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婚約解消直前の哀しい令嬢は、開かずの小箱を手に入れた

作者: 小桜

「これは……魔術で封印されておりますね」


 魔術師セルギウスは言った。

 彼がしげしげと観察しているのは小さな木箱。両手で持てるサイズの木箱には細かな彫りが施してあり、これまた繊細な金具が箱の蓋に打ち付けられている。


「封印?」

「ええ。ほら、この金具。なんの仕掛けもないのに蓋が外れないでしょう。おかしいですよ、鍵もかかっていないのに開かないなんて。封印されているとしか思えません」


 きっぱりと言い切ったセルギウスに、フローレスカ侯爵家令嬢エレオノーラは驚きを隠せなかった。


(魔術で封印された箱……なぜこのようなものが、うちの屋敷に?)


 つい先日、エレオノーラは屋敷の宝物庫でこの木箱を見つけた。埃をかぶっていたその箱は古ぼけていて、高い棚の上にひっそりと置かれていた。

 埃っぽいものの、セルギウスの見立てでは箱のつくり自体古いものでは無いらしい。軽く振ってみると、中からはカラカラと音がした。小さく固いものが転がっているのだろうか、空っぽということは無いようだ。

 

 この木箱、エレオノーラがいくら開けようと試してみても、開くことは無かった。力を込めても、金具をカチャカチャと弄ってみても、ビクともしないのだ。


 開かない。となると、ますます中身を知りたくなるのが人の心というもの。


 そしてとうとう、兄の知り合いであるセルギウスを頼ったのだった。彼は城に務める魔術師で、解錠のエキスパートとして巷では有名人だ。どんな鍵も、魔術でチャチャッと開けてしまう色んな意味で恐ろしい人なのである。

 魔術師セルギウスなら、この小箱も開けることができるだろう。そう目論んでいたのだが。


「封印となると……セルギウス様でも開けることはできませんか?」

「開けることは出来ますが、おすすめは出来ませんね」

「えっ。どうしてですか」

「封印が施されているということは、この箱には封印したいくらいの何かが入っているということです。その封印を解いて、エレオノーラは責任が持てますか」

「た、たしかに……」

 

 エレオノーラは落胆した。セルギウスの言う通りだ。すっかり、封印を解いた後のことが頭から抜け落ちていた。

 なにが封印されているのか分からない。それがもし恐ろしいものであったとしたら、エレオノーラなどでは収拾がつかないだろう。


「少なくとも、この箱の持ち主に確認してからの方が良いでしょう」

「持ち主?」

「ほら、ここに」


 セルギウスが指差す先を、エレオノーラは覗き込んだ。

 明るい場所でよく見てみれば、金具には小さな紋章が刻まれてあった。対になるよう描かれたドラゴンと、北の空に輝く三ツ星。


「これ……ドラコニア王家の紋章だわ」 

「もしかすると、この木箱は御婚約者――ルドヴィック殿下のものでは?」


 ルドヴィック・ドラコニア。ドラコニア王国皇太子である彼は、エレオノーラの婚約者だった。

 フローレスカ侯爵家とドラコニア王家との繋がりは、たったそれだけ。ならば王家の紋章が刻まれたこの小箱は、彼に縁のあるものに違いないだろう。 

 しかし、もう婚約解消されてもおかしくないと囁かれてはいるけれど。


「……殿下のものが、どうしてうちにあるのかしら」

「昔、エレオノーラに贈られたものではないのですか?」

「いえ、まったく覚えもございません」


 彼からなにかひとつでも貰ったものがあったなら、エレオノーラが忘れるはずがない。

 

 それほど、ルドヴィックはエレオノーラに関心が無かった。

 婚約者であるにも関わらず、誕生日も記念日も、なにもかも。ルドヴィックから会いに来ることなどここ数年一度も無く、プレゼントが贈られることもない。パートナーとして社交の場へ顔を出しても、フイと顔を背けられる。

