主従の絆
寝苦しさから目を覚ましてしまう。気だるくて、全身が火照っている。汗が不快だ。額に乗せられた濡れタオルは乾きつつあり、目を覚ました私が身を捩らせると額から落ちて行ってしまった。
「誰か、居ないの……?」
だだっ広い部屋の中、天蓋付きのベッドの中から人を呼ぶ。
全身が不快だ。汗でも拭いてもらおう。
「めぐるお嬢様、失礼いたします」
そんな言葉と共に扉が開かれ、メイド服に身を包んだ女性が入ってきた。流れる様な黒髪を後ろで束にしている凛とした佇まいの彼女は、私の使用人である。
「遥、どれだけ寝てた、私?」
「半日ほど、もうすぐ夕方です」
「そう」
私と会話しながら、濡れタオルを用意している遥。長い付き合いだ。言わなくても私が求めていることを察知してくれている。
「お嬢様、自分で体を起こせますか?」
「ん、大丈夫」
そう答えて、身体を起こす。
すると遥が私の寝間着を脱がしにかかる。
これも、慣れた手つきだ。私は成されるがままに脱がされていった。
「拭きますね」
ぬるま湯でぬらされたタオルで汗を拭ってくれる遥。自分以外の誰かに肌を触られるのは、正直言って全然慣れない。
くすぐったいし、何だか変な気持ちが沸いてきそうになる。
背中が拭き終わり、今度は前を拭こうと遥が更に近寄って来る。
ほんの数センチほどまで迫る遥かの髪の毛。するりとした黒い綺麗な髪を見ていると、つい手を伸ばして触れてみたくなる。
「んっ」
そんな事を考えていると遥が再び体を拭う手を動かし始めた。思わず小さく声を出してしまい、気恥ずかしくなる。
優しい手つきで遥は私を拭いてくれる。
「お嬢様、かゆいところは御座いませんか?」
「大丈夫、だよ」
その返答に満足した笑みを浮かべる遥。でも、その笑みは私が慣れ親しんでいる物では無い。作られた、かりそめの微笑みだった。
私と遥の間に、昔はこんな主従関係なんて無かった。
財閥の娘の私と、それに代々仕えてきた家系の娘である遥。いずれは主と従者と言う関係性になる事には決まっていたけれど、遥かはそれに縛られるの事を嫌っていた。
主では無く、五つ年下の私を妹の様に扱ってくれた。
面倒見が良くて、はつらつとした遥はお互いの家の事なんか関係ないと日頃から言っていた。
私たちは姉妹なんだと、そう言い張ってくれた。幸いにして私の両親は理解があってそれを認めてくれては居たけれど、遥かのお母さんは認めなかった。
遥は、それをすごく悲しんでいた。
「ねえめぐる。私が私であっていいのは、あとちょっとなんだ」
「うん」
「高校を卒業したら、決めなきゃいけない。家を出るか、此処で一生働くか」
夕日の差し込むある日。私の部屋でベッドに腰掛けて私たちは話した。
「遥姉、私は遥姉が決めた事なら何でも受け入れるよ」
いつか、外へ出て一人で生きていくんだと、そう私に遥が言ったことを覚えている。家の決まりだとか、長年続いた使命だとか私には関係ないと言う遥かの姿を。
「うん、ありがと。めぐる」
笑って、私の頭を優しくなでる遥。
きっと、理解していた。遥は出て行ってしまう。きっと全部忘れて外で幸せになるんだと。遥の家の事も、私たちの事も、そんな何もかもを捨てて、きっと生きていく。
鳥かごの中にずっと閉じ込められている私を置いて、行ってしまう。
お嬢様と言う立場も、遥かと一緒に居る時だけは忘れられた。私が本当の私で居られたのは遥が居るからだったのに。
遥は私を置いていく。
それから一週間後。
「めぐる、ごめん」
そんな短い言葉だけ残して、遥かはこの狭い鳥かごから出て行ってしまったのだ。
「お嬢様。――お嬢様」
揺さぶられて、まどろんだ意識から浮上させられた。
嫌な事を思い出していた。全部忘れたい出来事を。
「あ、遥」
目の前には遥が居る。メイド服に身を包んだ遥が。タオルは既に片付けられており、私にも新しい寝間着が着せられている。
優し笑みが、私に向けらている。
「よく、お眠りでしたよ」
「なっ――」
思わず顔が赤くなる。寝顔を見られた? 何か変な事を口走った? そんなとりとめのない考えがぐるぐる頭を駆け巡る。
