見覚えのない、からっぽな私
5000字弱の短編となります。宜しくお願いします。
私はボールを放り投げた。
中には綿が詰められており、鈴も入っている。頑丈な布製の青いボールだ。
放物線を描きながら小気味良く芝生の上を跳ねているボールは、爽やかな鈴の音を辺りに響かせながらやがて勢いを無くし、柴犬のオスである愛犬パットに咥えられる事となった。
ひとしきりガジガジと噛んで満足したようだ。
パットは鈴の音を飲み込みながらこちらへと戻ってきた。
どうして私は――。
何も考えられない。
何も考えたくない。
公園の芝生は爽やかな春の陽射しを受けながら、若草色の絨毯のように広がっている。
しかし私には、ひどく色褪せて見える気がした。
私はひどくからっぽになってしまった。
少し遠くから、子供がはしゃいでる声が聞こえてきた。
――ケンタ! 転ばないように注意するのよ!
母親が注意する声も聞こえる。
「そうか、もうそんな時間か」
そう呟いた私は、パットの鮮やかな赤い首輪にリードをつけた。万が一の事を考えて、腰のベルトに繋いでおく。
パットはまだまだ遊び足りなかったようだ。ボールを右手で、左手で、器用にコロコロと転がしている。
「ごめんね、そろそろ帰る時間なんだよ」
そうパットに告げると、私は起き上がろうとして違和感を感じた。
世界から次々と色が失われていく。
――眩暈がする。
視界は勢いよく駆け出し白い空を映し出しだすと、やがて子供やパットの声を微かに耳へ残しながら、私はそっと意識を失った。
「せんぱーい!」
「斉藤先輩ってば!」
耳から女性の声が聞こえ、私は意識が覚醒していくのを感じた。
頬を舐められているような感触もある。
「やっと起きましたね。こんな所で寝てるなんて驚きましたよ」
私はゆっくりと目を開いた。
黒縁眼鏡をかけた黒髪でショートヘアの女性がこちらを覗き込んでいる姿が映る。そばかすと泣きぼくろも良く目立っている。
隣では黒い犬が心配そうに私の頬を舐め回していた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
私は体を起こしてから辺りを見渡した。
見覚えのない学校の校舎が見える。水飲み場、鉄棒、ブランコ、雲梯、大きさの違うタイヤなどの遊具が次々と目に映る。動物も飼っているのだろうか、飼育小屋のような建物も目に入った。
「私は眠っていたのか」
「知りませんよ、なんですか私はって。なかなか帰って来ないから心配して探しに来たんですよ!」
私は学校のグラウンドで大の字になりながら寝ていたようだ。
「そうか、すまなかったな」
「えっ!? 先輩がそんな事を言うなんて珍しいですね。頭でも打ったんじゃないですか?」
女性は少し驚いた様子で私を見返して来た。
「はは、そうかもしれないな。何やら記憶も霧に包まれた様にぼんやりするよ」
「そんなのいつもの事じゃないですか。何も思いつかないー! って。そんなしおらしく言っても駄目ですからね。逃がしませんよ!」
女性は笑いながら手を差し出す。私はその手を取って立ち上がると、お尻を数度はたいてから女性の後を追って歩き出した。
それにしても、私は一体どうしてしまったのだろう。
どうも記憶が混濁している。
今女性が連れ歩いている犬は、白い首輪をつけた黒い犬だ。
とても私に懐いていた様子だったけれど見覚えがない。
それにあの学校にも見覚えがない。今歩いている道も初めて見る。私の事を斉藤先輩と呼んだ黒縁眼鏡の女性にも見覚えがないし、そもそも斉藤という名前もしっくりこない。
――私の名前は何だっただろうか。犬の名前は。
駄目だ。記憶にふたをされている様な感覚がある。どうにも気持ちが悪い。
「さ、着きましたよ。ヨークは小屋まで私が連れていきますから、先に戻ってて下さいねー!」
そう言って、ヨークと呼ばれる黒い犬を連れて行った。あれは多分、シェパードという種類の犬だろう。私自身に関わる事以外の記憶は比較的安定している様だ。
私は目の前の建物を見る。
三階建てくらいはありそうな高さで壁は白塗り、玄関や窓の枠は黒いので、コントラストが美しい。広い庭には砂利が敷いてあり、数台の車と犬小屋が見えた。
