四
お寧と住み始めてから三日が経っていた。その間、苧環屋敷の住人はまだ帰ってきておらず、二人の生活は続いている。
少しずつではあるが、お寧は自ら話してくれるようになった。初めは表情も硬かったものの、持ち前の性格のように、おっとりとした顔をするようになっていた。ことに、子どもたちと遊んでいるときには、よく笑うようになった。
「子どもに慣れているな」
と、宗介がお寧に聞いてみたことがある。
「兼房町にいた頃は子守りの仕事をしていたんです。ここの子どもたちも可愛い……」
母を亡くして気落ちしているお寧にとって、手習い所は騒がしく、落ち着かないのではとも危惧したが、子どもが好きなお寧には、心の癒しになっているようだ。
手習い所に通う子どもたちも、お寧によく懐いた。今ではお寧に手習いを手伝ってもらうときもある。
「先生も大助かりですな」
地主の六右衛門の家に用があって訪ねたとき、少しのんびりしていってくれと言われ、宗介は厚意に甘えた。そこでお寧の話になり、六右衛門が目を細めて言ったのだ。
お寧は宗介に気を遣って、少しでも生活の足しになるように六右衛門から内職などの仕事をもらっていた。お寧の母は針の内職で生計を立てていたようで、その手伝いをしていた彼女の針さばきに不足はなかった。他にも頼まれれば、子守りもしている。
六右衛門が自分も含めて助かると言ったのは、そういう訳であった。
「自分が情けなくなります。私は甲斐性がないようで……」
宗介は自分にもっと稼ぎがあれば、お寧に無理をさせることはないと思っている。
「先生には甲斐性がありますよ。どこの夫婦も、助け合って生きているんですから」
「夫婦……!ろ、六右衛門さんまでそのように言われては困ります」
「何が困るんですか?」
「だって、その……お寧さんに好い人でもいれば……」
お寧がもし宗介にと気兼ねしていたように、宗介にも同じことが言えるのだ。
「いるならまずその人に頼りますよ。仮にいたとしても、一度くらい顔を見せに来るんじゃないですか」
「でも、どこぞの奉公人なら、簡単には会いに行けないはずです……」
商家などの奉公人は、藪入りでもない限り、勝手に外を出歩くことは禁じられていた。
(先生はそこまで考えていらっしゃる……)
六右衛門にしてみれば、お寧に好い人はいないと考えている。いれば宗介と一緒には住まないだろうと思っているからだ。もし好い人がいるなら、前に住んでいた長屋を引き払わずに、一人で生活していたはずだ。母がいなくても子守りの仕事はできるし、内職もできるはずだ。
しかし好い人はいないのではと言ったところで、宗介はまた違うことを考えてしまうだろうと、六右衛門はあえて止めた。
「……まだ帰ってきませんかね」
一瞬、誰がと考えたが、すぐにそれが苧環屋敷の住人のことだと宗介は理解した。
「はい。気にしてはいるのですが……」
そもそもお寧は、遠縁の親戚であるという苧環屋敷の住人を頼り、狸穴に来たのだ。宗介と一緒に住むようになったのは、偶然といえば偶然である。
「私はここの地主をしておりますが、苧環屋敷のことはよくわからないのです。あの土地はうちとは関わりのない所ですし、いつの間にか屋敷ができて、いつの間にか住人がいたといった塩梅なのです」
「あの屋敷はいつ頃、建てられたのでしょうか」
「たしか……二十年くらい前だったような……」
狸穴で顔の利く六右衛門ですらわからないのだから、宗介がそれ以上のことを知る由もなかった。
「先生、お寧さんには申し訳ありませんが、私には苧環屋敷の方がお寧さんを引き取ってくれるとは到底思えません。引き取ってくれたとして、ぞんざいに扱われないかとも心配です」
それは宗介も気にするところであった。
お寧の母が亡くなって早々に、苧環屋敷の家人は湯治に行ってしまった。遠縁だからそんなものだろうと言われればわからなくもないが、ならばお寧が現れて、苧環屋敷の家人はどう思うのだろう。
