登山口駅前旅館へようこそ
よろしくお願い致します
R2/8/27 ホラージャンル日間ランキング42位にはいってました!
驚き!感謝!
気軽に登った低山で、急な雨にあった。初めて登る山じゃない。下りもあと僅かだ。そんな気の緩みが、山では命取りだって事くらい、充分知っていた筈なんだが。兎に角私は、雨がこれ以上強くなる前に駅まで降りてしまおうと急いだ。
ずるり、と嫌な感触がした。濡れた落ち葉が固まって、足の下で滑る。思わず手近な樹の幹に掴まると、道標が眼に入った。登山道を少し外れた場所にあった。
旧道を閉鎖したあと放置されたのだろうか。あるいは、閉店した茶店への矢印だろうか。それにしては、特に朽ちてもいない。とは言え真新しくもない。まあ、よくある普通の分岐点にある矢印看板だ。
私は無性に看板の文字が読みたくなった。その看板は、山中の、しかも酷い雨の中だと言うのに、視界にくっきりと映っていた。吸い寄せられるように、木々の間を縫って行く。びちゃびちゃと水を含んだ落ち葉のクッションが音をたてる。先程転びかけた事も忘れて、私は不用心な程足を速めた。
山では良くある事かも知れないが、見えている場所になかなか辿り着かない。雨は全く止む気配が無い。黄色いゴアのレインウェアで、中まで濡れることはないのだが、動きにくさは多少ある。体に雨が当たる音が、孤独感を煽る。
細い木、太い樹、苔むした根、尖った岩を躱しながら、看板に到達した。見れば、
『登山口駅』
と書いてある。この山の麓にあるケーブルカー駅の名前だ。ケーブルカー乗り場が在るのは、別の方角の筈だが。距離の呈示も無い、おかしな看板だ。看板の示す方向には、道らしき跡が見えない。他の方位にも道が無い。他の矢印も無い。
薄気味悪く感じながらも、妙な焦燥感に駆られる。私は、ある種の使命感に支配されて、道標が誘う先へと足を踏み出した。生き物の気配は無い。他の登山客も見えない。相変わらず道も無い。
道は無いのだ。獣道すら無い。コンパスは、本来の下山路と同じく、この山では最も利用客の多い最寄り駅の方角を示していた。私の感覚が狂っていなければ、それはあり得ない事だった。だが、この雨で視界も悪く、方向感覚が狂ったのだろう、と結論付けて進んだ。
結果から言うと、私は遭難しなかった。山で遭難することなく、舗装された街道へと出ることが出来た。山を降りて暫くは、山間を縫うように進み、やがて現れた小川に架かる小さな橋を渡った。橋を渡った先には、民家がポツポツ建っているが、駅前らしい賑わいはまだ遠い。
そのまま森のような地区を抜けると、急に開けて駅前に出た。駅があって、広場があって、駅前食堂とお土産屋さんは閉まっていた。閉まった食堂の向かいに、寂れた旅館が一軒あった。雨は、古風な駅舎の赤い屋根に、容赦なく叩き付けられていた。
下山予定時間通りに駅前に到着した。だが、着いた駅は、予定と違っていた。古びた駅舎の正面には、立派な杉板に漆を流した文字で、
『登山口駅』
と書いてあった。あの矢印が示していたのは、この駅であるようだ。駅名看板の板は、駅舎の古さに似合わず、それなりに新しい様子だった。
辿って来たのは、見たことも聞いたことも無いルートである。紙の地図を確認しても見当たらない。登山レコード共有アプリで検索しても、出てこない。辿り着いた駅も、知らない駅だ。山の名前と駅名で検索するが、ヒットしない。
辺りが暗くなってきた。兎に角駅へ向かう。旅館の2階に人影が動いて居るが、この雨で見間違いかも知れない。鄙びた駅は無人だった。改札外にある時刻表は、掠れていた。全く読めない。ホームを覗くと単線のようだ。
投げ降りの雨が、灯りの無いコンクリートのホームを打つ。ホームは川のようになっていて、今は出ない方が得策だ。売店もベンチも無い殺風景な駅舎で、リュックサックから出した水筒の水を飲む。
1時間は経っただろうか。友人とSNSで雑談したり、家族に状況を電話したりと時間を潰しているうちに、すっかり暗くなってしまった。雨は、まだ止まない。電車は、来ない。
3時間が過ぎた。断熱シートを敷いて座ったり、屈伸したりしながら過ごして居た。終電がとっくに過ぎたのかも知れない。或いは、大雨で運休になったのだろうか。路線の名前も解らず、情報は得られない。
「もし」
古風な駅舎に良く似合う、今時聞かない呼び掛けだ。振り向くと、衿無しでボタンが無いブラウスを着て、無地の綿スカートを穿いた中年女性が立って居た。足元は、業務用らしき、薄汚れた白い長靴だった。エプロンにはロゴが入っていた。
『登山口駅前旅館』
と、白抜きされたゴチック体が、紺の厚手木綿にプリントされていた。
「終電、逃されましたか」
女性は穏やかに言った。やはりどこか古めかしい語り口であった。
「ええ、そのようです」
少々警戒しながらも、人に会えた事にほっとした。何処にでも居る中年風の服装だが、立ち居振る舞いはしっとりと緩やかだ。立ち方ひとつ取っても、昔の映画で観るような、ふんわりとした佇まいだった。
「雨も酷いですし。お泊まりになられては」
控えめな勧誘に、一も二もなく飛び付いた。日帰りの低山で、寝袋や毛布を持参していなかった。このまま駅舎で寝たら、凍死するかも知れない状況だったのだ。どのみち、駅前旅館でお世話になるより他なかったのである。
「傘、どうぞ」
旅館のロゴが大きく入った紺の傘だ。やや大降りなのが助かる。竹製の持ち手も、男性用でしっかりした造りだ。
私は、渡された手開きの洋傘を雨の中へと開く。
駅前旅館は、ほんの数十歩ほど歩いたところだ。レインウェアも着ているし、これ以上濡れることは無い。
駅前も湖のようになっていた。私の軽登山靴の防水加工など、無いにも等しい。靴下も、防水仕様の下履きを用意していなかった。駅舎で履き替えた靴下は、既に濡れた布に過ぎない。歩く度にグシュグシュと音がして、足に張り付いた。私は、足が濡れるのは早々に諦めた。
旅館は雨に烟って、輪郭がぼやけていた。締め切られた窓の並ぶ2階も、中の様子は解らない。塗装の剥げた窓の手摺を伝って、激しい雨が滝のように流れ落ちていた。
女性も、私物らしき赤い傘を差して、先に立って歩き出した。その背中は、頼もしくもあり、何故か懐かしくもあった。
完
ダメそれ着いてっちゃ。と言うお話でした。
ホラーとは 人を怖がらせる事を目的とする云々(募集要項より)
無事怖がって頂けたでしょうか。
この先の顛末を書くと、おかみさんに勘弁してくれと主人公が現実世界に叩き出される未来しか見えない。