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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第八話

 夕方、源一郎は同心五人と熊造を連れて深川の裏通りへと向かった。


 陽が傾き始め、町は夕暮れの色に染まり、西の空が茜色から藍色へと変わり始めている。表通りでは人々が家路につき始めているが裏通りはまだ静かだ。怪しげな店が軒を連ね、昼間とは違う顔を見せ始める。


 源一郎たちは提灯を持たずに歩いた。目立たないためだ。夕暮れの薄明かりを頼りに路地を進む。その異様な光景に町人が道を空けた。


 ──深川の裏通りは昼間来た時とは違う雰囲気を纏っていた。人通りは少なく、建物の影が長く伸びている──裏社会の住人たちが活動を始める時間だ。


 賭場の前に着くと、まず熊造が下っ引き──岡っ引きの手下に客を装わせて中の様子を探った。同心たちは周囲に散らばって万一の逃げ道を塞ぐ。源一郎は路地の影でその時を待った。


 おもむろに懐から煙管を取り出し、刻み煙草を火皿に詰める。携帯用の火打ち石に火打ち金を当て、火花を飛ばすとチャークロスに小さな火が灯った。その火種を火皿へと寄せた。


 刻み煙草の香りが夕闇に溶ける。軽く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。紫煙が夕暮れの空気の中でゆらゆらと漂い、まるで生き物のように賭場の方へと流れていく。


 しばらくして熊造が戻ってきた手下から報告を受け、源一郎に小声で報告した。その顔には緊張が浮かんでいる。


「──甚五郎は奥の部屋にいるようでさぁ。ただ用心棒と手下が八、九人周りを固めていやす」

「他には」

「客が五、六人賭博をしてやすが、こいつらは関係ないでしょう。それと奥の部屋は警備が厳重で入れませんで。ただ、部屋の近くで反物の取引がどうのって話が聞こえたそうでさぁ」


 源一郎は頷いた。盗品が確認出来なかったのは痛いが、仕方ない。どちらにせよ、賭場開帳は脱法だ。反物が見つからずとも最悪、引っ張ることは可能であった。


「では行くぞ──」


 同心たちが頷く。皆、場数を踏んだ者たちだ。緊張はしているが怯えてはない。刀の柄に手をかけたその目は真剣だ。


 源一郎は煙管をもう一度吸い込み、紫煙を長く吐き出した。煙が夕闇の中で渦を巻き、ふわりと賭場の戸の隙間から中へと滑り込んでいく。それはまるで、意思を持っているかのように。


 そして源一郎は戸を勢い良く開けて中に入った。


 §


 賭場の中は昨日と同じように薄暗く煙草の煙が立ち込めている。客たちが賽を囲んで座っているが源一郎たちが入ってくると一斉に顔を上げた。武士が入ってきた。それも複数。只事ではないと誰もが感じ取る。


「……役人」


 誰かが呟いた。その声は恐怖に震えている。


「御用改めである!手前ども、火付盗賊改方の御用人ぞ!控えおれ、無用の者は下がれ!」


 源一郎が威圧を込めて言うと客たちは慌てて立ち上がり隅に退いた。賽と金が床に散らばる。悲鳴があがり、怯えた目で源一郎たち火付盗賊改方の役人達を見ていた。


 そこへ、奥から一人の男が現れた。


 五十過ぎの太った男だ。顔には傷がありいかにも裏社会の人間という雰囲気を纏っている。目つきは鋭いが怯えてはおらず、むしろ不敵な笑みを浮かべている。その着流しは上等なもので金回りの良さを示していた。


