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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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転生与力、江戸に目覚む 1

 明け六つの鐘が遠く寺町の方から響き渡る。


 本所の武家屋敷が立ち並ぶ一角で渡辺源一郎は目を覚ました。まだ薄暗い部屋の中、障子越しに差し込む朝の光が畳の目を浮かび上がらせている。どこかで鶏が鳴き、井戸端で水を汲む音が聞こえてくる。竈に火をつける煙の匂いが朝の空気に混じって漂い、隣家の下男が箒で庭を掃く音が塀越しに響いていた。


 ──ああ、今日もまた江戸の朝を迎えた。


 源一郎は寝床から身を起こした。六尺近い長身を持て余すように体を伸ばす。肩が凝っている。昨夜は遅くまで父の残した覚え書き──火盗改方の職務に関する書類を読んでいたせいだ。初めての出仕に備えねばならぬと思えばこその勉強だったが、やはり体は正直なものだ。


「……また、あの夢を見たな」


 源一郎は小さく呟いた。


 それは夢というよりは記憶と呼ぶべきものだった。彼の脳裏には、この江戸の町には存在しない光景が焼きついている。天を突き刺すような異様に高い櫓。轟音を立てて疾走する鉄の箱。地を這いながら人を運ぶ鉄の龍。手のひらに収まる光る板を人々が一心不乱に覗き込む姿。電気とやらで夜が昼のように明るく照らされた街。そして──誰もが黙々と足早に歩き、声を交わさず、目も合わせずに行き交う世界。


 渡辺源一郎──諱を綱守という──は前世の記憶を持つ転生者だった。


 前世では彼は平凡な暮らしをしていた。朝から晩まで帳簿を睨み、上役に頭を下げ、疲れ果てて家路につく日々。休みの日には時代劇とやらを眺めては、江戸の町を歩いてみたいと夢想していた。


 そして、ある雨の夜。道を渡る途中、視界が白く染まり──気づけばこの江戸の世に生まれ落ちていた。渡辺家の嫡男として。遠く、鬼切りの血を引くと言われる家の跡取りとして。


 それから二十と五年。源一郎はこの世界の人間として生きてきた。


「まあ、こんな生活も悪くはない」


 源一郎は立ち上がり寝間着の襟を正した。


 前世では味わえなかった武家の暮らし。剣を鍛錬し、馬に乗り、家を継ぐ。確かに便利な道具はない。あの光る板もなければ夜を昼のように照らす灯りもない。冷やす風もなければ温める湯も出ない。前世なら当たり前だった便利さはこの世界には一切存在しない。


 だが、それでも。


 この世界には前世にはなかった温もりがあった。人の声が響き、炭火の匂いがして、土の湿気が肌に触れる。不便だが、確かに生きている実感が得られる世界だった。


「坊ちゃん、お目覚めでございますか」


 襖の向こうから老女の声がする。乳母のおたか、だ。幼い頃から源一郎の世話を焼いてくれている女で、今年で五十を超えるが背筋は伸び、声に張りがある。幼い頃に流行病で母を亡くした源一郎にとっては、最早、第二の母のような存在──いや、実際、父とは関係を持った妾ではあったようだが。


「ああ、起きた」

「では、お支度をなさいませ。今日は就任してから初めてのお勤めの日でございましょう」

「分かっている……それより、おたか、坊ちゃんと呼ぶのはもう止めてくれ……」

「何をおっしゃいますか。旦那様と比べればまだまだ、『坊ちゃん』でございましょうに」


 朝から溜め息をつきつつ、源一郎は襖を開けた。白髪交じりの髪を結い上げ、木綿の着物を着た姿は質素だが清潔だ。その顔には幼い頃から変わらぬ優しさと厳しさがあった。


「朝餉の前に、お顔を洗いなさいませ」

「ああ……」


 源一郎は庭に出た。朝の空気が頬を撫でる。井戸の脇には桶が二つ並んでおり、その一つに水が張られていた。


 本所の屋敷は約二百坪ほどの敷地で、与力としては標準かやや狭いという広さだった。式台付きの玄関、部屋が十ある母屋と門の側に長屋、蔵が一棟、離れに、そして白砂利の敷かれた立派な庭。この時代、同格と比べれば決して広くはないが、武家屋敷としての体裁は保っている。それでも勿論、未来のそれと比べればだいぶ広いと言えるのだが──。また、火盗改方の与力は馬を常備する必要があるため、屋敷の一角には厩も設けられていた。


 渡辺家は古い家だが、嫡男として家を継いだばかりの源一郎にとって、この屋敷の維持は決して楽ではない。幕府からの拝領地であり家賃はないが、渡辺家の財政を考えれば精一杯の住まいだ。


 屋敷の修繕費、奉公人達の給金、馬の飼料、武家としての体面を保つための諸々の出費──俸禄二百石あるとはいえ、実際の可処分所得はその半分。それでも源一郎にとって、この屋敷は誇りでもあった。


 源一郎は手ぬぐいを濡らし顔を拭った。冷たい水が心地よい。目が覚める。前世ならシャワーとやらで温かい湯を浴びていたものだが、この時代にそんな便利なものはない。井戸水を汲み、盥に張って体を拭く。冬は凍えるような冷たさだが、夏は心地よい。


「今朝は何だ?」

「麦飯に味噌汁、それに焼き魚と沢庵でございますよ」


 おたかが答える。質素な朝餉だが、それでも武家の食卓だ。町人の長屋に暮らす者たちはもっと粗末なものを食べている。握り飯一つで一日を過ごす者もいる。そう思えば、これでも贅沢なのかもしれない。


