勝ちか、負けか
若気の至りでやらかした愚かな行いは、後で悔やむことになるっていうけど。
俺はこの時ほど、さっちゃんに似せようとしていた自分を、後悔したことはなかった。
パンダちゃんが俺を好きだと言ってくれたのは、さっちゃんに似ていたからじゃないか?
俺自身の経験からして、独り暮らしに少し慣れた頃にホームシックってやつは、やってくる。大学一年生なら、ゴールデンウィークから梅雨入りにかけて。
そんなタイミングで、“パパの友だち”とよく似た大人と出会ってしまったら。
懐かしさと恋愛感情を錯覚する、かも……。
逆に考えて。
俺がさっちゃんと似ていなかったら。
パンダちゃんの意識に残ることはなくって。
“お地蔵さん”って、声をかけられることも
なかったかもしれない。
つまり。
さっちゃんの存在がなければ、彼女とは
縁もゆかりもない他人だった。
そんなネガティブ思考にはまっていた俺は、
「パパのこと、隠していてごめんなさいっ」
勢いよく謝られて、我に返る。
肩から下げたトートバッグの持ち手をギュッと握りしめている彼女に
「いや、そこは気にしてないから」
って、笑顔を作って見せたけど。
この……作った笑顔は、俺自身の笑顔か?
さっちゃんの真似じゃないのか?
またもや、下らないことを考えてしまって、左の頬が引きつってきた俺は。
パンダちゃんからそっと目を逸らせた。
「ところでさ。お昼、どうしようか?」
しばらく互いに無言で歩くうちに、石垣が途切れる。
その先の本丸広場は、宴会の輪がそれぞれの木の根元を占拠していて。
これぞ、お花見って光景が繰り広げられていた。
『ちょうどいい話題が見つかった』と、声をかけた俺に
「簡単なのだけど。お弁当を作って、みました」
彼女はトートバッグを軽く叩いて見せる。
「おにぎらず?」
「いえ、そこまで手抜きじゃないですってば」
「お、楽しみ。じゃあ、場所を……」
見つけないと。
とはいっても、辺りは宴会の真っ只中。
空いている場所を探し求めて彷徨ううちに、広場の端っこ。少し寂しい咲き具合の一本の根本に、ピクニックシートを広げることができた。
もっと良い場所にしたかったと、残念に思っていると、
「紅葉の時を思い出しますねぇ」
携帯用のウエットティッシュを差し出す彼女は、懐かしそうな顔で微笑む。
「あの時も、ベンチがいっぱいで」
「木の枝に邪魔されながら……だったなぁ」
うわ、俺たちのデートって、初っ端から情けなかったなぁ。
「おかげで、コォさんとくっついて座れて」
「え?」
「心の中で、『木の枝、グッジョブ』って。嬉しかったなぁ」
「うん。そっか」
そんなことを言ってくれるのは、俺自身を見てくれたから?
彼女が用意してくれたのは、サンドイッチだった。
「お、うまい」
一口囓ったカツサンドは、マスタードの加減が絶妙。
「ママが若い頃に、パン屋でバイトをしてて」
「へぇ」
「調理のパートさんから教えてもらったレシピって」
「うん。これは、いける」
「よかったぁ。コォさんが、喜んでくれて」
垂れ目を綻ばせた彼女も、ランチボックスに手を伸ばす。
その手が最初に取ったのは、ポテトサラダらしい。
「そういえば、さっきから気になってたんだけど」
半分くらい食べて、ちょっと休憩。
「俺の名前」
「やっぱり、馴れ馴れし……過ぎた?」
「いや、そこはいいんだけどさ。“皓”じゃないよな? 呼んでるの」
“コォ”の音に、息だけで発した微妙な“ホ”の音が混じっている気がする。
「“コォホォ”、かな? 大げさに言うと」
紙コップに注がれていたコーヒーを片手に、彼女の音を真似てみせると
「あ、やっぱり分かります?」
いたずらがばれたような顔で、首をすくめる。
「なんで? そんな風に?」
「だって、メッセージアプリの名前が“KO-h”やったでしよ?」
「あー、あれ?」
「そう。あれです」
アレ、か。
アレも言ってしまえば……若気のいたり。
「紅葉を見に行ったあと私、実家に寄ったやないですか?」
「あ? そうだったっけ?」
ああ、そうそう。一人で帰って、電車でうたた寝したな。
「それで、実家からコォさんにメッセージを送ってたのをパパに見られて」
ぶ。コーヒーを、噴きそうになったじゃねぇか。
「パパって……パパ、だよな?」
YUKIに見られたのかよ。
「はい。ついでに遊びに来ていたJINさんにも」
「……JINだけ?」
「残念ながら、SAKUさんは来てませんでした」
いや、むしろ来なくっていいから。
「その時に、JINさんが呟いた読み方が、すっごく格好良くって」
「へぇ」
そりゃな。英語歌詞の歌を作って歌って……っていう、織音籠のボーカル様だし?