「これはこれはお役人様。今日はどういった御用で」


 男──甚五郎が皮肉めいた笑みを浮かべて言った。その態度には余裕がある。


「お前が甚五郎だな」

「へえ、そうですが何か」

「呉服問屋、反物窃盗の件でお前には盗品故買、盗賊縁故、勝手商いの嫌疑がかかっている。神妙にお縄につけ!」


 源一郎が罪状を示すも──甚五郎の顔は全く動じない。むしろ面白そうに源一郎を見ていた。


「盗品売買ねえ。何のことやら」

「丸屋から盗まれた反物、お前が買い取っただろう」

「さぁ知りませんな」


 甚五郎は肩をすくめた。その動作は演技がかっているが堂々としている。


「あっしは真っ当な商売をしてますんで」

「既に吉蔵から話は聞いている。お前が三人を脅して盗みをさせたとな」

「へえ……そんなことを言ってますかい」


 甚五郎は笑った。その笑いには明らかな嘲りが混ざっていた。


「盗人の言うことなんざ信用できませんよ。自分の罪を誰かのせいにしたいんでしょう。あいつはそういう男でさ」

「では反物はどこにある」

「だから知らんと言ってるでしょう」

「この賭場を調べさせてもらうぞ」


 源一郎が同心たちに合図すると、彼らは真っ先に奥の部屋へと向かって行った。無遠慮に床を踏む足音が響く。見張りや子分共を押し退けて勇み入る。


「ちっ……おいおい勝手なことを」


 甚五郎が声を上げたが、その態度は慌ててはいない。むしろ余裕がある。何か企んでいる目だ。


 源一郎は煙管をもう一度口に含んだ。ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙を吐き出す。煙が賭場の空気の中に溶け込み、ゆらゆらと漂っていく。


 しばらくして一人の同心が戻ってきた。その顔には困惑の色が浮かんでいる。


「渡辺様……奥の部屋には反物はございませんでした」

「何?」


 それを耳にした熊造が驚きの声を上げた。


「た、確かに盗品の話が聞こえたはずでさぁ!」

「ほう……そいつは残念でしたねえ」


 甚五郎が勝ち誇ったように笑った。その笑みには余裕が溢れている。


「あっしが言った通りでしょう。盗品なんざありませんよ。濡れ衣を着せられちゃあ困りますなぁ」


 熊造が焦りの表情を浮かべて源一郎を見る。だが、源一郎は全く動じていない。煙管を口に含んだまま、静かに甚五郎を見つめていた。


「すみません、若旦那……」

「慌てんじゃねぇ」


 源一郎は静かに言った。そして甚五郎を見据える。


 甚五郎の態度には不自然な余裕がある。奥の部屋を調べられても全く動揺していない。むしろ、調べさせたいとでも言うような態度だ。


 つまり──奥の部屋には最初から反物を置いていない。別の場所に隠しているのだ。


 源一郎は周囲を見渡す。先ほど吐き出した紫煙が中空で渦を巻いていた。まるで意思を持っているかのように揺らめき、そして──源一郎にだけ見える形を成した。


 煙でできた妖怪──煙々羅だ。


 煙々羅は源一郎の周りをゆらゆら、くるくると回り、そして賭場の奥へと漂ってゆく。壁を通り抜け、天井を抜け、あらゆる場所を探索していた。人には見えぬ存在が、隠された秘密を探り当てる。


 その煙々羅が源一郎の耳元で、誰にも聞こえぬ声で囁く。


『床下、賭場の中央、畳の下に隠し扉がある。そこに反物が隠されているぞ。源一郎、わかってるな?マズい煙草の煙はもういらん。高級線香だぞ?伽羅とは言わんが、白檀は用意しろ。いいな?今度、吸いに行くからな?』


