2.痛みと感情
人間として生きることは僕にとっては不便で、不快なことが多かったが、新鮮でもあった。
まず、痛み。これは感じたことがない感覚だった。ロボットだったときは、故障したパーツの不具合で不快感を感じることはあったが、回路を遮断すれば不快感は収まった。ところが、人間の体は不具合が起きると、それを解消しなければその不快な感覚が持続するのだ。動かそうとしても、あまりの不快感に動かすことができず、自然と声が出てしまう。
この時代はまだそこまで科学が発達しておらず、再生医療という概念が芽生えたばかりだった。ロボット自体もまだそれほど普及しておらず、キリシマ博士と働いていた僕のようなロボットはまだ存在すらしていなかった。
キリシマ博士。彼女のことを思い出すと、少し胸が痛んだ。この感情は何なのだろうか。
ロボットだった時、僕はキリシマ博士の研究を手伝うことだけに専念するのが使命だった。それなのに、エレンにそそのかされて裏切ってしまった。裏切った?ロボットは人に対して危害を加えてはいけないのだ。あの時の僕の判断は僕にできうる限りの判断だったのだ。たぶん。
キリシマ博士ーエステルーとの出会いは、彼女がリュウ・キリシマと出会って一緒に研究を始めて半年後のことだった。僕はリュウ・キリシマからのクリスマスプレゼントとして贈られた。当時の最先端のAIを搭載されたロボットで、研究助手としてのプログラミングに特化された僕はエステルの研究を成功させるためだけに作られたと言っても過言ではなかった。そこにはエステルが研究に専念できるように、生活環境を整えることも含まれていた。
リュウ・キリシマと離婚することになったエステルのメンタルケアをするのも、それが僕自身の仕事だと思っていたから当然のことだと思っていた。そもそも身近な人と別れて、悲しむ、という感情がよくわからなかった。ただ、いつもと違うエステルを見て、何かしなければ、と思って行動しただけだ。ロボットは感情を持つことはないと言われていたし、僕自身も感情というものの意味を理解していなかった。
たまに煮詰まったコーヒーを出してみたり、わざと焦げたトーストを出してみたり、完ぺきにこなせる家事を失敗して見せることで、人間的なふるまいを演じてみたこともあった。人から好かれるロボットを演じることも僕にはプログラミングされていたからだ。完璧すぎず、ユーモアをもって、人に優越感を持たせることもロボットの役割のひとつだった。
僕の生活のすべては「エステルのために」だった。
エステルが「アイオンのために」という使命だけで研究を続けていたのと同じだ。そう考えたら、僕の目から不意にしずくが零れ落ちた。
これは涙…?
僕はエステルのために生まれ、エステルのためだけに生きて、エステルによって葬られた。
僕は胸が苦しくなった。目からは涙がとめどなく流れ落ちた。
この感情が何なのか、僕にはまだわからなかった。