当然、全てに見覚えはない。
とりあえず中に入ってみるかと考えた私は、玄関のドアを開き中へと入った。
ここが私の仕事場らしい。空いている椅子に座っていると、先ほどの女性に怒られてしまった。
「ほら、見えますか? 唐木ってちゃんと書いてありますよね? 私の名前、見えますよね?」
もう、と言いながら私の席であるらしい場所まで背中を押された。
「で、どうせ何も思いつかなかったんでしょう? しっかりプロット書いて下さいよ! もうこっちの作業三日も止まってるんですからね!」
そう言って彼女は自分の席へと戻っていった。
周囲の視線はどこか生暖かい感じがする。
この部屋を見渡して見ると、私も含めて5人程がいるようだ。男性は私を入れて三名、女性が二名で、その内の一人が唐木さんだ。
私は自分の机を見渡した。付箋の付けられたモニター、使い込まれたキーボード、コップ、何かの人形、端には書類やファイルが積まれている。
「うわっ」
真っ暗なモニターに映る自分の顔を見て思わず声を上げてしまった。
皆の視線が痛い。特に唐木さんからの視線が痛い。
意識が覚醒してからずっと、違和感しか感じていない。
見覚えのない女性に起こされて、見覚えのない場所で目を覚まし、見覚えのない犬を連れ、見覚えのない道を歩き、見覚えのない仕事場へと辿りついた。
当然この机の上にある物にも一切覚えがないし、そもそも斉藤という自分の名前にも違和感しかない。
そして今、自分の顔にも違和感を感じた。
――分からない事を深く考えても仕方ないか
そのうち謎は解けるだろうと考えた私は、とりあえずプロットとやらを書いてみようと思った。パソコンの本体を探し当て、モニターと共に電源をいれる。
付箋の内容からすると、何かヒーロー系の物語を書いていたようだ。机の上にある人形は主人公だったりするのかもしれない。
私は積まれていた書類やファイルと、パソコンの中に保存されていた過去のストーリーへざっと目を通した。
アンドロイドの主人公が、悪の軍団と戦いながら人類を守るお話だ。
だめだ。さっぱり何も思い浮かばない。
ちらりと唐木さんへ視線を向ける。
「はぁ……」
彼女と目が合うと、ため息をつきながらこちらへ歩いて来てくれた。
「分かっています。どうせ続きのお話が思い浮かばないんでしょう?」
「実はそうなんだ。どうしたら良いと思う?」
「先輩は何を書きたかったんですか? 幸い、運も味方してくれてここまでは順調ですよ。ですが、ここから物語は佳境へと突入していく予定だったはずです」
「何も思い浮かばないんだ。私はからっぽだ。何もない」
唐木さんは笑いながら語りかけてくる。
「主人公と同じじゃないですか。それなら自分を投影してみたらどうですか? 悪の軍団を倒しながら人間と触れ合う度に、からっぽの心が満たされていくんです。それが生き甲斐であり、使命であり、未来への希望なんですよ」
なるほど。自分の紡いだストーリーで主人公の心を満たしながら、実は自分自身も満たされていくという事か。
彼女の言う事が腑に落ちた私は、何だか少し元気が出てきた。
「ありがとう、唐木さん。やれる気がしてきたよ」
唐木さんって、もう――彼女はブツブツと何か呟きながら、自分の席へと戻って行った。
目の前に広がっていた気持ちの悪い違和感が薄れて、景色が色付き始めた気がする。
私はそれから我武者羅になって物語を紡いだ。
からっぽな私自身を満たしていくように、主人公の心に未来への希望を注いでいった。職場の仲間とも協力し、素晴らしいストーリーを作り出せたと思う。
生み出された作品は、その後も順調にファンの心を掴んでいった。
いつしか違和感など完全に無くなり、色鮮やかな景色は私に生き甲斐を与え、彼女のお腹には未来への希望が宿った。
私は一心不乱にこの作品へ取り組んできた。その様子を見ているうちに、少しずつ魅かれたらしい。職場の同僚達は、いずれこうなると思っていた、と祝福してくれた。
彼女の家の都合で、私は唐木の性を名乗ることにした。今はとても幸せな気分だ。
そんなある日、いよいよヨークが天に召される時が来た。
