その17
「はぁ……」
郷華が矢城家にやってきた日から、一週間が過ぎた。一日目の例のアレに関しては、時間がきっと解決してくれるはず……なんて甘く楽観的な願望は叶うはずもなく、郷華の俺に対する応答は変わらなかった。というか、より酷くなってきているような気さえする。
それが俺だけに限る事ならばまだいいのだが、母さんや父さんに対する態度までもが暗くなっているというか、消極的になっているというか。
「う~ん」
少しずつでも郷華が打ち解けてくれればいい、ゆっくりでいいさ……とは考えていたものの、ウチに来てから一週間経った今では逆にふさぎ込んでしまったというのなら、考えも変わる。このままでは郷華がどんどん暗くなってしまいそうだ。それはいけない。
「あー……」
だからどうにかして郷華の気持ちを明るくしてやりたいと思う。ここ一週間、俺はその事ばかりを考えていた。しかしいつまで経っても具体的な打開策が見つけられなかった。まったく、自分の無能さが嫌になる。
「むー……」
「……何をそんなに唸っているんだ?」
と、ぐるぐると思考を巡らせていた俺にかけられる声。その声の方へと顔を向けてみれば……
「ああ、薫か……」
「ああ、薫だが……何か悩み事か、こんなところで?」
薫がこんなところと表した場所。それは、自動販売機の設けられた、生徒棟の廊下の一角。休み時間である現在、人通りが多く少しやかましい空間だった。俺はそこで飲み物を買った後、廊下の壁に寄りかかって考え事をしていたのだ。
「ああ、まあ」
「こんな場所で悩み事をしてるなんて、やっぱり矢城は変わり者だな」
「いいだろ、別に。誰にだって悩みはあるのさ……」
「ふぅん……」
薫はたった今買ったばかりであろう缶のホットココアを開封しつつ、俺の隣にまで来て、俺と同じように壁に寄りかかる。
「つか、もうすぐ夏至だってのにホットなココアを飲む奴も変わってると思うぞ?」
「いいじゃないか。好きなものを好きな時に飲むのに、なにかおかしな事があるか?」
「いやないけど」
「ならいいじゃないか」
そう言って、ココアをグイッとあおる薫。買ったばかりなのに熱くないんだろうか。
「で、矢城は何について悩んでたんだ?」
「ん……」
プハッと、まるでビールでも飲んだ直後のような息を吐きつつ、そう尋ねてくる薫。俺はそれになんて返すべきかを考える。
「あー、まぁ……家族関係について……かな?」
「家族関係というと、例の新しく出来た妹さんの事か」
言ってから、もう一度グイッとココアをあおった後、容器を近くのゴミ箱に投げ入れる薫。こいつ、ホットココアを二口で飲み終わりやがったよ。
「そういえば、矢城がその事に関して話すところを見た事がないな」
「いやほら、なんていうかさ、こういのってあんまり人に話すようなもんじゃないだろ?」
「そうか? この間は思いっきり、私の家庭事情を暴露したぞ?」
「あー、そういう例もあるけど……俺の場合は、なんだろう。なんていうか、聞いてると周りも暗くなりそうというか……」
ぶっちゃけ、俺の醜態なんかもあったため言いたくないのだ。
「……何か色々とありそうだな」
「ん、まぁな」
そう言って、買ってから口を開けてなかったアップルジュースを開封する。
「言いたくないのならいいが……私でよければ話を聞く事くらいは出来るぞ?」
「え?」
「ほら、この前は全力で私の家庭事情に巻き込んだろ? だから、次は私が力になってやろうと思って、な」
薫はいつものような飄々とした雰囲気を見せず、珍しく真面目な表情をしていた。
「あー……」俺は少し逡巡した後、口を開く。「じゃあ、一つだけいいか?」
「いいぞ」
俺の言葉に心なしか嬉しそうに返事をし、胸を張って次の言葉を待つ薫。
「えーと、喧嘩っぽい事をしてからの仲直りって、どうやればいいと思う?」
と、その言葉を聞いた薫の表情が怪訝そうなものに変わる。
「喧嘩?」
「そう、喧嘩」
「……矢城も喧嘩するんだな」
そして何故か感慨深げに言われてしまった。
「俺だって喧嘩くらいするぞ?」
「いや、すまん。どうにも矢城が怒っている姿というものが想像できなくてな……」薫は額に手を当てて、少し考える仕草をした後に再度口を開く。「まぁ、参考にならないかもしれないが、私の経験談でよければ話そう」
「経験談?」
「ああ。本当に参考になるか分からないが、この前あのバカ親と折り合いをつけた際の話だ」
「ああ……」
薫曰く、「女の尊厳をかけた戦い」と表された親子喧嘩の事か。
「まぁ大した事はしていないがな。とりあえず、私は言いたい事をすべてあいつに言った」
