五
「いるんでしょ」
宗介が黙ったままでいると、男は《なか》半ば苛々《いらいら》したように迫った。
「貴方は……」
「弥一ってんもんで、お寧があんたの家を出て行ってから、俺が世話をしてたんですよ。急にいなくなったもんだから、ここに来てるんじゃねぇかって」
お寧の意思かは不明だが、この男がお寧を連れ出したことは間違いない。
自分が二人のことに口出しをしていいのかという躊躇いもある。だが、昨夜の様子から、お寧が幸せそうには見えないことも確かだった。
「たしかにお寧さんはいるが、高熱を出していて、とても会える状況ではない」
本当か、と問いたげな瞳で弥一が見つめる。
どうやら納得して踵を返してはくれないようだ。
「一目だけでも、会わせてもらえないでしょうかね」
「……わかった」
どのみちお寧が話をできる状況でないことには変わりない。弥一も実際に見れば信じてくれるだろうと、宗介は家に招じ入れた。
弥一は居間で横になっているお寧の側に座した。
「お寧」
まさか苦しくしているのが演技だと思ったのか、返事をしないお寧に眉を険しくさせたのを、隣に腰を下ろした宗介は見た。
次いで弥一はそっと、お寧の額に手を伸ばす。
ほぼ同時に、掻巻から出されたお寧の指先が、宗介の膝に触れた。それが自分に何かを伝えたいからだと思うのは、自惚れだろうか。もしかしたら、弥一に触れようとして伸ばされた手かもしれないのだ。
お寧の指先は、震えている。助けてと言うお寧の声が聞こえそうなほどに。
「これじゃあ、連れて帰れそうにねぇな」
以外にも弥一はすんなり諦めてくれたようだ。
だが、
「十日後に迎えに来る。それまで先生に看病してもらえよ」
と弥一はお寧に話しかけた。
そして宗介には目もくれずに立ち去ろうとするので、宗介は呼び止めた。
「待たれよ。お寧とはどういう……」
「先生には関係ありませんよ」
弥一は一度立ち止まってそう答えたが、やがて足早に姿を消した。
昼時になると薬が効いたのか、お寧の呼吸も落ちつき、話もできるようになった。
「先生、子どもたちは……」
「今日は手習いは休みの日だ。気兼ねなく、ゆっくり休めるぞ」
子どもたちがいれば騒がしいことこの上ない。もう慣れているし、子どもたちの声であれば微笑ましいものだが、病人がいてはと気を揉んでしまうものを、今日は手習いがなくてよかったと、宗介は安堵していた。
しかし明日は子どもたちが来るので、どうしたものかと悩んでいた。
まだ二日経ったくらいでは、お寧も起き上がれはしないだろうから、他の場所で療養するわけにもいかない。ともすれば、明日は子どもたちを外に連れ出して、手習いではなく遊びにでもくり出そうかと考えた。お寧のことはいつも何かと世話になっている近所に住むおとめに、看病してもらうように頼んでみようかと考える。お寧も女人に世話をされる方が気を遣わなくてよいだろう。
「……ごめんなさい。良くなったら、出て行きます」
「良くなっても無理をさせるなと妙庵先生に言われている。それに、お寧さんが謝ることなど何もない」
「私、ここにいてもいいんですか?」
「当たり前だ」
ずっとここにいればよいという気持ちに変わりはない。もう一度言葉にしてしまえば、お寧を困惑させるかもしれないと、溢れ出しそうな気持ちは押し止めた。
「……先生」
お寧は言おうか迷い口を閉ざしてから、やがて尋ねた。
「昨日はどうして……」
途中で止めてしまったのか。もともと何もする気がなかったのなら、なぜ家に連れて帰ったのか。お寧が言葉にできないその先を、宗介は瞬時に理解した。
「俺には助けてと言っている気がしたんだ」
身体で払うというのはお寧の本心ではなく、無意識に救済を求めていたのだと、宗介は感じていた。
「ほら、食べなさい。少しでいいから……」
宗介は手ずから作った粥を匙ですくい、充分に冷ましてから、お寧の口元に運んだ。お寧は従順に応えて、茶碗一杯分くらいを食べきった。
お寧に聞きたいことが山ほどある。事件のことも、これからのことも、弥一のことも……聞けば自分の知らないお寧の姿が見えてしまうことを、覚悟しなければならない。だが、知っているお寧の姿だって、きっと存在しているはずだ。
今はお寧を回復させることが最善であった。
「先生!」
おあむは宗介の姿を見つけると、うれしそうに千代吉と駆け寄った。
庭で洗濯物を干していた宗介も気づいて手を止め、優しい顔でおあむと千代吉を受け入れる。
