列車が来る前に
雨が止む気配はなかった。
季節の境目に降るこの長い雨は、街の色を淡く溶かし、時間の感覚さえ曖昧にしてしまう。
春人はそんな曖昧さの中で、ひとつの確かな思いだけを胸に抱えていた――今日こそ、彼女の名前を聞く。
空は厚い雲に覆われていた。まるで昨日の雨がまだ終わっていないかのように。
春人は駅の入口で立ち止まり、祖母に借りた傘についた雫を軽く払った。
今日は友人と新宿で会う予定だったが、いつもより少し早く着いた。――いや、もしかしたら彼女に会いたかったのかもしれない。
ホームの空気は、湿った金属の匂いと、自販機から漂う淹れたてのコーヒーの香りが混ざっていた。新宿行きの電車はあと三分で来る。
そのとき、彼女を見つけた。
黄金色の髪の少女が、黄色い線のそばに立ち、電子掲示板を見上げている。今日は本を抱えていなかった。
春人は深く息を吸い込んだ。
――今日は…今日は聞こう。
「なあ…」と彼は近づきながら口を開いた。「昨日は言う暇がなくて…」
彼女は興味深そうにこちらを見つめ、言葉の続きを待っているようだった。
しかし、その瞬間、構内スピーカーから金属的な声が響いた。
> 「秋葉原行きの電車がまもなく二番線に到着します。黄色い線までお下がりください。」
彼女は小さく微笑み、春人の方を向いた。
「雨の土曜日って、あんまり好きじゃないんでしょ?」と、何気ない調子で言う。
春人は瞬きをした。
「どうして…それを?」
彼女は肩をすくめる。
「なんとなく、そう思っただけ。」
乗客の一団が二人の間を通り過ぎ、軽く肩が触れた。
春人は会話を戻そうとする。
「そうだ、俺は春人。君は…?」
電車が轟音を立てて止まり、ドアが開いた。
彼女は一歩下がり、鞄を握りしめる。
「望美。私の名前は望美。」
それだけ告げて、彼女は電車に乗り込んだ。
春人はホームに立ち尽くし、閉まっていくドアと、遠ざかっていく車両を見送った。
――そして、その名が一日中、頭の中で響き続けた。
列車の音はすぐに遠ざかり、ホームには雨音だけが残った。
望美――その名は、春人の耳に静かに、けれど確かに残響を刻む。
たった数秒のやりとりが、一日のすべてを染めてしまうことがある。
そして彼はまだ知らない。
その名前が、この先の物語を大きく動かすことになることを。