まだ苧環屋敷の住人が、心冷たいと決まったわけではないが……
「しかし他に、行くところがないのでしょう」
「このまま先生と暮らすのが、お寧さんのためだと思いますがね」
「…………」
黙ったところを見ると、宗介も嫌ではないのだ。むしろそうなればとさえ、思っている。
「……だが、やはり一緒に住むというのは……」
「先生は案外、固いですな。そう仰るなら早く一緒になればよろしいじゃありませんか」
「お寧さんからすれば、私などおじさんでしょう……」
「はっはっ、先生がおじさんなら、私などひいひいおじいさんですな」
冷静になって考えてみれば、いくら自分がその気になったとしても、お寧がその気になることはないのだろう。お寧とはちょうど、一回りほど歳が離れていると知ったのは、昨日、お寧が一緒に話す中で自分の歳を口走ったときである。
「私は揶揄って言っているのではありませんよ。お寧さんは時々、とても寂しそうな顔をされるもので……もしお寧さんも嫌でなければと、思っているのですよ」
母を亡くした痛みがまだ疼くのだろうと、宗介も気にかけていた。だが宗介も六右衛門も、お寧の本当の哀しみをまだ知らなかったのである。
「先生、動かないで」
宗介は言われた通り、ぴたりと動きを止める。
子どもたちが帰った後で、手習いの道具を片付けているときだった。お寧に言われて、宗介は座ったまま固まる。
お寧が近づいてきた。
内心はどぎまぎして、言葉も紡げない。
袖を引かれた。
「あ……」
お寧の一挙手一投足を見ていた宗介は、肩の力が抜けた。彼女が懐から取り出したのは、裁縫道具である。彼女の手には、解れた己の袖が見えた。
「すまない」
「いえ」
こんなに近くで、お寧の顔を見たことはなかった。伏し目がちに針を動かすその顔に、思わず心臓が高鳴る。引き締まった口元の小さくて柔らかそうなこと。長い睫毛が時折、音を立てずに動いた。
「終わりました」
今度は上目遣いで言われて、すぐには答えられなかった。
お寧が去ろうとしたので、宗介は何とか声を出す。
「お、お寧さん……」
呼び止めたところで話題はなかった。
「い、いや、何でもないんだ」
お寧は不思議そうな顔をしたが、はいと言って納得した。
明らかに、自分はお寧を意識している。子どもたちに手習いを教えて、偶に他の町にくり出すといえども、まったく素敵な出会いはない。だから、耐性がないのだろうか……
こんなに彼女のことを考えていると本人に知られれば、気持ち悪がられるかもしれない。
お寧はよい娘だ。穏やかで、よく気が回る。
だが、苧環屋敷の住人が帰ってくれば、お寧はいなくなってしまう。同じ狸穴に住むのだから、もう二度と会えないというわけでもないだろう。
しかしどうしてだろう……お寧を苧環屋敷に行かせてはならないと、無意識に警告している。何も自分の気持ちだけで、そう思っているのではない。理由はわからないけれど、二度とお寧に会えないような気がするのだ。
(さて、どうするべきか……)
宗介は悩んでいた。このまま苧環屋敷の住人が帰ってくるのを待つか、それとも別の道をお寧に示すか。
他人がとやかく考えるより、本人の気持ちが一番大事だ。だからお寧に聞けばよいものを、宗介は聞けないでいる。
お寧はきっと、苧環屋敷の住人が帰って来るのを待つと言う気がしたからだ。
そのようなことを考えながらぼんやりと縁側に座っていると、自分でもいよいよ重症だなと思い始めた。おそらくおあむと千代吉から聞いたのだろう六右衛門からは、手習いのときもお寧に見惚れていると言われていたのだった。
「先生」
鈴のなるような声だった。
その声がお寧だとも気づかず、宗介は目だけで答える。
目の前に、饅頭が差し出された。
「どうぞ」
そこでやっと、饅頭を差し出してくれたのがお寧だと気づいた。
「ありがたくいただく。……ん、美味い」
