をゆらりと揺らし、困ったように耳を一つ下げた。


「──それにしても、まぁ、随分と強い引き金を引いてしまわれましたようで」

「引き金……」

「お鈴殿の内には、堪えに堪え──それでも堪えきれぬものがございましたのでしょう。御先狐と申しますのは、宿主の強い感情に呼ばれて目を覚ますもの。──表に出せずに溜まった想いが、ある境を越えますと、ああして心の奥底に眠る狐の方が目覚めてしまうのでございますよ」


 源一郎は拳を握った。お絹が役目に名乗り出た、あの時。お鈴は顔色一つ変えぬ沈黙の下で、どれほど苦悩していたのか──。それに気づいてもやれなかった。甘く見てしまった。


「……俺の、不明だ」

「鬼切殿」


 灰狐は静かに首を振った。


「なにも責めておるのではございませぬよ。御先狐というのは元来そういうもの。誰のせいでもございません。──ただ、目覚めた以上は上手く鎮めてやらねばなりませんが……そのために私が此処におります。是非とも、私にお任せ下さい」


 灰狐はそう言うと、お鈴の形をしたものの方へと向き直った。金色の瞳が静かに据わる。


「さて──小娘。少々、お話を致しましょうかね」



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