 

 望まれてはいない。彼とは政略結婚、ただそれだけ。

 ルドヴィックのあからさまな態度から、そんなことは分かっていた。しかし分かっていたとしても、『愛されていない』『婚約解消目前だろう』と陰口をたたかれるたびに、エレオノーラの胸は痛んだ。

 けれど仕方がなかった。婚約解消が成されるまでは、エレオノーラは彼の婚約者でいるしかないのだから。

  

「こちらの木箱について、ルドヴィック殿下にご確認されてみてはいかがです?」

「そ、そうですね。いえ、でも……」


 エレオノーラは口ごもる。

 実はルドヴィックと会うこと自体、年々苦手になっていたのだった。

 たまに会えたとしても、ルドヴィックの冷たい瞳がこちらを見れば、たちまち身体は強ばった。その威圧感に負けてしまって、彼に話したかったことも伝えたい気持ちも、すべて口にする前に飲み込んでしまう。

 こんなことでは先が思いやられる――最近では、本当に婚約解消されたほうが良いのかもしれないと自己嫌悪に陥るまでになっていた。

 そんな後ろ向きな彼女に、セルギウスも気づいていたのだろう。彼はひとつため息をつくと、改めてエレオノーラへと向き直った。


「なにを迷っておいでですか。昔はあんなに仲睦まじかったではありませんか。たまにはエレオノーラから訪ねれば良いのです。ルドヴィック殿下もきっとお喜びになるでしょう」

「……本当にそうでしょうか。私はそう思いません」

「エレオノーラ……」

「セルギウス様もご存知でしょう? ルドヴィック殿下の心変わりを。幼い頃は行き来も頻繁で、殿下も私に笑顔を見せて下さいました。けれどもう、今は……」


 言葉に詰まったエレオノーラの頬に、一筋の涙がつたう。

 

 いつの間にか、セルギウスの前で泣いてしまっていたらしい。ぽたりとこぼれ落ちた涙が、研究室の床にシミを作る。

 一度昔を懐かしめば、今の寂しさを抑え込むことに耐えられなくて――後から後から、あふれる涙は止まらなくなってしまった。


  

『エレオノーラ、好きだ。一生、大好きだ』


 幼い頃、小さな王子様は、太陽のような笑顔でエレオノーラを抱きしめた。来る日も来る日も小さな花束をその手に持って、エレオノーラに愛を伝えた。

 エレオノーラだって、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるルドヴィックが大好きだった。

 しかしそれも遥か遠い昔の話だ。いつからだろう、このように冷えきった関係になってしまったのは。


「エレオノーラ、どうか泣かないで」 

「す、すみませんセルギウス様……涙が……止まらなくて」

「まったく、ルドヴィック殿下にも困ったものですね……」

 

 涙を流し続けるエレオノーラを見かねて、セルギウスの指が頬を拭った――その時。


 

「何をしている」

 