老衰だ。
彼は私達夫婦にとって、そして職場の同僚達にとって大切な仲間だった。
「ねぇ、覚えているかしら」
そういって彼女は、ヨークが初めてうちに来た時の事を語り出した。
「みんなで必死に名前を考えているのに全然決まらなくて……あなたは言ったわね。『全員でよーく考えたんだ。こいつの名前はヨークだ』って」
彼女は黒縁眼鏡の奥に涙を浮かべながら笑った。
「なんて馬鹿馬鹿しい名前の付け方だって皆で笑ったわ。でも、ヨークはすぐに気に入っていたわね。そしてあなたに良く懐いていたわ」
――私は頭の中で、記憶の扉が開いた音を聞いた。
ヨークは庭に埋葬して墓を建てる事にした。庭を駆け回るのが好きだったからだ。
砂利よりも芝生の上を駆け回りたいだろうと思ったので、私は全面を芝生にした。
子供が無事に産まれた。
彼女と二人で涙を流しながら喜んだ。元気な男の子だ。
「私、男の子が産まれたらどうしても付けたい名前があったの」
彼女がそう言って私に提案してきた。
「あなたが手がけた作品の主人公は、未来への希望で心が満たされた時に初めて自分の名前を決めたわよね」
「ああ、そうだね。そして実は私も、全く同じ事を考えていたんだ」
きっと元気で思いやりのある子に育ってくれるよと私は言って、二人で笑った。
新しく犬を飼う事に決めた。
「やっぱりヨークみたいに勇敢な犬が良いかしら」
「そうだな、確かにそれも良いかも知れない」
だけど、と言って私はパソコンの画面を彼女に見せた。
「きっとこの子には、この犬種の方が良いんじゃないかと思うんだ」
「あなたがそう言うのならそうしましょう。それにとっても可愛いわ」
ヨークの首輪やリードはそのまま一緒にお墓へ埋葬したので、新しく買いに行く事にした。
自宅兼職場から歩いて少しの所にあるペットショップまで来ると、彼女はお目当ての物が売っているコーナーへと歩いていく。
「これは必要よね。それにあれも買って……」
彼女が奮闘している中で、私は必ず買わないといけない物がある事を理解している。
「あの犬にぴったりの首輪を見つけておいたよ。うちに来るのが待ち遠しいね」
「あら、鮮やかで素敵ね」
「そうだろう。きっととても似合うはずさ」
「そうね。あとは名前を考えなくてはいけないわね」
「実は良い名前も考えてみたんだけど、聞いてくれる?」
「あら、随分と手際が良いのね。まさか今考えたんじゃないでしょうね」
「そうとも言えるしそうじゃないとも言えるよ。ぱっと思いついたんだ。これしかないってね」
今日は三歳になった我が子の手を引きながら、家族三人と一匹で、近所に出来た広い公園へと向かっている。
愛犬のパットはとても可愛い柴犬だ。
私は鮮やかな赤い首輪から伸びたリードをしっかりと腰のベルトに結んだ。
そして道路へ飛び出さないように中間辺りを手で持っている。
公園に到着すると私は、息子を見ながら言った。
「さあ、遊んでおいで」
「あいー!」
トテトテと駆け出した我が子をゆっくり歩いて追いかける。
「ケンタ! 転ばないように注意するのよ!」
彼女は笑いながらそう言った。
「大丈夫だよ、ここまでくればもう心配ないさ」
私は自分自身にも同じ言葉を投げかける。
息子はやがてあの学校へ通い、水飲み場で友人と語らい、鉄棒で逆上がりに四苦八苦するのだ。
そしてブランコに揺られ、雲梯で遊ぶのだろう。
あのカラフルなタイヤだって、一つずつ自分の力で飛び越えていくのだ。
私は鮮やかさを取り戻した景色を前にして、そんな事を考えていた。
鞄から青い布製のボールを取り出す。
――私はもう、からっぽじゃないんだ。
右手にある池の水面には、見覚えのある自分の顔が映っている。
私はボールを放り投げた。
小気味良く芝生の上を弾むボールは爽やかな鈴の音を響かせている。
ショートショートではなくしっかりとした短編を書き上げたかったので、数日間この作品に集中しました。
ジャンルは、ヒューマンドラマ・ミステリーといった感じになると思います。ホラー系のちょっと気味が悪いような短編とは違って、読後感も爽やかになるようにしました。
一生懸命書きましたので、楽しんでもらえると幸いです。