「ステージでのメンバー紹介も、かっこいいもんな。英語っぽくってさ」
「でしょ? それで、コォさんのアカウント名も『このスペルなら……』って」
深く考えずに、ちょっとした色気を出して付けたようなアカウント名だったけど。
なんとなく、ちょっとだけ。
織音籠に近づいたような
錯覚を覚える。
その日から、彼女はデートの時はもちろん、メッセージアプリでも俺の事を、名前で呼ぶようになった。
なのに俺はまだ。
彼女の名前を呼びあぐねて。
それでも『パンダちゃん』と呼び続けるのは、何かに負けたような気がして。
誤魔化し誤魔化しの会話を重ねているうちに、夏がきた。
八月最初の木曜は、織音籠のライブに初めて一緒に行くことになった。
俺は時間的な余裕を考えて、七月分の休日出勤の代休をあてていたけど。夏休みに入っている彼女は、お昼過ぎまでバイトで。
一人で昼飯がてら、街をぶらつく。
ぶらつきながら思うのは、彼女のこと。
『今夜のライブの後、二人で楽屋に顔を出すように』と、先週のデートの時に彼女を通じてYUKIから言われている。
そんな場で“パンダちゃん”呼びは無しだから。
この一週間、心の中で何度も繰り返した練習をこの日もやっていた。
音程は……微妙な後ろ下がりで。
呼び捨ては、あの“パパ”が怒るかな?
でもなぁ。
子供っぽい呼び方は、したくないし。
って、考えてたら。
目的の定食屋を通り過ぎてるじゃん。
俺、何をしてるんだろうな?
今日の待ち合わせは、彼女のバイト先に近い、駅構内のコーヒーショップ。
近所で軽く腹ごしらえをしてから、東へ向かって電車に乗って。彼女の実家にも近いらしい、俗に“西のターミナル”と呼ばれている駅が、ライブハウスの最寄り駅だった。
平日夕方のターミナル駅は、会社帰りの人達と、俺たちみたいな遊びの人間とで、ごった返していた。
「迷子になるなよ」
ほら、と差し出す左手に柔らかな掌が滑り込む。
うふふふ、と、含み笑いが聞こえた気がして。
「何?」
「やっと、手がつなげた」
嬉しそうな声に、こっちの顔まで緩んでくる。
照れ隠しに、空いた手で顎を撫でる。
この……勢いに乗れば。名前……。
「今夜は、バースデーライブですよね」
勢いに乗り損ねて、気持ちだけつんのめる。
それでも、なんとか立て直して。
「バースデーライブ?」
「コォさん、八月のは来たことない?」
「あー、うん。八月のヤツってさ、チケットが取りにくいだろ?」
更に言えば、学生時代の夏休みは、夏合宿とか自分たちのライブとかで忙しかった。
社会人になってからの夏休みは、お盆の時期を外して、どっちかの祖父ちゃんのところか実家に顔を出すくらい。
今年はオフクロ側の祖父ちゃんの具合がよくないみたいだから、病院への見舞いになりそうだ。
「八月の始めにMASAさんの誕生日があるから、ステージでお祝いを」
「あー、なるほど。だから、ファンクラブだけで売り切れるわけだ」
ギターのMASAが、今月で。来月あたりが彼女のパパ、YUKIの誕生日だったような……。来月のヤツも、いわゆるプラチナチケットってわけだ。
それはともかく。
さすがは、学生時代の同級生が集まったバンド。確か五十路だっていうのに、ノリが高校生じゃねぇか。
そんな話をしているうちに、目的地に着いた。
五十路を迎えたっていうのに、さっちゃんたちは。年齢をモノともせず、そのパワーで客席を支配する。
やっぱり、違うんだよな。モノマネの域を出られなかった俺たちとは。
なんだよ。さっちゃんの、あのテクニック。クリスマスよりも更に進化してねぇ?