 背後から冷たく堅い声がした。

 その瞬間、エレオノーラの寂しい涙も、セルギウスの優しい指も、ピタリと止まる。


「何をしているのかと聞いている」


 エレオノーラの額からは、冷たい汗が流れ落ちた。

 見上げると、セルギウスも同じように青い顔をして固まっている。二人がこのように動揺するのも無理はない。だってこの声は――


「ルドヴィック殿下……なぜここに」

「ここは城だ。私がいてもおかしくない」


 確かにそうではあるけども。


 魔術師セルギウスの研究室は、王城の片隅に位置していた。ここが王城の一室である以上、皇太子であるルドヴィックがいたとしてもおかしくは無い。

 けれど、今までセルギウスにもエレオノーラにも、見向きもしなかったではないか。そんな彼が、一体なんの用があるというのだ。


「このような密室に、魔術師風情がエレオノーラを連れ込んで……挙げ句の果てに泣かすとは貴様」

「お、お待ちください殿下! こちらへは私が勝手にお邪魔しただけで、セルギウス様は何も悪くありません」

「君が……?」


 密室に、年頃の男女二人きり。この状況、勘違いされても仕方がない。

 しかし、神に誓ってやましい事は一切無く、セルギウスが咎められて良いはずがない。開かずの小箱のことで、一方的に相談を持ち掛けたのはエレオノーラなのだから。


「セルギウス様には折り入って個人的なご相談があり参りました。彼には相談に乗って頂いただけです」

「……なぜ君はこの男を選んで相談をした? その個人的な相談とはなんだ? 婚約者である私を差し置いて?」

「それは……あの」

「私には言えないことなのか?」

「そういう訳では……」


 いつになく詰め寄られて、調子が狂う。

 実際、ルドヴィックとこんなにも言葉を交わしたのはとても久し振りだった。彼とは年に数回ほど顔を合わせるだけで、その時だって会話なんてほぼ無いに等しい。隣にいても彼は全くこちらを見なくて……エレオノーラなんて、まるで存在しないかのように。

 

 けれど今日はどうだろう。

 ルドヴィックの声色は冷たく低いが、その瞳は真っ直ぐにエレオノーラを見つめている。

 むしろ、エレオノーラ以外は見えていないのではないかと思われるほど視線をそらさないものだから、どうしたら良いものか戸惑ってしまって――思わず隣のセルギウスに助けを求めた。


「セ、セルギウス様、どうしましょう……」

「そうですね……状況的にはまずいですが、ちょうど良い機会です。直接、殿下に小箱のことを伺ってみてはいかがですか」

「ええ……!? 今、ここで?」

「だって、事情をお伝えしなければ誤解されたままでしょう? 嫌ですよ私。ルドヴィック殿下に間男と勘違いされて処罰……だなんて」


 さあエレオノーラ。と、セルギウスは無情にも小箱を手渡した。託された小箱は気のせいか、何となく生ぬるい。


「あら……この箱、温かくなってる?」

「そうですか? ……本当ですね、先程までは気付きませんでしたが」

「こ、これは大丈夫なのかしら?! 封印は……」

「私にだって分かりませんよ!」


 どのようなものが封印されているかも分からない現状で、封印がとけてしまったら大変だ。なぜか急に訪れた小箱の異変に、エレオノーラとセルギウスは二人で慌てふためいた。

 

 しかし二人が一緒に慌てれば慌てるほど、小箱はどんどん熱を帯びる。 

 まるでルドヴィックの怒りに比例するかのように。

  

「お前達、何をコソコソと……!」

「殿下、違うんです聞いてください! この小箱いきなり熱くなって」

「そんな親しげに身を寄せ合って、一体いつから――」


  

 カチリ。


 

「ん?」

  

 怒気を孕んだルドヴィックが、二人に向かって一歩踏み出したその瞬間。 

 エレオノーラが持つ小箱から、金具が動く音がした。


 と同時に、小箱から熱は消えさり、蓋が勝手に開いてゆく。あんなに何をしても開かなかった蓋が……


「あ、開いた……!?」


 エレオノーラとセルギウスは、恐る恐る、箱の中を覗き込んだ。 

 するとそこには――小さな指輪がころりと転がっていた。

 

 白い花をモチーフにした、可愛らしい指輪だ。

 デザインを見たところ、これは子供用なのだろうか。けれどしっかりと金で出来ており、白く見えた花のモチーフも、よく見ればオパールで出来ている。それなり高価な指輪であることは間違いない。


「……指輪だわ?」

「何の変哲もない指輪……ですね。見たところ、呪いの類いも見受けられません」

「良かった……! 封印されていたと聞いて、もし恐ろしいものが出てきたらどうしようかと思っていたのです」

「なぜこの指輪が封印されていたのでしょうか。エレオノーラ、心当たりは」

「さあ……愛らしい指輪ですが……」


 

