播磨国(はりまのくに) 明石藩
江戸城。 江戸城は徳川幕府より尚古く、江戸時代の始まる150年ほど前に太田道灌により築かれた、当時はそれ程大きな城ではなかったが、徳川家康の入城により大規模普請(天下普請)を行ったことで、外郭総延長が14km、城門123棟と言う日本一の規模となったのである。
小春日和のある日、江戸の城下では珍しい一羽の鷹が、江戸城堀の松から飛び立ち、城の一角をかすめてどこかに飛んで行った、一室で丁度外を見ていた者が窓に近寄るのと同時に、後ろの襖が開き恰幅の良い初老の侍が入ってきた。
そこは柳間と言い、普段は位階五位以下および無官の外様大名等が詰める部屋である。今日はそこに老中・酒井播磨守正元が遠国奉行山中摂津守兵右衛門を呼び対峙していた。
「播磨守さま、ご機嫌麗しゅうございます」
「よいよい、堅苦しいのはやめい、先日の件じゃ、如何相成った?」
「はは、お持ちしてございます」
「うむ、申せ」
「は、播磨守さまのお国元、明石藩にございまする」
「なに明石と? 西国で播磨に近くとは申したが、明石ならばわしもよく知っておる、諍の多い藩で姫路でも手を焼いておるわ、その様なところを勧めるのか!」
「いえ、さに在らず、お聞きくだされ……」
老中酒井播磨守正元は播磨国姫路藩15万石の藩主であり、ここ2年は老中職を賜り江戸城にて徳川幕府の執政を補っているのである。
その老中がどうしてこの様な密談をするのか。 十数年前将軍が播磨国を巡回した際、女中だった美しい娘を気に入った為、正元の養女として縁組をしたのち大奥へ上げた、間もなく養女は男子を産み側室・北の方となったのである。
ただ、その男子(八男・直良)は元服を終え将来を考えたとき、世継ぎ争いを避け、家臣としての生き方を望んだ。 世継ぎ候補となるのは、喜ばしいと思われるが、伏魔殿と揶揄される江戸城、大奥も含めた世継ぎ争いに巻き込まれるのは、直良や地位の低い側室・北の方にとって非常に難儀である、運良く世継ぎとなれればこの上なきものであるが、そうなる可能性は低く、それより不慮の死を招く可能性の方が高いのである。 酒井正元は北の方からの依頼もあり、老中職の権限を生かして直良を譜代大名とする道を探っていた、姫路藩に近い西国でそれが実現できる藩を遠国奉行の山中摂津守兵右衛門に探らせていたのである。
「……と言う訳でございます、昔の明石にあらず、発展出来る明石にござる」
「さようか、同国隣藩にして知らずや、過去の固定観念が今の目を塞ぐのであろうな、そう言えばここ数年は明石と諍いは起きてはおらぬのう」
「は、問題は以前のような諍いが無く、藩内においても治世が良くなりましたゆえ、藩主鞍替えの理由も無くなりましたこと……」
「ほう、問題が無ければ問題を起こせば良いコトじゃ、案はあるのであろう?」
「は、播磨守様が後ろ盾ならば大胆な策も出来ましょう、但し直良様が藩主として受け入れられるまでには明石も棘の道を歩むコトかと……」
「棘の道か、一度難儀を味あわせた後にご政道を正せば民心もついてくると言うコトじゃな? よいよい、して誰がかき混ぜる」
「それは先の伊勢奉行で、謹慎中の大高睦が適任でございましょう」
「大高、あれは事が公になれば打ち首ものだぞ、謹慎しても悪行は治らぬ、かのような者が一時でも明石を治められるか?」
「そこが播磨守様のお力でございます、目的をはっきりとお告げになれば上様も動かされるかと、直良様を伏魔殿からお救いする手段なのです」
「……よし、で、問題はどう起こすつもりじゃ」
「は、明石藩重鎮を…… 二人ほど死んでもらいまする……」
バシャ!
