プロローグ
真っ青な空に一羽の鷹が飛ぶ、上から見ると猛禽特有の美しい羽紋が翼に広がるのだが、下から見上げると空の眩しさに溶け込み、その雄姿は隠されている。
鷹は針葉樹の山から雑木の広がる里山へと滑るように飛行する、音もない滑空は誰も気が付くことがない、すると小さく羽ばたき、その姿勢が少し乱れた、だが直ぐに立て直した後は、目標を地表へと一直線に速度を上げた。
繁殖の準備なのか忙しく草の新芽を啄んでいるツガイの雉鳩がいる、二羽は今年が初めての繁殖か、長年連れ添う夫婦であるのか、いずれにしても幸せな時を過ごしているのである。
だが自然界に安心出来る時間は一時も無い、餌場を一瞬影が横切り、何かと見上げた時、不幸はそこに来ていた……。
「おおすげぇーー! タカが雉鳩を捕ったぞ!!」
里山で遊んでいたワンパクたちが駆け寄り鷹を取り囲んだ、雉鳩は鷹から逃れようと必死でもがくが鷹の鋭い爪がそれを許さない、そればかりか剣のような嘴で急所の喉を食いちぎるのである。だが流石のハンターも今は全力を出し切り小僧たちが迫っても動けない、口を開け全身で息をしているのだった。
「よし、捕るか!」
武士の子らしい唐馬が言う。
「おお、二羽とも捕ろう!」
これも武士の倅か健吾が答えた。
「待て、捕るのはよせ! 近寄るな」
言ったのは庄屋の倅、慎之介だった。
「あの雉鳩はアイツの獲物だ、おれたちのモノじゃない」
「だからアイツもとっ捕まえるんだい」
「ばか! あれを見てみろ、お前らに武士の情けはないのか?」
「ならお前がやれよ、武士じゃないからな」
「なに、お前ら二人で俺にかかってこい! 俺が負けたら好きにしろよ」
慎之介は本気で鷹を守ろうとしている。
「ええよ慎ちゃん怒るなよ、タカの獲物を横取りなんかしないよ」
三人は遠巻きに暫く見ていたが、やがて回復した鷹は軽々と雉鳩を持ち上げて飛んで行ってしまった。
そのあとを見ると大量に抜けた羽毛の中に相方を探すもう一羽の雉鳩がいた。
江戸中期、播磨国(兵庫県)明石藩に 『いなみ野』と言う地域がある、古くは万葉集にも歌われた由緒ある地域であるが、瀬戸内気候で降水量が少ないことに加えて、高台にあたるため慢性の水不足に悩まされる地域であった、またそこには複数の村が存続しているので水の争い事が絶えない地域でもあった。
”あった”と過去形にしたのは、慎之介の父、小坂村庄屋・司馬仁五郎の数十年に及ぶ尽力で各村にため池を作り、かつ分水のために疎水を設けたことで、ここ数年農作物の生産力が一気に上がり、村間のいさかいも無くなったのである。
これまで水不足のため生産性が低かったいなみ野は、藩政の面からも切り捨てに合っていたが、これまでより生産量が上がることは幕府算定の石高以上が収穫できる訳で、小坂村・司馬仁五郎の手腕は藩主・松平直良の耳にも届いていた。
当時の庄屋は、広大な農地を保有して、広い屋敷に住み、武士よりも経済的に裕福と言うのが一般的だったが、司馬仁五郎はそうではなかった、私財はすべてため池と疎水につぎ込み、屋敷こそ広かったがその暮らしは楽ではなかった。
ただ、司馬家の祖先は戦国武将の有力な家臣であり、江戸時代になって庄屋となったもので、蔵には武具や刀剣類も残っている名門なのである。
「慎之介、お前も来年は元服じゃ、自分がどのような者になるのか、そろそろ決めなくてはのう?」
夕餉において仁五郎が息子の慎之介に問いかけた。
「おれは武士になりたいんだ、唐馬や健吾のように武士になる」
「武士? 武士になって何とするぞ?」
「殿様に仕えるんだ、殿を守ることが武士の役目でしょう」
息子の一途な面を見て仁五郎は苦笑した。
「武士は殿をお守りするか、ならば百姓は誰が守る?」
「殿様が守ってくれるよ、殿様は一番偉いんだ」
「そうじゃの、だが数年前までこの地は干ばつで年貢に困っていた、放っておくと一揆を起こす者さえ出たかもしれぬ、皆はどうすれば良かったのかな?」
「……」
横で母のキヌが仁五郎を見て首を横に振った。