 源一郎は笑みを浮かべて小さく頷いた。なるほど、と内心で呟く。奥の部屋ではなく、賭場の真ん中に隠していたのか。灯台下暗し、とはよく言ったものだ。


「甚五郎」


 源一郎が静かに言った。


「奥の部屋にはなかったようだな」

「でしょう?だからあっしは知らないと──」

「だが、この賭場にはまだ調べていない場所がある」


 甚五郎が眉をしかめる。その変化を源一郎は見逃さない。


「何を言ってるんで」

「床下だ」


 源一郎が言うと、甚五郎の顔色が変わった。一瞬だが、明らかな動揺が浮かんだ。


「床下を調べろ。この畳の下だ」


 源一郎が指差した場所、それは賭場の中央。賽が置かれていた場所だ。


「な、何を馬鹿な……」


 甚五郎が声を上げるが、もはや遅い。同心たちが畳を剥がし始める。


 畳の下には板が敷かれていたが、よく見るとその一部が動くようになっている。仕掛けだ。同心の一人がそれを持ち上げると──。


「渡辺様!ありました!」


 同心が包みを抱えて立ち上がった。床下から取り出された包みには、丸屋の印がはっきりと刻まれている。


「反物です!大量にございます!」


 源一郎は甚五郎を見た。甚五郎の顔は蒼白になっていた。その余裕は完全に失われ、汗が額を伝っている。


「これでも白を切るつもりか」

「……くそっ」


 甚五郎が歯噛みする。だが、もはや言い逃れはできない。証拠が目の前にある。


 源一郎は煙管の灰を床に落とし、フッ、と残りの煙を吹いてから懐にしまった。煙々羅の姿はもう見えない。役目を終えた妖怪は、煙と同じように消えていった。


「観念しろ、甚五郎。お前の負けだ」


 源一郎の静かな声に、甚五郎は拳を握り締めた。そして──手を叩いた。


 パン、パン。


 その音を合図に奥から男たちが飛び出してきた。


 六人、七人、八人、九人──全員が刃物を持っている。短刀、脇差、刀。刺青を入れた荒くれ者たちだ。浪人崩れ、ヤクザ者、チンピラ。傷だらけの顔に、凶暴な目つき。裏社会で生きてきた者たちの迫力がある。


「悪いねえ、お役人さん。そんな代もん、全く身に覚えがねぇんですわ。誰かが勝手に置いたんじゃないですかぃ?あっしには、関係のないことで」


 甚五郎が不敵に笑った。


「言われもねぇ罪を被せられちゃあ、やってられんのでね。あっしは逃げさせてもらいますよ。おい!お前ら、わかってるな!」


 甚五郎が叫ぶと男たちがジリジリと迫り、一斉に襲いかかってきた。「わかっているな」その言葉は役人に敵対したという言質を取らせないための符丁か、はたまた忖度しろという命か。怒号が響き、足音が床を震わせた。


 §


 同心たちが応戦する。刀を抜き襲いかかってくる男たちを迎え撃つ。


 賭場は狭い。人が密集し、刀がぶつかり合う音が響く。怒鳴り声、悲鳴、激しい息遣い。金属が金属を打つ高い音が耳をつんざく。


 客たちは隅に退いて震えている。巻き込まれないように身を縮めながら。


 源一郎は刀を抜いた。行灯の明かりが刀身を照らす。渡辺家伝来の刀が鈍く輝く。


 三人の男が源一郎に向かってきた。短刀と刀を振り上げ、必死の形相で襲いかかる。その目には凶暴な殺意が宿っていた。刺青の入った腕が振り上げられる。


「死ねえ!」


 先頭の男が短刀を突き出す。だが──。


 源一郎の刀が一閃した。


 刀が光の帯となって空間を切り裂く。


 三人の刃物が一瞬で弾き飛ばされた。男たちは呆然と自分の手を見る。何が起きたのか分からない。ただ武器が消えた。その事実だけが残る。


「──そこから動くんじゃねぇ。死ぬか?」


 源一郎の声に三人は動きを止めた。その声には有無を言わせぬ力があった。


 その隙に男たちは同心に押さえ込まれていく。場数を踏んだ同心たちは荒くれ者相手でも怯まない。刀を巧みに使い相手の武器を弾き、体勢を崩す。次々と男たちを取り押さえていった。


 破れかぶれか、今度は一人の男が同心の脇をすり抜けて源一郎に向かってきた。脇差を握りしめた、その男の目は正気を失い、狂気に染まっている。刺青だらけの体が源一郎に迫る。


「うおぉおぉぉお!」


 男が脇差を振り下ろす。だが源一郎は静かに身をかわした。まるで柳のように軽く一歩、男の横を通り過ぎる。


 そして、その刹那に刀の峰で男の背中を強かに打ち据えた。男は前のめりに倒れ、脇差が床に転がる音が響く。


「がっ……」


 男は一瞬にして意識を刈られ、動かなくなる。その姿を見て他の男たちは怯んだ。源一郎の動きには無駄がなく、容赦がない。しかも、鉄火場を恐れていない癖に、自らは刃を使わない。異常としか思えなかった。