格子窓に何かがぶつかった、兵右衛門が慌てて窓際に近付くと鷹が雀を捉えて飛び去るところだった。
「鷹が雀を捕ったようにございます」
「鷹が? 江戸では珍しいのう、播磨ではよく見かけたものじゃが」
「鷹は縁起が良いモノにございますれば、吉兆の予告かと?」
「ははは、摂津守(山中兵右衛門)よ、頼りになる奴じゃわい!」
梅が終わり、今は桜も終わろうとしている、つい先日新年を迎えたと思ったが月日が経つのは早いものである。
いなみ野の腕白三人も元服を終え、司馬慎之介はいなみ野の庄屋で父・仁五郎の補佐をしていた。 片桐唐馬と三好健吾は明石城下にて小姓としてそれぞれの職に就いていた、職は主に雑用で面白いものでもなかったが、二人とも剣術の稽古だけは熱心だった、親友の慎之介に藩で一番強い武士になると約束をしていたのだ。 仕事は下っ端で虐められもしたが、剣術がみるみる上達して、先輩たちを負かすようになると、虐められることも無くなった、剣術は楽しいのである。
いなみ野をはじめ、各農地で田植えの準備が始まり、各村の庄屋たちが用水の振り分けを連日話し合っている最中に事件は起きた。
その日、明石藩水奉行村岡景綱は、田植え日程割り振りの事務作業で下城が大幅に遅れ、大手門を出た時はすっかり暗くなっていた。供も付けず一人で帰宅の途中、町家が途切れひっそりしたところで見知らぬ浪人風の男に呼び止められた。
「村岡景綱どのか?」
「…… 何やつ!」
「村岡どのなら頂きたいモノが」
「いただきたい? お主にやるようなモノは無い、去れ!」
「ふふふ、その命、やらぬと言われても貰って行くぞ」
「な、なに! 無礼な、去らぬか!」
「問答無用」
浪人が静かに刀を抜いた、村岡は慌てて助けを呼ぶ。
「待て、話せば分かる事もある! 誰か! 誰かー!」
浪人の行動は早かった、逃げる暇を与えず、何のためらいも無く相手の胸を刺した、斜め横から刺したので、剣は脇腹から入り肺から心臓に達した、村岡はそれ以上叫ぶことが出来ず、静かにこと切れたのである。
翌日明石藩は大騒ぎとなった、水奉行の職とは各地で農業用水の問題が起こると仲裁に入り、時には職権にて強引に解決させることもある。数年前までは恨まれる事も多く、誰もやりたがらなかったが、近年は水問題が解消されて恨みを買うようなことは考えられないのである。
検死の結果、殺され方も辻斬りであれば袈裟斬りが多いが、刀を鎧通しの様に使う技は珍しいと判断された。
事件以降、藩では定刻を一時以上を過ぎた重鎮の下城には小姓が護衛としてつけられた、当然唐馬と健吾もその役目を負わされた。 若い彼らにとっては辛い任務と思いきや、彼らは道場以外の剣法に興味を惹かれ、当番以外でも憧れる道場の師範代と共に警戒に出ていたのである。
水奉行が暗殺されてから五日目の夜である。街道沿いの宿場や港の船宿界隈を不審な者がいないかと片桐唐馬と三好健吾、道場の西島師範代が見廻っていた。
「あ~あ、怪しい者はいませんね」
健吾が言うと、唐馬もつまらなそうに同調した。
「先生、今夜はもう帰りますか?」
「……」
西島は黙っていた、二人が見ると何やら緊張している様子だ。
「先生どうかされましたか、具合でも悪いのでは?」
「黙れ、先ほどからつけられている、態度は変えるな」
「えっ? 我々がつけられているのですか……」
「よいか、この先の西光寺に誘う。健吾は番所に知らせ捕り方を連れて来い」
「先生、大丈夫でしょうか」
健吾が不安気味にたずねた。
「大丈夫だ、生け捕りにしなくてはならん、二人とも肝を据えてかかれ」
船宿や酒屋が続く辻で健吾と別れた、二人はゆっくりと町外れにある西光寺に向かった。 唐馬は感じることが出来なかったが、西島は後ろに迫る殺気を感じながら西光寺裏の竹藪前に来た。
寺の土塀を背にして歩きを止め、振り向いた。
「出て来い! 話でもしようじゃないか」
「……」
言葉は無いが黒い着流しの浪人風の男が闇から姿を現した。
「どうしてわれらをつける?」
「ふふふ、お主は少し出来そうじゃ…… 斬りたくなった」
顔がはっきり見える位置まで近寄ってきた、この距離が間合いなのだろう。
「先日、村岡景綱どのを殺ったのはお主か」
