里の風 1
兵庫県、JR明石駅のすぐ北側に美しい三層の隅櫓を2棟繋げた石垣が見える、明石城跡である。明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。徳川幕府は西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで明石に着目した。(Wikipedia)
その播磨国明石藩城下より北西へ六里程行くと、一見稲作には適していない様な高地に、見事な水田が広がる台地がある。 現在は稲美町と呼ばれる名前からして、美しい水田が広がる様子が連想されるが、そうなったのは当時の先人たちが並大抵ではない労力を費やした賜物なのである。
秋の収穫時期は残暑も和らぎ、野を渡る風が気持ちよく感じられた。
「慎之介、今年は台風も無く良い収穫が出来たのう」
「はい父上、恐ろしい台風が無く今年は畦の補修も楽が出来そうです」
「ふむ、台風や嵐は嫌いか?」
「嫌いに決まっておりますよ、誰が喜ぶモノですか」
「そうじゃな、だが災害は又やってくるぞ、誰も望んでいないのに」
「はい、自然と言うものは無情なのですね」
「無情じゃ、人の持つ心から見れば無情、だが他のモノにとってはどうかのう?」
「…… 山が崩れたり、川が氾濫したり、喜ぶモノはおらぬかと?」
「だが苦労するのは人間だけじゃ、獣や鳥が崩れた山を治したり、魚が土手を治したりはせぬ、人間以外は皆知っているのじゃ、自然が再生するコトをな」
「……」
「人は自然の恐ろしさを試練と捉えるが、わしはこの優しい風も、恐ろしい嵐も同じ事なのではないのかと思っている、みな自然が与えてくれる恵みなのじゃ」
「嵐も恵み?ですか」
「ふむ、再生と言う意味では恵みじゃ、山も川も弱い所を人が無理に支えているから壊れるだけのこと、自然は人間など気にしてはいない、弱い所は崩し強く生まれ変えさせているだけのコトよ」
「ですが我々にとっては、田畑を壊す自然は敵としか……」
「わしはこれまで自然には散々逆らって生きてきた、ため池や疎水を掘っての、だがこれからは自然に逆らう生き方はやめようと思うのじゃ」
「水田の拡張さえしなければ水は足りておりますからね」
「そうじゃ、今後は自然よりもっと恐ろしい、人との戦いになるやもしれん」
「人? 人とは誰ですか?」
「いや、そうならなければ良いがと思っている……」
慎之介は父でありながら仁五郎の考えがよく分からなかった。
大高睦、元伊勢の守。幕府重鎮であったが以前より素行が悪く、その為に江戸を追いやられていた。ところがあろうことか赴任先の伊勢でも権力を振りかざす乱心で、伊勢神宮の巫女に手を出してしまったのである。
今は叔父に当たる信濃国諏訪藩の諏訪忠政に預けられて、蟄居謹慎中である
が、この夏に幕府より思わぬ書状が届いた。
『下・謹慎を解く。播磨国明石藩主松平直弘の補佐を命ず、即刻発つべし』
老中酒井播磨守の説得が将軍を動かしたのか? さにあらず、将軍にしても八男直良を世継ぎ争いの難儀から解放してやりたいのと、大高睦を処分したいが、朝廷を祭る伊勢神宮での不祥事を公にしては、幕府にも責任が及ぶ恐れがあるため伏せていたのである。放免するのは明石での失態を確信してのことであった。
「ハハハ、いくら上様とは言え諏訪家直下の大高睦を軽くあしらうことはあるまいと思っておったわ、ところで明石は京のまだ向うじゃの」
