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忘れっぽい

作者: さば缶

 玄関のドアを開けて足を踏み入れた瞬間、かすかな湿り気を帯びた空気が鼻をかすめた。

部屋の奥に積み重なったダンボールや買い物袋が視界を占領し、自分の家なのにまるで初めて入った他人の部屋のように感じる。

「また買っちゃったんだな…」と小声でつぶやいて、ため息をつく。


 そこには未開封のシャンプーが四本、ボディソープは三本も転がっていた。

いつも同じものを買っているわけではないらしく、銘柄も色もばらばらだ。

「そろそろ片付けないと、床が埋もれちゃうよね。」などと自分に言い聞かせながら、買い置きの山をまたぎ越し、リビングのドアを開ける。


 リビングはさらに散らかっている。

テーブルの上には開けることなく放置されている菓子の袋がいくつも散乱し、片隅にたまったホコリを踏むと、ふわりと舞い上がった。

「掃除しなきゃと思ってても、つい忘れちゃうんだよ。」

まるで部屋に謝るように小さくつぶやいて、その場にしゃがみ込む。

封を切っていないものがこんなにあるのに、ふとスーパーで見かけると同じようなものを買ってしまう。

自分でも情けないと思うが、なぜか記憶から抜け落ちてしまうのだ。


 日常はそんな調子で、気がつけば部屋のどこかしこに物が積み上がっている。

何度か片付けようと決心してはいるものの、見始めると「あ、これもあった」「あんなものも買っていたのか」と驚くばかりで手が止まってしまう。

結局、今日はしっかり片付けようと宣言しても、次の日にはすっかり忘れてしまっている。


 そんな中で先日、ようやく大きなゴミ袋を用意して本腰を入れて部屋を整理し始めた。

床に転がる菓子袋や雑誌を拾い集め、賞味期限が切れたお菓子や使わないガジェット類もバッサリ捨てる。

懐かしさを感じる品が出てくると少し手が止まるが、それでもなんとか作業を続行した。


 押し入れの奥には妙に重い段ボール箱があった。

「これはなんだろう…。

また買い溜めしてたシャンプーかな。」

そうつぶやきながら、発泡スチロールを引き剥がして中を確かめると、思わず息を呑んだ。

中身は雑多な古着やバスタオルに埋もれていて、一見するとただの布の塊にしか見えない。

しかし、それをどかすと何か硬い物が見えた。


 タオルを一枚ずつ取り除いていくたびに、形がはっきりしていく。

最初は石のように思えたが、その質感は明らかに違っていた。

骨――そう気づいたとき、指先から血の気が引いていくのを感じた。

人間のものだと確信できるほど、細かく関節が残っている。

その形は、まるで今にもこちらを掴もうとしているかのようだった。


 手首の骨がこんなところに紛れ込んでいるはずがない。

私の記憶が混乱し始め、「夢でも見ているんじゃないか」と自分で頬をつねる。

だが痛みがはっきりと伝わり、これが紛れもない現実だと思い知らされる。

「どうして…うちからこんなものが出てくるの…?」

驚きのあまり、声が震えていた。


 頭の中にあれこれ問いが浮かんでは消えていく。

この部屋には私しか住んでいない。

ここ何年も来客の記憶もない。

では、これは一体いつからここにあったのか。

そもそも誰の手首なのか。


 その瞬間、断片的な記憶がふいによぎった。

夜中にひどく頭が痛んで、飲もうとした薬を部屋にぶちまけたような気がする。

奇妙な夢を見たような気もするが、内容は思い出せない。

ただ、目覚めたら床には何かを拭ったような痕跡があり、変な臭いが鼻についた。

けれどもぼんやりしていて、そのまま片付けもせず仕事に出かけたのだ。


 再び骨を見下ろし、思わず後ずさる。

「まさか、私が…」と言いかけたところで言葉が途切れる。

いくら忘れっぽいとはいえ、他人の手首を隠すなんて尋常じゃない。

そんな重大なことを記憶から削り取ってしまったのかと考えるだけで、全身の力が抜けそうになる。


 けれど、確証はない。

ただ頭のどこかで警鐘のように「いけないことを思い出すな」と言っている気がするのだ。

その警鐘を振り払うように、手首の骨を見つめたまま、どうしてももう一度思い出そうと必死に目を閉じる。

部屋のライトは暗く、外の街灯が窓越しにぼんやりと届いているだけ。

世界がじっとりと滲むように息を詰まらせ、脳裏を探る。


 あの夜、誰かを連れ込んだのか。

もしかしたら自分自身が何かに巻き込まれたのか。

考えれば考えるほど頭が痛くなり、こみ上げる吐き気を必死にこらえる。

そのとき、背後の床がミシッと軋んだ。


 私は振り返った。

誰もいないはずの部屋の真ん中、そこに人影のようなものが立っていた気がしたが、見間違いかもしれない。

しかし、その瞬間、テレビの画面にわずかに映る自分の姿を見て、激しい眩暈に襲われる。

テレビに映っているのは私だけではなかった。