「さあそんなヤツは知らん、今宵お主を斬ってもすぐに忘れるタチでのう」
「とは言っても理由無く人を殺められるか、誰の指しがねじゃ」
「つまらん時間稼ぎはよせ、斬りたいから斬るだけのことよ」
「斬れるとは限らんぞ、反対に斬られるとは思わんのか?」
「斬られると思うて刀を抜くバカはおるまいよ、参るぞ」
浪人が静かに刀を抜いた、唐馬はその瞬間に身震いしたが、このように自然体で命のやり取りができるものかと経験したことのない興奮を覚えた。
「唐馬手を出すな、わしに何かあってもお前が相手できる者ではない、良いな!」
健吾が捕り方を連れてくるまで時間を稼ぎたかったが待てなかった、西島も腹を決めた、真剣勝負は初めてではなかったが、人を斬ったことは無かった、ただこの勝負は相手を斬る覚悟でないと切り抜けられないことは分かっていた。
静かに刀を抜き正統派の正眼に構えた、どこにも隙が無い構えだ。
浪人は下段に構えたが、ゆっくりと正眼に切っ先を上げる、その後またゆっくりと少し下げた構えで止め、じりじりと間合いを詰めた。
間合いが決まった後、しばらく時合いを見るように動きが止まったが、瞬発力を秘めた剣先が今にも飛んでくるような気迫を唐馬も感じていた。
西島が浪人の刀を払う(下げる)のと浪人が払う(上げる)のが同時だった、
相手の刀を払った後は突き出すのが常道ではあるが、西島は咄嗟に引いた、突き出せば相討ちの可能性が高い、急所を正確に刺せた方の勝ちだろう。
相手の刀は正確に胸に伸びてきた、咄嗟に体を開き、引いた刀でそれを押しのけるようにかわした、かわし際に体を寄せ袈裟に斬り下げた、浪人は体をねじる様に前転させ、起き上がりざまに西島の足を水平に斬る。 その時西島が上から刺すのと、浪人が下から刺し上げたのが同時だった、相討ちに見えたが、西島は軸足を斬られた分手元が狂い的を外した、それに対し浪人は正確に西島の脇から心臓を刺し通していたのである、西島がガクッと崩れた。
壮絶な斬り合いを目の当たりにした唐馬だった、勿論真剣での命のやり取りは初めて見た、怯むかと思いきや思わず刀を抜いて浪人に駆け寄った。
「おのれ、浪人! おれと勝負じゃ!」
刀が震えていた、浪人はやおら立ち上がり。
「小僧、こやつが最後に何と言った、忘れてはおるまい」
「そんなの知るか! 先生が…… おれが相手じゃ!」
「わしも『斬られると分かって刀を抜くバカはおらん』と言った、お前が今するコトはこいつを手厚く葬むることじゃ」
そう言って素早く竹藪の中に消えていった。 と同時に寺の土塀の向こうから提灯を掲げた多くの捕り方が走ってきた、健吾もその中にいて唐馬の元に駆け寄った。
「唐馬無事か! 先生は!」
「先生が……」
見ると一間向こうに西島が倒れている、捕り方の同心と健吾が抱きかかえるが既にこと切れていた。 唐馬も握り締めた刀を自分では外せなかった。
穏やかな春の日である、当地いなみ野は情報の飛び交う西国街道からは離れているため、城下の騒動とは無縁のように百姓たちが田の修繕に励んでいた、慎之介も一緒に昨年傷んだ畦や用水路の補修を手伝っていた。合間、道端の小屋で休んでいると城下から商売に来た小間物屋が通りかかった、一人が呼び止めた。
「与吉さん、城下の様子はどうかえ」
「ああ、城下は今大事じゃ、この先どうなる事やら心配でのう……」
「そりゃどういうことじゃ?」
「あれ、何も知らんか? 十日ほど前、水奉行さまが何者かに殺されなさったのは知っとるのぅ?」
「そりゃ知っとるわい、下手人は捕まったのかえ」
「捕まるどころか、捕まえに行った方がまた斬られなすってのぅ」
「へぇ~、そいつぁ強えんかい」
「強いだろうよ、斬られたのは藩道場の師範代じゃ、藩の面子は丸潰れじゃな!殿様も躍起になって下手人を探しているそうじゃが、このままじゃ……」
「ど、どうなるんでぃ?」
「藩の重臣が斬られその収拾もつけられない様じゃ~」
「収拾がつけられなかったら?」
「そこよ、先年上野板鼻藩で同じ様に藩の重臣が斬られて、ご公儀よりコトの収拾を命じられたが、出来なかったため勤務怠慢の罪で改易となったのよ」
「か?かいえき? そらなんじゃ」