「千代吉が独楽回しできるようになったの。先生、一緒にやろうよ」
姉弟はそれぞれ独楽を手にしていて、宗介に遊んでくれとせがむ。千代吉は早く見せたくて、うずうずしているようだ。
「すまん、今日は遊べないんだ」
「えー、先生ずっと遊んでくれなかったら、おあむつまんない」
不服な顔を前面に出しているおあむは、手習いが終わり昼餉を食べ終えると、毎日宗介の家に遊びに来ていた。が、宗介はお寧の捜索やら事件の調査で、昼時はずっと不在にしていたのである。
「いま先生の家には病人がいるんだ。だから看病してあげないといけない」
「……千代吉、お病気の人がいるから仕方ないよ」
つまらなさそうな顔はしているものの、おあむの聞き分けはよかった。千代吉も姉に言われて、こくんと頷いた。
「今日は遊んであげられないが、明日はうんと遊んであげられるぞ」
「ほんと!」
子ども二人がとたんにはじける笑顔を見せた。
「明日はお勉強じゃなくて、皆で外に行こう。独楽回しでも、鬼ごっこでも、好きな遊びをしていい」
「やった!やった!」
思わずはしゃいでしまったのを、病人がいることを思い出して、おあむは慌てて口を閉ざす。次いですぐに、おあむは閃いてみせた。
「おねぇちゃん、帰ってきたの?」
「よくわかったな」
「だって先生の家に来るのって、おねぇちゃんしかいないもん」
今まで近所の人が訪ねてくることはあっても、知人が尋ねてくることはなかったのを、おあむも知っていたようだ。
「おねぇちゃん、治るの?」
「ああ。じきに良くなると妙庵先生が言っていたし、飯も食べれるようになったんだ」
「おねぇちゃん、かわいそう……あ!」
おあむはまた何かを閃いた。
「先生がいなかったのって、おねぇちゃんのこと探してたんだ。おじいちゃんが言ってたの。先生が三次親分とこそこそしてるって。」
別にやましいことではないが、宗介はぎくりとする。おあむは歳のわりには、聡明なところがあるのを再認識させられた。
「ああ……昨日、やっと見つけたんだ」
実はお寧の母親が殺された事件も三次と追っていたとは、とても子どもに打ち明けられることではない。
「おねえちゃん、よくなるといいね」
宗介はおあむと千代吉の頭を撫でてあげた。
それからしばらくした後、おあむと千代吉の家の奉公人である清六が、三次と共に訪ねて来た。
「偶然そこで会ったんですよ。三次親分も先生の家に用があると言いますんで、ご一緒させていただきました」
「先生、お寧さんが帰ってきたとか」
清六はよかったですねと言い、三次も同様の顔をしている。
「帰ってきたというか、その……」
お寧から来たのではなく、連れて帰ってきたのは自分だと説明しようとしたが、ややこしくなるのを避けて、言うのをやめた。清六は事件のことまでを知らないのだ。
事件を追っている三次は気になるような素振りをしたが、お互いに後で話そうという目配せをして、お大事にと声をかけた後に、早々に家を辞した。
「三次親分、先生に用があったんじゃ……」
病人に気を遣ったのだろうと清六は特に気にすることもなく、自らが持ってきた物を宗介に差し出した。
「旦那様からの差し入れです。お嬢さんからお寧さんのこと聞いて、よこしてくださいました」
六右衛門は滋養のある食材などを、清六に持たせてくれた。さすがは人徳者だと、宗介は頭の下がる思いである。
「ありがたい。後からお礼を言いに行くが、先に感謝していたと伝えておいてくれ」
清六に手渡された物を広げていると、その中にある小花の束に目がいった。
「それはお嬢さんとお坊ちゃんからの贈り物です。お寧さんが早く元気になりますようにって、頑張って集めてました」
名も知らない白い小花は、二人の気持ちの結晶だった。
「あの子たちは優しいな」
清六が帰った後で、さっそく宗介はお寧に小花を見せてあげた。
「おあむと千代吉がお寧さんのために集めてきたそうだ。お寧さんが戻ってきてうれしそうにしていたよ」
「私のために……」
目を潤ませながら小花を見つめるお寧は、微かに笑んでいた。はじめはやっと笑い方を思い出したようなぎこちなさがあったものの、すぐにそれは薄れて、慈愛に満ちた顔をする。いつの日か、子どもたちと楽しそうに遊んでいたときのような、美しい笑顔だった。
その夜、再び宗介がお寧の様子を見たときに、お寧は小花を握りしめながら、穏やかな寝息を立てていた。