三
翌日、手習いを終えた宗介は、一膳飯屋で昼餉をかき込んでいた。
「先生、そんなに慌てて食べたら、喉に詰まっちゃいますよ」
と一膳飯屋の女将に言われたそばから、むせてしまった。
お茶を飲んで調子を整える宗介を、女将はほらという顔で見ている。
「急いでいるんだ」
「もっと味わって食べてほしいんですけどねえ」
宗介はすまないと言って、やはり急いで箸を動かす。
急いでいる理由は、早くお寧が住んでいた長屋に行きたかったからだ。何も急ぐことはないのかもしれないが、母を殺されたお寧の心情を想うと、気が気ではなかった。
一膳飯屋を出た宗介がすたすたと向かったのは、お寧が母と住んでいたという長屋である。
ちょうど昼餉を食べ終えた五十くらいの女が食器を洗っていたので、声をかけてみる。
「もし、ここに住んでいたおくみさんとお寧さんについて話を聞きたいのだが……」
「はぁ……」
おくみの事件を思い出してか、女は複雑そうな表情をした。
宗介は備前屋のときと同じように名乗り上げ、正直におくみの事件について調べていると言った。
「でもどうして……」
役人でもない人間が、なぜ事件について調べているのかと女が尋ねたそうにしている。
「実はお寧さんとは知り合いで、彼女を不憫に思って事件を調べているんだ」
「まあ、そうなんですか。お寧さんはいい子だったから、心配よねぇ」
宗介の心意気に感心してか、女は警戒を解いてくれたようだ。
「役人にも聞かれただろうが、事件の日のことを聞かせてくれるとありがたい」
「はい。あの日、倒れているおくみさんを初めに見つけたのは私なんです」
ということは彼女は、おすそ分けを置きに来ておくみの死体を見つけた住人とうことだ。
「おくみさんはどこに倒れていた?」
事件のあった直後で住んでいる人はまだいないのだろう、女は二人が住んでいた部屋の戸を開けて、宗介に示した。
「あっちに頭を向けて、うつぶせに倒れていたんです。声をかけてもうんとも言わないもんですから、慌てて医者を呼びましたんですけどね……」
すでに間に合わない状況だったという。
おくみは入口の戸がある方に足を向けて倒れていた。
「客人が来ていたという痕跡があったらしいが……」
「たしかに座布団は二枚あったような気がします」
「おくみさんが自分の座っていた場所で倒れたとすれば、その向かい側には誰かがいた……」
客人が来ていた時には入口から見て、部屋の手前側におくみが座っており、奥にはおくみと向かい合う形で客人が座っていた。そのような構図を宗介が言ってみると、座布団の位置がまさしくそれであったと女が思い出した。
「客人が誰か、心当たりはないか」
「わかりません。私の知っている限り、おくみさんの家に客人が訪ねてきたことなんてありませんでしたから。まあ越してきてからそう日は経っていませんけど、身寄りは誰もいないって聞いたことがありますよ」
「誰もいない、だと……」
苧環屋敷の家人は、親戚ではなかったのか。だとすれば、お寧は嘘を吐いていたというのか。
「ええ。私が死んだらお寧さんが一人になっちゃうって、おくみさんが零してましたよ」
宗介は頭の隅で苧環屋敷のことを考えつつ、尋ねる。
「おくみさんが殺される心当たりもないか」
「ありませんよ。怒ったところも見たことがないくらい、穏やかで大人しい人でしたからね」
「ならば知り合いや親しくしていた人は知らないか」
「さあ……おくみさんは内職の品を届けるとき以外に、あまり外出もしませんでしたから」
「そうか……事件の後、お寧さんはどこに行くとは言っていなかっただろうか」
「狸穴に行くと聞いてますよ。名主さんに奉公先を世話してもらうとも言ってましたから、私たちも安心して見送れたんです。そりゃあね、一人でいるよりもいいって本人も言っていましたし」
「奉公……」
何ということだ。お寧は勘兵衛には遠縁の家に行くと言って、長屋の住人には奉公に行くと言っていたのだ。
事実、苧環屋敷が遠縁ではなかったとして、どうしてお寧は嘘を吐いてまで、苧環屋敷に行こうとしていたのだろうかという疑問が、また一つ増えた。
「お寧さん、もてたのね」
「え……」
「貴方の他にもお寧さんが心配だからって、訪ねてきた殿方がいたんですよ。事件があってからすぐのことでしたよ」
「そいつはお寧さんが先生の家にいる間に、長屋を訪ねてきたんですね」
「ああ。だが、そのような男が訪ねてきたことはなかったはずだ」