いい気なモノである、愚か者は何でも自分の都合の良いように解釈する。
「本多佐渡を呼べ、岩下もな!」
あわてて世話役が返答する。
「本多さまも岩下さまも他所預かりとなっておりまして、行方は知れませぬ」
「なに、行方知れず……? ならば一人で行けと申すか!」
「お供は諏訪家から12名、それと倉吉重蔵と言うお方が付くそうでございます」
「倉吉? だれじゃそいつは」
「は、当方にも分かりかねまする、ご公儀からの用人だとか」
「監視役じゃろう……、まあ良いわ」
謹慎を解かれた大高睦は、今まで抑え込まれていた鬱憤を晴らすかのごとく、諏訪城下を我が物顔に遊び呆ける、毎夜のご乱心に城下中が震えていた、叔父からはご公儀からの命令として、一刻も早く明石に発てと促すものの、睦本人は一向に気にせず、ひと月、ふた月と過ぎたのである。だが、さんざん悪名を流した後、やがて秋風が吹きだした十月にやっと重い腰を上げた。
明石藩小坂村では、庄屋司馬仁五郎の一人息子慎之介の祝言の準備が進められていた、お相手は隣村の金物商の娘京香である。当時百姓などの祝言は慎ましく行われるものだったが、庄屋ともなると全村民が集まるような盛大なモノだった、司馬家でも主たる村人が世話を引き受け、来客者全員に十分食べ物が当たるよう準備をしたのである。
祝言当日、小坂村司馬慎之介の元へ向かう京香の嫁入り行列と、諏訪から明石へ向かう大高睦一行が三叉路で出会ってしまった。 普通は山陽道を通るので会うこともなかろうが、大高の希望で有馬~小野を経由したのである。
(この辺は小説なのでどうにでも書ける、そしてイヤな予感がするのである)
十数名の花嫁一行が脇に寄り、頭を低くして大高一行に道を譲った。
「おおぅ、これは嫁入り道中か、どこまで参られる」
「へえ、小坂村の庄屋様へ手前の娘を嫁がせに行く途中でございます」
「それは目出度いことじゃ、気を付けて行かれよ」
「ありがとうございます、どうぞ先に行って下さいませ」
大高は「ふむ」と言ったが、道案内の者に小坂村の庄屋までどのくらいかかるのかを尋ねた。
「まて、その嫁入り道中を我らが警護して進ぜよう」
京香の父親があわてて前に出る。
「め、滅相もございません。私ら百姓でございますれば……」
「よいよい、庄屋ならば藩政に無関係でもない、わしも祝言を見てみたいのじゃ」
父親が丁寧に断ったが大高睦である、聞く耳は持ち合わせず花嫁一行の後ろに付いた。そして同行の内五名と倉吉重蔵には先に明石城へ行くよう指示をした、 重蔵は良い顔をしなかったが、大高の性格・気性はここ数日で分かっていたので渋々それに従った。
「倉吉どの、直弘公(明石藩主)に大高睦いささか遅れ申したこと、詫びておいてくれ……」
五名は「はは、」と頭を下げたが、倉吉は無言のままに一行の先を急いだ。
小坂村庄屋仁五郎の家では、花嫁一行の到着を今か今かと待ちわびていた。そこへ一行の長持唄が聞こえてきた、百間先から聞こえる良い喉の持ち主だ、すると仁五郎の玄関で待つ一人も大きな声で何やら唄いだした。
(それは独特の調子で皆さん想像して欲しい、最初は離れて噛み合わない唄だが、互いに唄い合い、やがて嫁ぎ先の玄関で調子が揃うのである。正に連れ添う二人の運命が想像できる。現代に残したかった風習である…本当にあったの?)