 部屋に戻ると膳が用意されていた。湯気の立つ味噌汁の香りが鼻をくすぐる。源一郎は膳の前に座り、箸を取った。


「いただきます」


 前世の習慣が口をついて出る。この時代にそんな習慣はないのだが、源一郎は気にせず手を合わせた。


 麦飯を一口。味噌汁を啜る。焼き魚の塩加減がちょうどよい。沢庵の歯ごたえが心地よい。前世で食べていた冷たい弁当とは違い、温かさがある。人の手が込められた温もりがある。


「おたか」

「はい」

「今日から火盗改方に勤める」

「存じております。坊ちゃんはもう立派な与力様でございます」


 おたかの目に涙が滲んでいる。源一郎は少し気恥ずかしくなった。


「まだ初めての日だ。立派かどうかは分からん」

「いいえ。坊ちゃんはもう旦那様の後を継がれたのでございます。立派な渡辺家の当主でございます」


 おたかはそう言って深々と頭を下げた。


 源一郎は箸を置き、縁側から外を眺めた。朝日が昇り始めて、空が茜色に染まっている。今日から始まる新しい日々。火盗改方与力としての生活が始まる。


 ──朝餉を終えると源一郎は書院に向かった。そこには刀掛けがあり、大小二振りの刀が掛けられている。


 大刀は渡辺家に代々伝わる「鬼切安綱」「髭切」の影打ち──平安の世、源一郎の先祖、渡辺綱がかつて鬼を斬ったという伝説の一振りと同じ玉鋼を分けた刀。真偽のほどは定かではないが、少なくとも渡辺家ではそう伝えられている。


 源一郎は大刀を手に取り、鞘から少し抜いてみた。刃が朝日に光る。研ぎ澄まされた刃は美しい。


「鬼、ね」


 源一郎は苦笑した。


 鬼など前世の世界では御伽噺の存在だった。節分の日に豆を撒いて追い払うとかいう風習があったな、などと思い出す。ちなみに、源一郎が渡辺姓になってからは、節分の風習は経験していない。なんでも、先祖の渡辺綱と勘違いして鬼が逃げるから──という理由であるかららしいが。


 とまれ、この世界では──。


 確かに人ならざるものが存在する。


 そして、源一郎は物心ついた頃からそれらを視ることができるという稀有な才があった。


 ──源一郎がこの世で初めて人でない存在を視たのは、五つの年の夏。


 ある晩、寝付けずに縁側に出ると屋根裏から小さな影が降りてきた。子供ほどの背丈で丸い顔に大きな目。赤い着物を着た不思議な子供のような姿。


「……誰だ?」


 幼い源一郎が声をかけると、その影は目をギョッと丸くして驚いた。


「み、見えるの!?」

「見えるぞ。お前、座敷童だろ?」


 それが妖怪と呼ばれる存在との、最初の出会いだった。


 翌朝、父上に尋ねても「何もおらぬ」と首を傾げられた。乳母のおたかも、他の奉公人たちも誰一人として座敷童の姿を見ることができなかった。


 ああ、これは──前世で言うところの「霊的存在が見える力」とかいう奴か、と幼心に悟った。


 もしかすると渡辺家の血が関係しているのかもしれない。先祖の渡辺綱は鬼を斬ったという。ならば渡辺綱は鬼が見えていたのだろう。だがしかし、父上も祖父上も何も見えないと言う──ならば転生者だから見えるというのか。


 結局、答えは分からなかった。ただ、人ではない存在が見えているのは自分だけだと理解した。


 それから二十年。源一郎は妖怪たちと共に成長してきた。


 夜の庭を飛ぶ火の玉、雨の日に現れる唐傘お化け、川辺で寝そべる河童──江戸の町には数え切れぬほどの妖怪が暮らしている。だが一般的に妖怪たちは昼の明るい時間には姿を現さない。彼らが人前に現れ目撃されるのは大抵が宵闇の刻、あるいは明け方の薄暗い時間──人と、あやかしの境目が曖昧になり重なる、その僅かな時の間。


 ただ──源一郎だけは日常的にその姿を視ることができる。


「……また変人扱いされると面倒だ」


 源一郎は小さく呟いた。独り言は癖のようなものだ。人でない存在が見えること自体は悪くない。むしろ彼らとの会話は面白い。だが、人には見えないものを視ているがゆえに、独り言が多くなる。それが周囲からは変人扱いされる原因にもなっていた。


 だが、まあ、構わないか。減るもんじゃないし、変人で結構、と──源一郎は既に諦めている。


「菖蒲」


 源一郎が声をかけると、部屋の隅から小さな影が動いた。源一郎が幼い頃から変わらない姿の座敷童。


「おはよう」


 源一郎が挨拶すると、菖蒲と呼ばれた座敷童は眠そうに目を瞬かせた。


「今日から勤めに出る。留守を頼むぞ」


 座敷童はこくりと頷いた。言葉を発することはない。ただ頷くだけ。だがそれで十分だった。この座敷童とは、もう二十年来の付き合いなのだ。


「眠そうだな」


 座敷童は首を縦に振った。そして源一郎を見上げて、にっこりと笑った。


「そうか。遊んでないで、ちゃんと寝ろよ」


 源一郎は刀を腰に差した。羽織袴を身に着け、身なりを整える。鏡を見る。六尺近い長身に黒い髪を結い上げた姿。顔立ちは悪くないと思う。


「──行ってくる」


 そう座敷童に声をかけ、源一郎は書院を後にした。




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