言えなかった名前
雨の日は、何かを静かに運んでくる。
それは、傘の内側にこもる息の温かさかもしれないし、
窓を伝う雫が見せる、一瞬のきらめきかもしれない。
春人にとって、この日もただの雨の日になるはずだった――
少なくとも、彼女に再び出会うまでは。
窓ガラスを叩く雨の音で、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
春人はベッドに横たわったまま、小さな川のようにゆっくりとガラスを伝い落ちていく雫を眺めていた。
今日は灰色の空――だが、それが嫌ではなかった。灰色の日は、人にあまり多くを求めない気がする。
学校には、いつもより少し早く着いた。
別に早く行きたかったわけではない。祖母に「早く出ないと、もっと濡れるよ」と言われたからだ。
制服の上着を着て、髪はまだ少し湿っている。数滴の水がまだ髪先にしがみついていた。
昇降口で傘を置いたとき、昨日のあの少女のことを思い出した。
理由はわからない。けれど、灰色の景色の中で、彼女だけが淡く明るい色で浮かんで見えた。
歴史の授業中、春人はほとんど先生の話を聞いていなかった。
窓の外、ガラスを流れる雨粒の軌跡を目で追っていると、机の横に影が立ち止まった。
「…あの」
柔らかな声が、彼の意識を引き戻した。
彼女だった。
前と同じ穏やかな表情だが、今日は本を抱えていない。
彼女は折りたたまれた紙を差し出した。
「昨日、廊下で落としたのを見ました。たぶん、ノートの中に入っていたものだと思います」
春人は紙をそっと受け取った。
それは数学の課題で、上の方に拙い字で自分の名前が書かれていた。
「ありがとう…また」
心臓が思っていたよりも速く打っていることに気づきながら、そう言った。
彼女は特に何でもないようにうなずき、自分の席へと戻っていった。
その後も、春人は何度も彼女を横目で見た。
話しかけたいわけではなかった。ただ、不思議な好奇心があった。
彼女の一つひとつの仕草に、何か自分の知らない答えが隠れている気がした。
放課後、ようやく何か言おうと決めたときには、もう彼女は遠くにいた。
白い傘を差し、雨の中を歩いていく。
春人は、彼女が角を曲がって見えなくなるまで、その後ろ姿を目で追った。
そうして気づいた。
自分は、まだ彼女の名前さえ聞いていなかった。
なぜだか、それがやけに気になった。
その夜、眠りにつく前に考えたことはただ一つ。
――明日…明日こそ、名前を聞こう。
雨は夜になっても降り続いていた。
眠りに落ちる直前、春人の胸に残っていたのは、
白い傘と、まだ知らない名前の響き。
その音を、明日こそ確かめようと、
彼は静かに心に決めた。