「相変わらず、ですね」
そう言って頭を撫でられる。
優しく、暖かいそれは私が知っている遥かの物であり、とても心が安らいだ。
「遥、どうしてなの」
私が呟いたら、遥かは少し表情を曇らせていた。
撫でられていた手が止まる。
「ねえ、遥。答えてよ」
「お嬢様。それは……」
返答に詰まる遥。
私はなんとなくこの日を逃してしまうと、もう二度と聞けないよう様な気がしていた。
遥かの腕を引っ張って、思いっきりベッドに引きずり込んだ。仰向けに押し倒して押さえつける。
「めぐるお嬢様、何を?」
「やめてよ……」
感情が溢れて来る。
あの日、遥が戻ってきてから閉じ込めた筈の自分の気持ちが。
「お嬢様なんて、呼ばないでよっ!」
しん、と。
私が怒鳴ったあとに静寂が訪れる。
遥はそんな私を見て目を点にしている。
私は口をぎゅっと結んで、遥をにらみつける。ぽたりと、水滴が遥かの頬に落ちた。
流れているのは私の涙だった。
「っ。泣いてないからっ!」
遥を抑えていた手を離して涙をぬぐう。
もう、感情が自分で制御できていないなと、思った。
涙は、拭っても止まってくれなかった。
「どうして、どうしてなの」
ただ溢れる思いを放出してしまう。
とめどないそれは、もう私には止められない。
「めぐる、泣かないで」
「遥姉?」
がばりと、天地がひっくり返った。
全くの予想外に対応は出来ない。どさりと、今度は仰向けに押し倒されてしまう。
「めぐる、ほんとにごめんね」
メイドの仮面を捨てて、「遥」として私に語り掛ける遥。
その瞳は涙に濡れて、表情は全部を後悔していると言った面持ちだ。
「此処を捨てて、大学にも行った。いろんな人と出会って、彼氏も出来た」
心の底からの懺悔に、私はただ黙って耳を傾ける。
「きっと幸せになれるんだって、思っていた」
私も、そう信じて遥を見送った。
寂しかったけれど、遥が幸せになれるなら、しょうがないと自分に言い聞かせて。
「でも、足りなかった」
「足りない?」
遥の顔が、近づいてくる。
「めぐるが、居なかった」
どくんと、心臓が跳ねた。
息がかかる。遥のさらさらとした黒髪が私の鼻を舐めていく。
「めぐるが居ないことが、こんなに辛いなんて考えもしなかった」
「はる、か姉」
唇が近づく。お互いの体温が混ざり合って、発熱する。
「全部無くしてから、気づいちゃったの。都合が良すぎるって、判ってるけど」
遥の顔が、ほんの数センチの所で止まる。
頬が熱い。香水の匂いが、頭をくらくらさせる。
「それでも、まためぐるに会いたくなった。なってしまったの」
まるで糾弾されることを恐れる様に震える声で囁く遥。
私は、そんな遥を見てなんだか全部どうでもよくなってしまった。
私を一人にした事も、勝手に帰って来て全然違う雰囲気になってしまった事も。我がままで自分勝手で、最終的には全部思い通りにしてきたことも。
「キス、して」
私が言うと遥の顔が真っ赤になる。
「ほんとに、後悔してるなら。行動で示してよ」
「――っ!」
目を閉じる。私は卑怯かも知れない。絶対に遥が断れないと踏んでの言動。閉じた視界の中で待った。数秒、数分かどれだけ経ったか分からないけれど、遥が意を決した様に私に迫るのは分かった。
触れるだけのキス。
お互いの唇が触れて、遥かの暖かさが私を包んでいく。
ほんの一瞬、でも永遠の様に思える時間が過ぎた。私たちはお互いどちらともなく顔を離れさせた。
上気した頬、潤んだ瞳。
「遥姉、もうお嬢様って呼ばない?」
私が訪ねると、困った様に笑う遥。
「二人きりの時は、絶対に呼ばない」
「ま、及第点ね」
乱れた服装を正しながら、ベッドに座り直す私と遥。
並んで座っていると、やはり思い出してしまう。かつての関係性を。姉妹の様に、主従何て概念が無い間柄。
でも、私も子供じゃない。お互いの立場は理解しているし、それを尊重する気もある。だからこれからを悲観する事は無いのだ。
私たちの関係は変わってしまったけれど、それでも変わらない物があったから。
再びつながったこの絆を、決して失くしたりはしないんだ。