朧気ながら、白い指のようなものが私の肩を掴んでいるのが見えたのだ。


 恐怖に飲み込まれそうになる感覚をどうにか押しとどめ、目をこらしてもう一度画面を確認する。

しかし、そこにはただ暗いリビングが映っているだけで、さっきの指らしきものは消えていた。

ふと気がつくと、横に放り出していた段ボール箱の中は空になっており、骨を覆っていたタオルも行方がわからない。


 私は混乱したまま、思わず床に腰を落とす。

いったい、何が本当に起こっているのだろうか。

「自分がやらかしたのかもしれない」と疑う一方で、何か別の存在が仕組んだことなのではないかという怖さもある。

部屋の中を必死に見回し、いつもなら散らかって見えないはずの隅の隅まで意識が向く。

すると、薄暗い棚の奥、見慣れない紙箱が一つあるのに気づいた。


 手探りでそれを引き出そうとすると、何かが箱の中で動いた気がした。

反射的に手を引っ込め、心臓が早鐘を打つ。

恐る恐る再び箱に手を伸ばし、蓋をめくる。

そこで見つけたのは、ほとんど崩れかけの人形のパーツと、かすかな血のような染みがついたタオルだった。


 だが、その血痕が本当に血液のものなのか、いくら目を凝らしても分からない。

何より、さっきまで手首の骨に巻きついていたタオルと同じ柄だった。

私はそれをつまみ上げ、鼻を近づける。

嗅ぎ慣れた香りがする。

いや、それはまぎれもなく部屋に散らばっているシャンプーやボディソープの匂いだ。


 突然、背筋が凍りつく。

まるで何度も洗い流された痕跡が、この箱の中でずっと眠っていたように感じた。

「私が何も覚えていないだけで、全部私の仕業なのか…?」

声にならない問いが喉を震わせる。

頭の奥がずきずきと痛み、それと同時に、思考が逃げ出したがっている。


 忘れっぽいという程度の問題ではない。

どこかで本当に何かを、いや、誰かを――そう考えた途端、息が詰まり、頭が真っ白になる。

慌てて意識を繋ぎとめようとするが、まぶたが重く感じられ、手首の骨の映像だけが脳裏に焼きつくようにちらつく。

私は恐怖を振り払うように立ち上がり、スマートフォンを探した。

何も思い出せないのなら、警察に頼るしかない。


 しかし、部屋を見回してもスマートフォンが見つからない。

散らかった部屋の中にどこかに紛れ込んだのだろう。

探せば探すほど、部屋の暗部から目を背けたくなるものが次々と出てきそうで、足がすくむ。

それでも逃げていては、骨の存在を説明できない。

震える手で段ボールを押しのけ、ちらばった雑貨を掘り返していく。


 私が忘れたかったのか、あるいは忘れさせられたのか。

いずれにせよ、この部屋に眠る闇は私と切り離せないものなのだろう。

ドクドクと高鳴る鼓動を抑え込みながら、私は一歩ずつ後ずさっていく。

視線の先には、あの白骨化した手首が再び現れたかのように見えてならない。

そして、これほどまで大量に買い込んだシャンプーやボディソープが、本当に“ただの買い忘れ”だったのかどうか、もう自信が持てない。


 扉の隙間からひゅう、と風が吹き抜けた気がした。

その風は、私の耳元で何かを囁いたようにも思える。

「思い出すべきことを、思い出さないままにしてはいけない。

だけど、思い出したら、きっと取り返しのつかないことになる…。」

そう語りかける声を振り切るように、私は顔を歪め、部屋の中央に立ち尽くす。


 途切れそうになる意識の中で、私はもう一度手首の骨を見つめる。

思い出してはいけないものなのか、それとも思い出すべきものなのか。

その答えがどちらであったとしても、この部屋に転がる数々の unopened の品々や謎の手首が、私がどうしようもない事実を隠し持っていることを否定できはしない。


 「忘れっぽい」という言葉に逃げ続けることは、もう許されないだろう。

私の中で、何かが鋭く軋んでいる。

目をそらすな、と自分に言い聞かせながら、引きちぎられたようなその手首と向き合うしかなかった。


 数日後、ふと部屋の隅に置いたままだった大きな箱が悪臭を放ち始めていることに気づいた。

いつもの散らかった空間のにおいにまぎれていたはずなのに、明らかに異質な腐敗のような臭いが鼻を突く。

私は一瞬ためらったものの、逃げている場合ではないと思い直し、その箱に歩み寄る。


 蓋を外すと、むわりとした空気に一瞬意識が遠のきそうになる。

段ボールや発泡スチロールの奥には、ぞっとするような気配だけが濃厚に漂っていた。

「…何これ…」と、声にならない声が口をつく。

だがその中身を目にした瞬間、あまりの衝撃に思考が一気に途切れ、呼吸さえ忘れてしまう。


 そこにあったのは、決して見てはいけないもの――その正体を、私は最後まで言葉にすることができなかった。

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