「くそっ」


 甚五郎は状況を見て裏口へと走った。始めから自分だけ逃げるつもりだったのだ。用心棒たちは時間稼ぎの捨て駒。その動きは太った体に似合わず素早い。


 だが──。


「逃がすか」


 熊造が立ちはだかった。がっしりとした体で裏口を塞ぐ。


「どけ!」


 甚五郎が熊造に体当たりをする。だが熊造もがっしりとした体格だ。簡単には倒れない。足を踏ん張り甚五郎の勢いを受け止める。


「へっ!お前さんだけは逃がしやせんよ」


 熊造が甚五郎の腕を掴む。甚五郎は必死で抵抗するが熊造の力は強い。鍛えた腕力が甚五郎の抵抗を封じる。


「離せ!離しやがれ!」

「大人しくしな」


 熊造が甚五郎を地面に押さえつけた。甚五郎の顔が床に押し付けられる。


 ──提灯の明かりが揺れる中、賭場は修羅場と化していた。


 怒号と金属音が狭い空間に響き渡る。同心たちが必死に男たちを押さえ込もうとするが、裏社会で生き抜いてきた荒くれ者たちは容易には屈しない。刺青だらけの腕が刃物を振り回し、畳が血で汚れ始めている。


「くそっ、役人どもめ!」

「おんどりゃあっ……!」


 太った男が脇差を振り下ろす。同心の一人がそれを受け止めるが、力で押されて後退していた。


「下がれ!」


 源一郎が叫んだ。若い同心が慌てて身を引き、その隙に源一郎が踏み込んだ。


 一歩、二歩。


 動きは静かだが速い。まるで水が流れるように滑らかに距離を詰める。


「なっ──」


 太った男が驚く暇もなく、源一郎の刀が閃いた。


 刀身が弧を描き、男の脇差を下から打ち上げる。甲高い金属音とともに脇差が宙に舞い、天井に突き刺さる。男は呆然と自分の手を見る。何が起きたのか理解できない表情だ。


「動くんじゃねぇと言ったろう」


 源一郎の低い声に男は固まった。喉元に刀の切っ先が突きつけられている。ほんの数寸の距離。動けば確実に喉を貫かれる。


「ひっ……」


 男はその鬼気の発露に震えて地面に座り込んだ。


 だが斬り合いはまだ終わらない。


「野郎!」


 右から浪人崩れの男が襲いかかってきた。刀を横薙ぎに振るう。その太刀筋は乱暴だが力任せで速い。


 源一郎は身を低くしてその刀の下を潜り抜けた。男の刀が空を切る。バランスを崩した男の脇腹に、源一郎の刀の柄が叩き込まれ、ボグッという鈍い音がした。その感触からして、肋骨が折れたかもしれなかった。