「そうじゃな、人の一生は長く生き方も紆余曲折じゃ、生き方等は簡単に決まるモノではない、ただ慎之介、いかなる時にも書物を読む事を忘れるではないぞ、書物には先人の知恵が豊富に詰まっている、幼くても先人の積み重ねた知恵を我が物に出来るのじゃ」
「うん、でも俺は武士になる、今でも唐馬や健吾には負けていないんだ」
「ははは、人の大きさは腕力だけではないぞ、百姓の代表でしかないワシでも一介の武士に負けたりはせぬ、殿様から意見を聞かれることもあるのじゃぞ」
慎之介の目が輝いた。
「父上は殿様と話ができるのか」
「そうじゃ、その力こそ書物から得る知恵のなせるモノなのじゃ」
「もういいじゃありませんか? 慎之介の食が進みませぬ……」
キヌの言葉で仁五郎も控えた、来年元服して大人になる息子に対し、男親はそれなりの期待を抱く、一方母親はいつまでも子供でいて欲しい、と思ったのかも知れない。
翌日、慎之介はまた唐馬と健吾の三人でいなみ野の丘を駆け回った、ため池の畔では村の娘たちが花を摘んでいた、その中の一番小さいカナがいち早く慎之介たちを見つけ手を振った。
「シンにいちゃ~ん! シンにいちゃ~ん!」
気が付いた三人が駆け寄ってきた、男女で遊べるのは元服までの子供の特権? なのである。
「カナ、なにしてるんや?」
「お花つんでるの、きれいでしょ?」
丸く束ねた花の輪を差し出し自慢げにほほ笑む。
「これね、カナをお嫁さんにしてくれる人にあげるの」
「ほぅ、俺かな?」
唐馬が手を差し出した。
「ちがう!」
カナが慌てて手を引っ込めた。
「カナどの、拙者でござろう?」
健吾が大人ぶって言う。
「ちがう!!」
「なんだ、つまらん、行こうぜ!」
三人は笑って立ち去ろうとしたが、カナが前を塞いだ。
「まって! カナはシン兄ちゃんのお嫁さんになるの!」
慎之介の胸に花輪を突き出した、すかさず唐馬がそれを払い落し。
「ば~か、慎之介は京香ちゃんと許嫁なのを知らんのか?」
笑顔だったカナが泣き出した、何も分からない五つの子供だ。
「いいのよ、カナちゃんは可愛いから慎ちゃんのお嫁さんになれるよ?」
側にいた隣村の京香が優しくカナを労わった。
「いいの?カナがシン兄ちゃんのお嫁さんになったら、京姉ちゃんはだれと?」
「私はもらってくれる人がいれば誰でもいいの」
カナの機嫌が急に良くなり、慎之介の手を引っ張って池の土手に連れて行った。
花を摘み絨毯のようになった一角に皆横になった、いい角度で空が見える。
「なあ慎ちゃん、こうして自由に遊べるのもあと一年だよな」
健吾がボソッと呟いた。
「ああ俺も親父に昨夜説教されたよ」
「ええ、なんて?」
唐馬と健吾が代わる代わる問いかける。
「お前はどんな人間になるんだ? って」
「なんて答えたんだよ」
「武士……いや、まだ答えは無いんだ」
「お前んとこの親父さんは偉い人やからなぁ、庄屋を継ぐんだろ」
「俺は、俺のやりたいこともあるからな、お前たちは武士だからいいよな」
「ああ、武士は上についとけばいいだけだから何も考えなくていいよ」
健吾が小石をため池に投げる、美しい波紋が広がる、それを打ち消すように唐馬が大きめの石を荒々しく投げ込んだ。
「あ、やったな!」
他愛のない事でケンカが始まる、収めるのはいつも慎之介である。
「俺たち大人になっても、何時も一緒に助け合って行こうな!」
また大の字で大空を見上げた、爽やかな風が顔を撫ぜる。
カナが京香を連れてきた、慎之介の横に寝させて二人の手を握らせた。
「京姉ちゃんもシン兄ちゃんのお嫁さんになったらいいよ、一緒になろう?」
カナは平気だったが、京香の顔は真っ赤に染まった。
「あっ、あれは大きなネズミだ」
「おれには取っ手の折れたヤカンに見えるがのう」
いなみ野の空はどこまでも青く、白い雲で皆がそれぞれの絵を描くことが出来るのである、ただその絵は次々に形を変え、思いがけないものに変化したり、あっけなく消えたりもする……。
山里の爽やかな風が再び全身を包み込んだ、青く澄んだ空が皆の心を癒してくれる、いつまでもそこにいたくなる様な場所なのだ。
ただ、その青い空に溶け込んで良く見えなかったが、獲物を探す一羽の鷹が、皆の上を滑空したようだった。