 戸惑いながらもホッと胸をなでおろす二人は、小箱が開いたことで忘れていた。

 背後に怒りのルドヴィックがいたことを。

  

「……エレオノーラ」


 彼の声に、やっと意識は引き戻された。いつの間にか、ルドヴィックはすぐ後ろまで来ていたらしい。

 そういえば、彼は怒っていたのだ。なのに王子そっちのけでセルギウスと盛り上がったりして、火に油を注いだに違いない。 

 エレオノーラは振り向きざま、急いで頭を下げた。 

 

「で……殿下、申し訳ありません! 実はたった今、この小箱が勝手に開きまして、それで中には指輪が――」

「エレオノーラ」


 こちらへ伸ばされる腕に、切なげな声。

 

 突然、エレオノーラは抱きしめられた。

 前触れのない抱擁に、息も思考も停止する。


「殿下……?」


 信じられない。 

 しかし身体を包み込むこの腕、頬に感じるたくましい胸は、間違いなくルドヴィック王子のものだった。

 彼は何度もエレオノーラの名を呼びながら、細い身体を抱きしめる。そしてひどく甘美なものを味わうかのように白い首筋へ顔を埋めると、大きく息を吸いこんだ。


「エレオノーラ」


 彼の息づかいや低い声が、首筋にビリビリと伝わって。エレオノーラは耐えられず身じろぎをするけれど、いっそう強く抱きしめられた。まるで、逃がさないとでも言うように。


「ル……ルドヴィック殿下……!!」

「ああ、エレオノーラ……やっと君に会えた気がする」

「え?」

「こちらを見て。もっと君を見せてくれないか」


 とてもじゃないが、頭が追いつかない。

 ついこの間まで『婚約解消直前』と揶揄されるほど、冷遇されていたのではなかっただろうか。


 ルドヴィックはエレオノーラの頬を支えると、その顔を間近から顔をのぞきこんだ。その眼差しは嘘のように柔らかいものだった。


「エレオノーラ、綺麗だ」

「と、突然どうされたのですか。ルドヴィック殿下」

「……今、私が怖いか」

「え……?」


 視界いっぱいにルドヴィックがいるなんて。こうして真正面から彼と向かい合ったのは、いつぶりだろう。

 

 大人になった。高い鼻に、切れ長の瞳。背も見上げるほど高くなって、喉仏も大きな手も、大人の男である証明だと言える。

 それでもエレオノーラには、彼の端正な目鼻立ちの中に太陽のような面影が見えた。それは思い出の中に生きる、ルドヴィックの笑顔で――


「いえ……驚きはしましたけど、怖くはありません。どちらかと言えば、いつものように冷たいルドヴィック殿下のほうが、よっぽど怖くて」

「……そうか、すまない」

「今は少し、なつかしく思います」


 まるで昔に戻ったようだった。笑い合ったあの頃の距離感を思い出して、ほんのりと胸が温かくなる。

 こうして、ルドヴィックと普通に話せることが嬉しくて。我慢できず、安心しきった頬は自然と緩んだ。

 

 そんなエレオノーラを見下ろすルドヴィックは、ゴクリと大きく喉を鳴らす。そのうえ小声で「可愛いすぎる……」と呟くので、エレオノーラは彼こそが可愛らしいと思ってしまった。


「私はあの時、何故……」

「ルドヴィック殿下?」

「――やはり、君が怖がったからといって封印などすべきではなかった」

「封印? この、小箱についてなにか……」


 ルドヴィックはこの小箱について、なにか知っているようだった。けれどそのことを尋ねようとしたその時、エレオノーラの視界がグラリと揺れる。

 

 次第に、目の前の彼とあどけない少年時代のルドヴィックが重なってゆく。

 ブレる視界に思考を奪われ、エレオノーラは彼の腕の中で、まどろむ意識を手放した。


 