「ぐっ──!」


 男は苦悶の声を上げて横倒しに倒れた。壮絶な痛みに、脇腹を押さえて悶え転がる。


 休む間もなく同時に二人が源一郎へと襲いかかる。短刀と刀、二つの刃が源一郎を挟み撃ちにしようとしていた。


 源一郎は一瞬、目を閉じた。


 ──周囲の音が聞こえる。足音、息遣い、刃物が空気を切る音。全てが頭の中で像を結ぶ。


 確信を持って、目を開いた。


 源一郎の体が回転し、刀が円を描くように薙ぎ払われる。


 鋭い金属音と共に、二つの刃物がガラス細工のように砕け、同時に弾き飛ばされた。それはまるで見えない壁に跳ね返されたように。男たちは手の痺れに呻きながら後ずさった。


「化け物か……!」


 誰かが呟いた。その声には恐怖が滲んでいる。


 源一郎は息も乱していない。刀を構えたまま静かに立っている。その姿には隙がなく、武士としての威厳と、研ぎ澄まされた剣士の気配が満ちている。


「まだやるか」


 源一郎の問いかけに、男たちは首を横に振った。最早、戦意は失われている。これ以上は抵抗する気などないと刀を手放し、その場に膝をついた。


 同心たちが素早く男たちを縛り上げていく。縄が次々と荒くれ者たちの手を縛る。


「くそっ、くそっ!」


 その時、熊造に押さえ込まれていた甚五郎が突然、暴れ出した。


 太った体に似合わぬ力、危機が迫り火事場の馬鹿力で熊造を突き飛ばす。熊造が一瞬バランスを崩し──その隙に甚五郎は転がるようにして、床に落ちていた刀を掴んだ。


「てめぇ!」


 甚五郎が短刀を構えて立ち上がる。その顔は汗と埃にまみれ、目は血走っている。もはや理性は失われ、獣のような狂気が宿っていた。


「若旦那!」


 熊造が叫ぶ。


 甚五郎は源一郎に向かって突進した。太った体が床を揺らし、刀を握りしめた腕が振り上げられる。


「死ねぇ!」


 甚五郎の咆哮が賭場に響く。


 だが、源一郎は動かない。


 ただ静かに、刀を下段に構えた。


 甚五郎が距離を詰める。三間、二間、一間──。


 その瞬間。


 源一郎の姿が消えた。


 いや、消えたのではない。あまりにも速く動いたために、目が追いつかなかっただけだ。


 甚五郎の横を影が一瞬通り過ぎ──甚五郎は前のめりに倒れた。


「──がっ」


 刀が手から滑り落ちる。甚五郎は自分に何が起きたのか理解できなかった。ただ体に力が入らない。胸から腹にかけて激痛が走り、息をするのも苦しかった。


「ぐあぁあぁぁ……いてぇ……いてぇ……きられたっ……?!」


 甚五郎は床に這いつくばったまま、動くことができない。身体の全面が焼けるように熱く、あまりの痛みに意識を途絶させようとする本能を、焼き鏝を当てられるたような熱さが阻害する。


 源一郎は甚五郎の背後に立っていた。刀の柄を握ったまま、静かに構えを解く。


「鬼切流──一ノ太刀、鬼哭」


 源一郎が小さく呟いた。その声は誰にも聞こえない。


 鬼切流の基本技。相手の動きを見切り、一瞬の隙に入り込み、刀で急所をなぞる。本来は峰を返すことはないが、源一郎のそれは、殺さず、だが確実に戦闘力を奪うための技であった。


「若旦那……」


 強ぇ……熊造が呆然と呟いた。その目には驚嘆が満ちている。


 同心たちも言葉を失っている。皆、源一郎の動きを見ていたはずなのに、何が起きたのか理解できていない。ただ甚五郎が倒れている、その事実だけが残っている。


「縛れ」


 源一郎が静かに命じると、同心たちが慌てて甚五郎に駆け寄った。甚五郎は抵抗する力も残っていない。縄が醜く太った体を縛り上げる。


 賭場は静まり返った。


 床には折れた刃物、散らばった賽と金、倒れた男たち。戦いの痕跡が生々しく残っている。


 源一郎は刀を鞘に収めた。カチリという小さな音が、静寂の中で妙に大きく響いた。


「──これにて、御用仕舞い」


 ずっと言ってみたかった──源一郎は内心では鼻息荒かったが、その言葉を聞いた同心たちが一斉に息を吐き、再び動き出した。張り詰めていた緊張が解け、安堵を迎えた音だ。


「はっ、渡辺様!お見事でございました!」


 若い同心が興奮を抑えきれない様子で言った。その目は輝いている。


「おい、そんなことより反物を確保しろ。証拠品だ」


 源一郎が命じると、同心の一人が床下から包みを運んできた。丸屋の印が確かについている。かなりの量だ。これだけあれば、丸屋の損害も相当なものだっただろう。


「甚五郎。お前を盗品売買、賭場開帳、並びに御用手向の罪で捕らえる」


 源一郎が宣言すると、甚五郎は床に這いつくばったまま不敵に笑った。


「へっ……やられた、な……」


 その声には屈辱と、まだ諦めていない執念が感じられた。


「こいつらを牢に運べ。丁重にな」

「へい!」


 同心たちに先んじて、熊造が嬉しそうに答えた。


 戦いは終わった──深川の裏通りに、ようやく平穏が戻ろうとしていた。


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