ただ到着したとき、花嫁一行に数名の武家衆がついているので驚いた、とりあえずは一行を迎え入れ席に着かせた後、仁五郎が京香の父親に武家の名前を尋ねるが、父親も知らないと言う、いきさつだけを聞かされた。これは困った事になった、どうすれば良いのか咄嗟には思いつかなかった。
「お武家さま、手前は庄屋の司馬仁五郎にございます、本日の目出たき日に免じてどうぞご無礼をお許しくださいませ」
「おお仁五郎と申すか、今日は押し掛けて悪かったの? わしは大高睦と申す、此度幕府上様より明石藩主松平直弘の補佐を命じられ、赴くところじゃ」
「ははー、その様な立派なご身分の方がどうしてこの様なところへ……」
「奇遇じゃの、懐の潤うておる庄屋の祝言を一度見てみたくてのう、いやいや、わしに気兼ねせず存分にやるが良いぞ」
「いえいえ、そう言われましても財も無い者ゆえ慎ましい祝言でございます」
「ハハハ嘘を吐くでない、次期城主の大高が祝言を取り持つのじゃ、慎ましい祝言で済まされるか」
「大高さまご無礼とは存じまするが、私どもは藩の財政と共に生かさせて頂いております、直弘公をお支えするお方であれば藩財の乏しいのはお分かりのはず」
「なに! お主、わしに説教する気か」
「お許し下され……」
京香の父親が腰低く仁五郎の横に歩み寄り控えめに言った。
「大高さま、仁五郎めは水田耕作の治水事業に私財まで投じなされ、その事は藩主直弘公にも感謝される者にございます、ごうぞお許し下されませ」
一堂に会した皆は祝言どころではなく冷や汗を流している者もあったが、この時とばかりに声をそろえた。
「お許し下さい!」 「お許しください」
だが、藩主松平直弘の名前を出された大高は引き下がれない、次期藩主を狙う者がこのような百姓相手に引き下がることは出来ないと思ったからだ。
「直弘のような者は、わしが上様に一筆認めればどこぞの乞食に成り下がるわ」
「……」
「今日は場合によってはわしが新郎の後ろ盾になるつもりでおったが」
それまで我慢していた慎之介が片膝を立て、言葉を遮るように言った。
「誰がお前なんかを後ろ盾に!」
「おぬし、若造が…… 親が親なら」
「もうお止めなされ!」
それを遮ったのは慎之介の親友片桐唐馬であった、少し遅れて来たので土間で見守っていた、もう一人の親友三好健吾はもう少し遅れて来る予定だ。
「おまえは? 明石藩士か、名前を申してみよ」
「新郎の友人で片桐唐馬、松平家小姓にございます」
「おぬし侍のくせに百姓の友人がいるのか、一揆とならばどっちの味方じゃ」
「その様なものの言い方をお止めなされと言っている」
「こやつ無礼な! 百姓ならば許せるものを、武士となると許せんぞ」
「許す許さぬと……、逆に言われたコトが無いようだな」
唐馬がゆっくり刀を抜いて土間から上がって来た。
「やめろ唐馬!」
「ばか、よさぬか!」
慎之介が叫ぶのと、周りの侍が叫ぶのが同時だった。 大高も一瞬驚いたが、こちらは数名の武士に守られている。
「あのバカを取り押さえろ、斬っても構わん」
武士たちも刀は抜いたがあまり戦う意思はなかった、それより唐馬のメラメラとした闘志に恐怖を感じていた、形式的に刀を出しても容赦ない一撃が何倍もの速さで襲って来そうで腕が縮んでいるのである。
「どうした、やれ!やれ!」
大高にケシカケられても、ゆっくり迫ってくる唐馬に皆道を開けるのである、そしてとうとう大高の正面まで来て対峙した、ゆっくり刀を振り上げた時。
「やめろ唐馬!」
慎之介が思いきり叫んだ、唐馬は振り上げた刀をそのままに。
「慎之介、こやつを許すか」
「ああ許す」
「祝言をぶち壊した俺も許せるか」
「ああ許す」
唐馬は大粒の涙を溜めていた、この先の予測がついていたのである、親友を守って死ぬのであればそれも良いと思った。
大高一行は慌ててその場を立ち退いた、大高睦も”許す許せぬ”はどちらでも良かった、今は自分の命が一番だったのである。
京香は始終震えていた、花嫁衣装に身を包み薄く化粧した顔はこの世の者とは思えないように美しかった、だが祝言は続けるコトが出来ず、延期として一行と共に実家に帰った。(悲しいことである)
しばらくして健吾が酒徳利を両手に走って来た、その頃には慎之介も唐馬も落ち着きを取り戻していた。唐馬が静かに言った。
「お前は何時でも一足遅い……」
だがこれで良いと思った、健吾を巻き添えにしなくて済んだのだ。 色々な思いから解放されたくて夜は三人で飲んだ、以前城下で再会した時はもう昔の俺たちとは違うと言ったが、いなみ野では子供の頃に還ったように思えたのである。