〈さて、八月になりました〉
薄く客電が点されて。JINのMCが挟まれる。
辺りからは“MASAコール”が起きて、ピックを指先に挟んだままのMASAが手を上げて応える。控え目なボリュームでゆっくりと、キーボードのRYOが“Happy Birthday”を奏でる。
なるほど。バースデーのお祝いな。
〈 MASAが、また一つ年を重ねた……なに? 〉
JINの言葉に、ステージ下手からさっちゃんが何やら口を挟んだ。
苦笑いを浮かべたJINが、
〈 SAKUが言うには、『また一つおっさんになった』そうですが…… 〉
マイクが拾い損ねたさっちゃんの言葉を伝えて。
上手のMASAが、何かを言い返す。
〈 えー、MASAからは『うるさい、最年長』と 〉
客席に笑いが起きる。
うん。さっちゃん、四月生まれだもんな。
〈 では、ここで。“Thanks for Your Birthday” 〉
ライブ限定、か? 告げられたのは、聞いた事の無いタイトルだけど。
拍手が落ちつくのを待って、YUKIのカウントが取られる。
あ、これ。
曲は、聞いたことがある。
知ちゃんが歌っていた、子守唄だ。
ただ、歌詞が違う。多分。
知ちゃんが歌っていたのは、英語歌詞ではなかった。
それでも“籠の鳥”には、馴染みある歌らしく。
客席を煽るJINに従って、歌声が生まれる。JINのハスキーな声と、ハモる。
チラリと目をやった彼女も、幸せそうな顔で口ずさんでいるから。
なんとなく、負けたく無い気持ちで。俺は。
小さな声で、知ちゃんが歌って居た“子守唄”の方を歌ってみた。
『See you again!』と、いつもの言葉でJINが、ステージの終わりを告げる。客席に灯が灯る。
「ちょっと、お手洗いに……」
申し訳なさそうな彼女の声に、
「あぁ、俺も行っておく」
いよいよパパと対面、って思うせいか、腹の底が落ち着かない。
映画館なんかでもそうだけど。
ここでも、女子トイレは長蛇の列で。すぐ傍で待つのはためらわれたから。
廊下の角を曲がった辺りで待ち合わせることになった。
自分自身の用を足して。
緊張を抱えて待つ時間は、長い。
YUKIと会って、まずは『初めまして』だろ?
で、『瑠璃さんと、おつきあい……』って。
ヤバい。絶対に、彼女の名前を噛む。
“噛みそう”じゃなくって、“噛む”自信がある。
瑠璃さん、瑠璃さん、瑠璃さん。
よし。練習、オッケー。
ええっと。それから。自己紹介をして。なんだけど。
問題の二つめは、ここ。
さっちゃんの視線と反応が読めねぇ。
他人のふりか。
ドカーンと、カミングアウトしてしまうか。
うーんと、しばらく考えていて。目の前を通った女の子の三人組。
『さっきの。ヤバくない?』『いや。普通、引っ掛からないって』『だよねえ?』『でもさぁ……』
ひそひそ話にしては大きな声で話し合いながら、通り過ぎていく。
ヤバいって、なにが?
なんとなく気になって、女子トイレへ続く廊下を覗く。
ビ ン ゴ
って、欠片も嬉しくない。
女子トイレと俺とのちょうど真ん中辺り。俺よりも少し年嵩と見える男が、彼女に話し掛けているのが見えた。
早足で彼女の元へ近づく。
彼女が男を避けるように壁の方へと一歩踏み出す。
その白い腕を、
不健康そうな手が掴んだ。
「瑠璃っ」
とっさに叫んだ彼女の名前は、俺自身が驚くほどの大声になって。
二人の視線がこちらへと向けられた。
「コォさんっ」
悲鳴に近い声で呼ばれて、頭に血が上る。
「おい、お前。何だよ」
最後の数歩を小走りで、距離を詰める。殴りたくなる拳を腰の後ろに隠して声を掛けた俺に、
「関係ねぇだろ」
煩そうな返事が返されて、頭の後ろが熱くなる。
「あるんだよ。人のカノジョに触ってンじゃねぇ」
怒りのままに、掴んでいるその手を引き剝がして。
「大丈夫か?」
肩を抱くように、傍らへと引き寄せた彼女は。
唇を固く引き結んで、
相手を睨んでいた。