お寧は少し遠出をすると言って家を後にしていたが、そこで饅頭を買ってきてくれたようだ。
「よかった」
「……?」
「先生、ずっと悩んでいる様子だったから……」
子どものような顔をして饅頭を頬張る宗介を見て、お寧はほっとしていた。
「もしかして、わざわざ買ってきてくれたのか?」
「はい。……お饅頭だけじゃ、まだまだ恩は返せませんけど」
「恩なんて気にするな。それにお寧さんは、いろいろ働いてくれるので助かっている」
饅頭を買ってきてくれたお寧の気遣いが、優しさが、至高だった。
「でも先生、私のことで悩んでいるんじゃないですか?」
ずばり言い当てられて、饅頭が喉に詰まりそうになる。お寧が慌ててお茶を差し出した。
お茶を飲み、落ち着いてから宗介は言った。
「嘘を吐いても仕方がないから言うが、そうだ。お寧さんのことで悩んでいた」
やはりという表情とともに、お寧の顔色が暗くなった。
「決してお寧さんが邪魔だとか、そういうことで悩んでいたわけではない」
では何をと、お寧は無言で問いかけ、宗介の答えを待った。
「お寧さんが苧環屋敷に頼って、幸せに暮らせるか考えていたんだ」
「…………」
「他に頼る人はいないのか?」
「はい……」
なぜ苧環屋敷に拘るのかと、宗介は一度も問わなかった。寂しいから、だけが理由ではないと、宗介も薄々感づいてはいる。
「単に、手放すのが惜しくなったんだ」
「……え?」
「子どもたちもよくそなたに懐いている。六右衛門さんも、お寧さんがここに住めばと言っていた」
「先生は……?先生はどう思っているんですか?」
「俺は……」
言ってしまおうか。お寧の気持ちさえわからないのに。どうせこのままでは彼女は、苧環屋敷に行ってしまうんだ。
「ずっとここにいたらいい。そう思っているよ」
言って後悔などしていない。お寧にどう思われようと、それは怖いけれど、言わない方が悔いである。
「先生……」
ただお寧の顔だけは見れなかった。どう思われているのかが怖いのではなく、恥ずかしいからである。
「おっかさんが亡くなって、何もかもを失ったように思えたけど、ここに来てよかったって、いつも感じているんです」
お寧は初めて、思いつめていた哀しみを打ち明けてくれた。
「居心地はよいか?」
「はい、とても。先生といるのがとても……」
お寧の言葉はそこで途切れた。宗介も何も言わずに、二人は静かに饅頭を頬張った。
夕餉の刻限になれば、今日はあおむが花を摘んでくれた、こんなことがあったとお寧は楽しそうに話してくれた。
もしお寧が少しでも、ここにいたいと迷ってくれたならば、うれしい。ただしばらくは、苧環屋敷の住人が帰ってきませんようにと願っていた。
翌朝、宗介はすっきりと目覚めることができた。
すぐに身形を整えて、台所に向かう。まだお寧は起きていないようだ。
(いつもは早いのに、珍しい……)
などと頭の隅で考えながら、朝餉の準備に取りかかった。
水を汲みに行こうとして手に持った桶を、思わず滑り落としてしまう。ちょうど床の上で落としてしまったので、がごんと威勢のいい音が響いた。
(しまった……)
せっかくよい気持ちで寝ているお寧を、起こしてしまったかもしれない。
しかしすぐ近くにある、お寧が寝起きしている居間からは、物音すらしなかった。
(…………)
何故だが、嫌な予感がした。
「お寧さん」
返事はなかった。常ならば戸を開けるか躊躇う余地があっただろうに、勢いよく戸を開けてみせる。
宗介は言葉を失った。
そこにお寧はいなかったのだ。
畳まれた蒲団の上には、お寧の書置きがあった。
黙っていなくなってごめんなさい。苧環屋敷の方は帰ってこないので、知り合いを頼ることにします。先生の御恩は忘れません。
外に飛び出してみるも、お寧の姿はどこにも見えない。
しばらく呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。