「すべてって……あの日、俺に言ってたような事か?」
「それも言ったが、それ以上に色々言った。主にダメ出し関係で」
「…………」
……あのおっさん、泣いたりしてないよな……。
拳を交えた、なんてカッコよく表現するまでもない、ただの危ない……本当に色々と危ない戦いをした相手だが、娘に散々な事を言われている姿を思い浮かべると気の毒に思えた。
「で、私が言いたい事をすべて伝えたら、あいつもあいつで色々と私に文句を言ってきた」
「……例えば?」
「ん、そうだな……お前はまだまだ子供なんだからとか、第一制服のスカートが短すぎるとか、コンビニのおにぎりはいい物だとか、そんな事かな」
「…………」
絵に描いたような親子喧嘩だな……。
「ともかく、だ。つまるところ私が言いたいのはな、仲直りするには、互いに溜め込んでる事を吐き出すのが一番だという事だ」
「……そういうもんかね」
「私はそういうものだと思うぞ。自分の中に溜め込んだものを吐き出せばスッキリするし、相手も相手で溜め込んだものを吐き出してくれるのなら、そいつの考えている事も分かるだろう?」
「まぁ、確かに」
「でもまぁ、私の場合は喧嘩が銃撃戦にまで発展したがな。そして、その銃撃戦の末にあいつとの折り合いをつけた。以上が私の経験談だが……参考になったか?」
「…………」
なんて危ない親子喧嘩だ。
(……ふむ)
しかし、銃撃戦なんていう物騒なところを除けば、薫の話は十分参考になった。
俺は郷華の事をまだよく分かっていない。当然、郷華だって俺の事をほとんど知らないだろう。だから今の薫の話のように、言い合いとまではいかなくともある程度腹を割って話す事はきっと大事な事だと思う。
「ああ、けっこう参考になった。ありがと」
薫のおかげで、仲直りのための指標が見えてきた。
「それならば何よりだ」
薫は優しげな笑顔を浮かべる。その母性のある表情はめずらしいと思った。
「ん、どうした? 私の顔に何かついてるか?」
「あ、いや……めずらしい表情してるなって思って」
「めずらしい?」
「ああ。なんていうか、優しい顔してたからさ」
「そうか? 自覚はないんだが……」
そう言って、自分の頬をコネコネといじくる薫。なんというか、先ほどと打って変わってすごく無邪気な仕草だ。
「今の仕草といい、さっきの表情といい、なんか今日の薫は新鮮だな」
「む? 新鮮?」
「ああ。ギャップがあって可愛い」
「なっ……」
と、俺が可愛いと言った直後、硬直して頬を紅潮させる薫。
「か、かか可愛いって……」
そして消え入りそうな声でそう呟いた後、赤い顔を俯かせて縮こまってしまう。そんな薫の姿を見てしまうと、俺の中のイタズラハートが目を覚ましちゃうんだぜ。
「すまん、つい本音が出た」
「ほ、本音って……」
「でも可愛い薫が悪いと思う」
「ぅぁ……」
顔が燃え尽きるほどヒート状態になっている薫。震えるぞハート(イタズラ心的な意味で)。
もう少しからかってみようかな、なんて調子に乗り始めた事を自覚できる程度に考え始めたあたりで、薫が自分のブレザーの中に手を突っ込んだ。
「……次に君は『何でそんなところに手を……』という……」
「なんでそんなところに手を……ハッ!?」
と。
前半はノリだったが、後半はマジで冷や汗が出た。
「君の敗因はたった一つ。たった一つのシンプルな答えだ。……君は私を怒らせた」
そう言って、薫がブレザーの中から出して天高く掲げる手。その中には携帯電話が握られていた。それを見て、俺の脳裏にある悪夢が甦る。
「や、やめろ……そのスイッチを押させるなぁ――!!」
どこかの誰かに時間を止めてほしかった。そして「やれやれだぜ」とか言いながらあの携帯電話を奪ってほしかった。しかし人生は無情だ。
「遅い。ぶっ放す、と心で思った時、既に行動は終わっている……」
薫の手に力がこもり、彼女の指が携帯電話のボタンを一つ押した。
『――だから、俺は生まれた事を後悔なんて、絶対しない』
そして休み時間の人が賑わう廊下で、最大音量にて垂れ流される俺の黒歴史。うわぁ、そこの窓から飛びてぇ~。
『……分かったか、この親バカ野郎』
他人の黒歴史を公然に晒すという、いともたやすく行われるえげつのない行為。個人的にはよく分からない能力だったが……なるほど。これは効く。
「……薫さん」
「何だ?」
「マジですいませんでした」
精神攻撃をマトモに頂いてしまった俺は、ただ全力で謝るのだった。
矢城功司、完全敗北。
キーンコーンカーンコーン……
休み時間の終わりを告げるチャイムの音。どうせならあと何秒か早く鳴ってくれれば良かったのに……。