夜半に三次が宗介の家を訪れ、二人は調べたことを整理した。
事件の後、長屋にお寧を訪ねてきた男は、二十代くらいの若い男だったという。住人からお寧が狸穴にいると聞いた男は、会いに行くと言っていたそうだ。しかし、宗介の知る限りでは、お寧の客人が訪ねて来たことはなかった。
「すると先生のいない間に尋ねてきたか、そもそも来なかったか……」
「…………」
男は宗介のいない間に尋ねてきた。その人はお寧の面倒を見てあげようとした。あるいは世話をしようとした。いずれにせよ、お寧は苧環屋敷よりも頼るべき場所ができていなくなってしまった。
そう考えれば、辻褄が合うような気がした。
もう自分が心配しなくてもよいのかもしれないと宗介が内心しゅんとしているのに対して、三次は引っかかりを覚えていた。
「あっしにはどうもその男が臭い気がしやす。だってお寧さんのことを連れて行く気があったのなら、もっと早くに言えたんじゃねぇかと思いやすし……」
事情があってすぐには会えなかったという可能性もあるが、三次は他にも疑念があった。
「もしお寧さんが苧環屋敷に行くのをやめて、その男について行ったとすれば、先生に一言くらいお別れを言ったはずですよ」
「たしかにお寧さんの性格上、言わない方が不自然ではあるが……」
言いづらかった、という可能性もある。
「なにも先生に気を遣って言っているんじゃねぇんです。あっしも同心の端くれ、何か臭いと感じるんですよ」
三次の勘が、そう言っているらしい。
「ここでもう一つ気になるのが……」
「苧環屋敷」
三次の言葉に続けて、宗介が断言する。
「おそらく苧環屋敷の住人が遠縁の親戚であるというのは、お寧さんの嘘だろう」
お寧は長屋の家人達には奉公に行くと言ったが、本当に親戚なら、そのようなわざわざ嘘を吐く理由はない。
つまりお寧は、どうしても苧環屋敷に行きたい理由があったということだ。
「もしかすると、おくみさんの事件には苧環屋敷の人間が関わってるんじゃないだろうか……」
「犯人か、それとも……」
「でも、だったらどうしてお寧さんは役人に言わなかったんだ。犯人ではないにしろ、事件に関係があるのなら言ってもいいはずなのに……」
まだそうと決まったわけではないが、苧環屋敷の家人が事件に関係があるかもしれないと役人に進言していれば、必ず調べ上げてくれただろう。だが、言わなかったということは、そもそも苧環屋敷の家人は事件にはまったく関係がないか、関係があっても言えない理由があったかのどちらかである。
「不気味ですぜ、この事件……」
お寧にも事件にも、謎が多すぎる。
苧環屋敷は、いまだ無人のままだった。
事件について調べても何も得られないか、もしくは新たな疑問が生じるか。ただ一つ言えるのは、解決の糸口がまったく掴めないことであった。
一日、また一日と時は過ぎてゆく。
お寧がいなくなってから、ちょうど十日が経っていた。
昼間は小雨だったが、夜になれば傘に激しく雨脚が打ち付けるほどになった。
宗介はこの日も事件を調べていた帰り、常よりもゆったりとした足取りで歩いていた。
事件は一向に解決しないまま、無為に時間が過ぎているように感じられる。この雨とともに、事件そのものが薄れてゆく気がして、人ひとりの無力さに打ちひしがれた。
立った数日の縁であった。それでも何かをしてあげたくて、忘れることができなくて……
宗介はふと足を止めた。雨は容赦なく降りそそぐ。
視界の端に、お寧を見つけた気がした。
そんなはずはない。お寧がいるはずがない。きっと、心の中の願望と絶望が、幻を生み出してしまったのだ。
振り返っても、惨めになるだけなのに。
だから覚悟した。そこにお寧がいないことを。
「…………!」
一瞬、本当にお寧かと思った。
雨宿りをしているのか、女が軒下に立っている。
宗介はその人から目が離せなかった。まさか……想いが頭を駆け巡って、それがお寧本人であることに気づくのが遅れた。
「お寧さん……!」
名前を呼ばれてお寧がゆっくりと顔を上げる。駆け寄ってきた宗介の顔を見て、一度目が大きく開かれた。
先生、そう言いたげに、お寧の口が微かに動く。
「ずっと心配していたんだ。元気にしていたか」
虚ろなお寧の瞳が潤んだ。けれど目尻に溜めた涙を流そうとはしない。感情を必死で封じ込めているのだろうか……
「先生、あのときのお礼をできていなかったですね」
お礼なんて……と宗介が言う前に、お寧が続けた。
「お金がないから、体で払います」