◇◇◇



 エレオノーラは、夢を見た。

 

 二人の婚約が結ばれた、特別な日の夢だった。

 ようやく正式に婚約者同士となったエレオノーラとルドヴィックは、幸せの絶頂にあったのだが。

  

「やだっ……!」


 鮮やかな花が咲き誇る、王城のテラス。

 十二歳のエレオノーラは、ルドヴィックの胸を力いっぱい押し返した。倒れ込んだ彼の手からは、エレオノーラのために用意した指輪がコロコロと転がり落ちる。

 

 当時は今と違って、二人の体格もさほど変わらず、華奢なエレオノーラでも彼を突き飛ばすことくらいは出来てしまう。 

 床に尻もちをついたルドヴィックの、見開かれた碧い瞳が小刻みに震えた。まさか口付けを拒絶されるとは思ってもみなかったのだろう。いきなりの事でとっさに拒んでしまったけれど、彼の深く傷付いた目を見れば罪悪感がエレオノーラを襲った。


「あっ……ご、ごめんなさい、私」

「……嫌だったか?」

「嫌ではありません、でも」

「怖かったのか……?」


 ルドヴィックの問いかけに、エレオノーラは否定もできず頷いた。

 

 彼のことは大好きだった。いつも優しくて、格好良くて、一緒にいると楽しくて。エレオノーラには、ルドヴィックだけが誰よりも輝いて見えた。政略結婚にも関わらず、こんなにも好きな人と結婚できるだなんて、本当に夢のよう話だった。


 しかし、それとこれとは話が別なのだ。

 びっくりした。怖かった。いつも太陽のように明るいルドヴィックが、別人のように見えたのだ。

 相手が愛しい人とはいえ、何も心の準備が出来ないまま口付けを受け入れるなんて、到底無理なことだった。まだ子供のエレオノーラには。


「あの、少し、待っていただけませんか」

「少し……?」

「はい、どうか……私が大人になるまでは」


 花でいっぱいのテラスは美しくて、婚約を祝福するかのような眩しい光に溢れているというのに。

 二人の間にはこれ以上無く気まずい空気が流れた。エレオノーラはなにも話すことが出来なくて、ルドヴィックを見ることもないまま立ち尽くす。その後どのように過ごしたのか、どうやって帰路に着いたのかも覚えていない。

  

 そうして、婚約したばかりの二人によるファーストキスは未遂に終わった。

 ルドヴィック十三歳、エレオノーラ十二歳の、失われていた思い出だ。


 

◇◇◇



 やがて、まぶたの裏側に光を感じて。

 夢は途切れて、エレオノーラは意識を取り戻した。


(……思い出した。私、なぜ忘れていたの……?)


 大好きなルドヴィックを突き飛ばしてキスを拒否した思い出なんて、忘れようにも忘れられないはずだ。

 けれど、エレオノーラの記憶からはあの事件だけがきれいさっぱり消え去っていた。

  

 そしてルドヴィックの様子がおかしくなったのは、あの頃からだ。こちらから話しかけても素っ気ない反応しか返ってこなくなり、会う回数も激減し、次第に距離ができて――

  

「目が覚めたか」


 頭上から、優しい声が聞こえた。

 その声に薄く目を開けると、視界に入ってきたのは間近に迫るルドヴィックの顔だった。


「ち……近!」

「よかった……急に意識を失ったから急いで医師を呼んだところだ」


 彼は安堵の表情を浮かべ、エレオノーラをきつく抱きしめた。エレオノーラは気を失っていた間、ルドヴィックの膝に抱えられていたらしい。


「申し訳ありません! 今、降ります!」

「何を言う、無茶をするな。しばらくこうしているといい」


 むしろ、ずっとこのままで。

 低い声が、耳元でそう囁く。あまりの甘さにまた意識を失いそうになったが、エレオノーラはギリギリのところで持ちこたえた。


 そして混乱する頭を、どうにかこうにか落ち着かせる。

 なんとなく見当がついたのだ。

 小箱が開いて、記憶を取り戻して……なぜこのようなことになっているのかを。


 ドラコニア王家の紋章が刻まれた小箱は、なにやら魔術で封印されていたのだが。

 小箱を城に持ち込んだ途端に様子が変わったルドヴィックと、彼の感情と同調するように熱を帯びた小箱。自ら蓋を開けたその箱は、彼が近付くことによって封印が解かれたようにも思えた。