「改易っちぅたらよ、殿様の領地をとり上げられてよ、お家も断絶になるコトよ」
「ええ~ そら困るじゃねえか! わしらはどうなるんじゃ」
「困るのう、だが困るのはお侍だけじゃ、わしらは殿様が変わろうがするコトは変わらんでのう」
「ああそうか、そんならええが、今の殿様はええお方じゃのにのぅ~」
「ははは、まだそうと決まったわけじゃない、最悪がそれよ」
「ははは、そうじゃそうじゃ、殿様ならちゃんと収めて下さるわい!」
「ほなあんたら精を出しなはいよ、わしも先を急ぐでな、はいはい……」
一緒に聞いていた慎之介は走って家へ帰った、父・仁五郎は丁度出かけるところだった、先ほど聞いたことを伝えると、その事での寄り合いが今からあると言うのだった。 次にとった行動は軽い旅支度で城下へ向かったのである、城下まで約六里(25km)今から経てば明るいうちに着くだろう、すぐにでも唐馬と健吾に会いたかった。ただ慎之介がいくら会いたいと思っても相手は武士、簡単に会えるものではないのだが、庄屋・司馬仁五郎の名前が手形の様に効き、どこを訪ねても邪険にされることが無かった、父の偉大さを知った気がした。
唐馬と健吾は城内にいた、健吾は重臣警護の当番に当たっていたが、慎之介が来ていると知って同僚に代わってもらった、唐馬と二人で慎之介が待つ飯屋に向かった。
「おうおうシンちゃん! 何ごとじゃ?」
「ああ良かった、お前らが心配でのう無事だったか」
「ああ何とか無事じゃ、唐馬は危なかったがのう」
「危なかった? どうしたんじゃ」
「いや、何でもない、健吾はいらぬコトを言うな!」
「いやいや、オレには何でも言ってくれ、力になれることがあれば……」
「慎之介、もう昔の俺たちじゃないんだ、自分の身は自分で守る」
「ああすまん、お前らは侍だからのう、おれはまだガキのままじゃの」
健吾があわてて取り成す。
「シンちゃんが親父さんについて色々やっているコトは知っているよ、立派なものだ、唐馬も立派じゃぞ、もう道場で相手がいないほど強くなってな」
「喋り過ぎだ健吾、道場でいくら強くても意味がないんだ、真剣で勝てなければ」
慎之介はその言葉を聞いてゾクっとした、あの無邪気な唐馬では無い気がした。
「武士とは常に命と向き合っているのか……」
またあわてて健吾が取り成す。
「いやいや、そんなことはないんだ、普段はつまらない雑用ばかりなんだ、子供のころから侍ほど楽なモノはないと思っていたが、実際そうなるとこれでいいのかと疑問に感じるよ、唐馬もそんな気持ちになっているんじゃないか?」
「バカを言うな健吾、オレはお前と違う、モヤモヤする事はあるがそれは目標を定めようとする迷いだ、何事も自分がやりたいことの一部だというコトだ」
三人の間に少し戸惑いが生じたが健吾が話題を変えた。
「ところで慎之介、京香とはどうなっているんだ?」
「ああそれは、親父が早く祝言を上げろと言ってな、秋にそうなりそうだ」
「ほお、目出度いじゃないか、早くも所帯持ちか、京香はいい嫁になるぞ」
「ああ京香に不満は無いが、何か自分のやりたいことが出来なくなる様な……」
「何かやりたいコトがあるのか?」
「昔はお前らの様に侍になりたかった、それは無理でも、オレの人生なのに親父の思うように進んで行くようで…… 何か抵抗したくなるんだ」
「まあ、よく分からんが、慎之介は百姓を束ねる大事な役割を持っている身じゃ、早く身を固め人望をつけさせようとする親父殿の想いも分からぬではないぞ」
「そうかのう、ま、祝言の日取りが決まれば知らせるで、来れるなら来てくれ」
「おう楽しみじゃ、じゃが、あのカナの機嫌はどう取れば良いのかのう、ハハハ」
昔話に花が咲き何時しか子供の三人に戻っていた。
春の長雨が続き今年はため池に十分な貯水が出来た、明石藩も落ち着きが戻り、いなみ野でも田植えが始まろうとしている。 いつかの小間物屋の心配もどこかへ消え去ったかのように思えた。
しかし、ここより遠く江戸城・柳間に於いて老中・酒井播磨守正元が遠国奉行山中摂津守兵右衛門を見下ろし、ほくそ笑んでいた。
「明石藩、もらったぞ……」
兵右衛門から目を逸らし、窓から見る遥か先は播磨国明石藩であった。