 となると、この箱は――

 

「――この箱は、ルドヴィック殿下のものだったのですね」

「そうだ。私も先程思い出したところだが」

「何かが封印されていたようですけれど」

「ああ。この箱には私の、その……劣情が封印されていた」

「劣情」 


 この人は突然、何を言い出すのだろう。

 言葉を失うエレオノーラに、ルドヴィックは深刻な顔で弁解をする。


「今……私を軽蔑しただろう」

「いえ、その、反応に困って」

「いや、軽蔑されても仕方がない。けどな、当時は一刻を争う事態だったんだ!」


 ルドヴィックは顔を青くしたまま当時を振り返る。

 

 十三歳の彼といったら、寝ても醒めてもエレオノーラのことばかりを想う少年だった。

 しかも念願叶って婚約が結ばれた。そうなるともう、彼女を前にルドヴィックの青い理性など全く役に立たなかった。

 そして堪え性の無いルドヴィックは、尊いエレオノーラを怖がらせてしまった。あの、キス未遂事件である。


 けれど彼女への欲求は募るばかり。

 そばに居たいのに、エレオノーラへの衝動を止められない。悶々とした日々を過ごすうちに、見つけたのだ。この欲を抑える方法を。


「古い魔術書に書いてあったんだ。感情を抑える方法が」

「え……まさかそんな魔術があるなんて」

「はるか昔は、罪人にこの魔術を施していたらしい」

「そんな……」


 エレオノーラを怖がらせる人間など、罪人と変わらない。 

 そう思い詰めた十三歳のルドヴィックは、魔術書と共に高名な魔術師の元を訪ねた。そして持て余した欲求を、この小箱へと封印したのだという。


「しかしまさか、これほどまで綺麗さっぱりと君のことを忘れてしまうとは」

「そ、そうだったのですね……よかったです、封印が解けて」 


 おそらく、ルドヴィックが接触することによって封印が解かれる仕組みになっていたのだろう。フローレスカ侯爵家で保管されていたことを考えると、頃合いを見て封印は解かれるはずだったのかもしれない。

 年月と共に魔術も弱まっていたのか、もう彼が近付いただけで蓋は開いてしまったのだが。


「不甲斐ない私の……封印が解けて良かったと、そう言ってくれるのか」

「え……は、はい。ただこれからは事前に相談していただけるとありがたいです」

「ありがとう、エレオノーラ」


 エレオノーラを抱きしめながら、ルドヴィックは「ありがとう」「すまなかった」を繰り返し呟く。

 あんなに会うことが怖かったのに、目の前のこの人はなんて可愛らしいのだろう。


 思わず広い背中を抱き締め返すと、彼の身体がビクリはねる。その反応が愛しくて、エレオノーラはさらに力を込めて抱きついた。

 

「エ、エレオノーラ、そんなに抱きつかれたら私は――」

「ルドヴィック殿下。私、もう大人になりました」

「は……?」


 目を見開くルドヴィックに、エレオノーラは自ら口付けた。

 あの日できなかったキスは、やがて吐息交じりのものへと変わり、互いの溝を埋めてゆく。


「もう、待っていただかなくても大丈夫です」

 


 

 愛し合う二人の傍らでは、小花の指輪がキラリと輝く。

 役目を終えた開かずの木箱は、霧のように消え去った。


 

魔術師セルギウスと医師は、扉の外で空気を読んでいます。

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