お花見で
スケートの翌日は無事だった筋肉痛が、一日遅れの火曜日にやってきて。
納品のコンテナを車まで運びながら、小さく呻く。
『筋肉痛です。バイトが辛いー』と、泣き顔のスタンプと一緒に送られてきたパンダちゃんからのメッセージに笑っていられた昨日の自分を、指さして嘲笑いたい。
さすが六歳の年の差。
体の反応は、正直だ。
そんな感じで始まった、彼女とのお付き合いは。
毎日メッセージアプリでやり取りを交わし、二週に一度は休日の図書館で落ち合ってデートに出掛ける。
ちょっとしたイレギュラーは、ホワイトデー直後の土曜日に、映画を観たことと、お返しのプレゼントを渡したことくらいで。
秋からこっちの付き合いかたと、大きな差がなかった。
つまり。『ハイキングの後から、空想の中ではカレシでした』と、告白の時にパンダちゃんが言っていたことは、間違ってないわけで。
俺自身も心のどこかで、そんな空想を抱いていたような気もする。
そして俺は。俺達は。
その“空想”のせいで、意識を友人から恋人へと明確に切り替えそびれてしまって、春が来ようとしてもまだ、互いの呼び方を変えられずにいた。
彼女を名前で呼べるきっかけを探しているうちに、新年度が明けた。
その日も、帰宅してからメッセージアプリでやりとりをしつつ、夕食のカツ丼をかき込む。
[パンダちゃん、お花見行かないか?]
[いいですね! 城址公園が見頃みたいですよ!]
[どこ? それ]
彼女の実家がある楠姫城市内の名所で、市名の由来らしい。
待ち合わせの場所や時間を決めながら、チラリと考える。
桜の下でなら、雰囲気に紛れて。
手なんか握ってみたりするついでに。
名前も……呼んでみようか。
ささやかな下心含みのデートの日は、花冷えのする曇り空で。
薄手のダウンが恋しいような空模様だった。
「もっと東にある日本庭園も、キレイだって聞くんですけどね」
こっちの方が気取らない感じで、好きなんです。
そう言って彼女は、ほぼ満開の枝に手を伸ばす。綻びかけた蕾を、指先で撫でる。
「ああ、あそこか」
「お地蔵さん、行ったことある?」
「小学生の頃、かな? 叔父の結婚式で」
さっちゃんと知ちゃんの結婚式が、たしか園内のレストランであった。
「桜の季節には遅かったから、見てねぇけど」
「来週やったら……」
「うーん。明後日、雨だって言ってたからなぁ」
花腐しの雨。来週末にはきっと、見頃を過ぎる。
「じゃあ、紫陽花? 梅雨の頃も、良いって」
「……パンダちゃん、行きたいんだ?」
ちっ。名前を呼びそびれた。
「実は私も、子どもの頃にあそこで結婚式に出たことがあって」
「へぇ」
「前の年に、叔父の結婚式にも出たはずなんやけど。“花嫁さん”を……認識したっていうのかな? 『うわぁ、ドレスを着たお姫様が目の前を歩いている』って、初めて意識に入ってきた場所なんです」
女の子が憧れるお姫様の、実体化ってやつか。
そんな会話から、十五年近い昔に想いを馳せる。
格好良かったんだよな。花婿のさっちゃんも、周りの織音籠も。
あそこから、俺の青春が始まった。ってのは……言い過ぎか。
「パンダちゃん、ちょっと止まって」
「はい?」
「花びらが……」
舞い散る花びらが二枚、編み込みにした彼女の髪についていた。
耳より少し頭頂部に近い辺りへと、右手を伸ばす。
編み込みを乱さないように、左手で軽く髪を押さえるようにフォローしながら花びらをつまみ上げる。
よし、成功。
「とれました?」
編み込みを気にするように、俺が触れた辺りを彼女の指先が撫でる。
「ほら」
「あ、ちょっと待って」
お地蔵のトートバッグから、手帳がでてきて。俺が摘まんでいた花びらを、今日の日付が書かれたページで受ける。
「押し花?」
「今日の記念に」
大切そうに手帳を閉じた彼女が、垂れた目を微笑ませる。
『上手にできたらラミネートして、栞に』とか言っている彼女とすれ違いかけた二人組が、
「るるー?」
立ち止まって、声をかけてきた。
二十歳前後と見えた女性たちは、どうやらパンダちゃんの友達、らしい。中学か高校の頃の。
『久しぶり』だの『元気?』だのと、懐かしそうな声で交わされる会話から、背の低いショートカットの子が“みのり ちゃん”、片えくぼの子が“カッシー”と、呼ばれているらしいと、判断する。
そして、パンダちゃんは“ルルー”と。
「で、さ。ルルー」
カッシーが同じくらいの身長であるパンダちゃんの肩を、握り拳でグリグリと小突く。
「なによぉ?」
「さっきから、気になってるんだけど……カレシ?」
尋ねるカッシーの隣で、みのりちゃんが下手な口笛を吹いて。
パンダちゃんが、
赤い顔で
頷いた。
「カレシの……コォさん」
お? “皓”ではないような……?
微妙な発音で紹介された。
家族や友情たちとは何か違うんだけど? とか考えながら、二人に会釈をすると
「ルルーに、春だわ!」
「ついに、この日が!」
悲鳴とともに、妙な盛り上がりを見せられて。
「ちょっと、二人とも。そんなに……」
パンダちゃんが慌てた様子で、みのりちゃんの肩を叩く。
「だって。ルルーにカレシだよ? お赤飯ものよ!」
「そんな、大げさな」
「いやいや。鉄壁の防弾ガラスが割れたからには……」
興奮気味の みのりちゃんの口から、思わぬ単語が出てきて。
「防弾ガラス?」
つい、口を挟んでしまった俺は、パンダちゃんから恨みがましい眼で見られた。
「”瑠璃”って、ガラスの古語でしょ?」
「ああ、瑠璃・玻璃の?」
「そう。それで……」
説明してくれようとしていた彼女が言い淀んだあとを、カッシーが受ける。
「ルルーは、恋バナに寄らない子だったんですよ。中学生のころはもちろん、高校生になっても」
「へぇ」
「『好きな男子なんて、居ない』っていうし。男子とも必要最小限しか話さないし」
出会いの経緯を考えたら、それは、ちょっと意外でもあるけど。
「男子からは、近寄りがたい、って思われていた感じもあって」
「あー、なるほど。姿は見えても触れない“ガラス”って意味か」
ガラスの檻に入ったパンダは、誰とも触れあわない。誰にも傷つけられない。
「それも、そんじょそこらのガラスじゃなくって、最強の防弾ガラスですよ」
そう言葉を足して笑うみのりちゃんに、パンダちゃんは
「パパを越えられる男子なんて、これまでいなかったもん」
ちょっとふくれ面で言い返すけど。
「はいはい。それで、年上のカレシなんだね」
「いや、それは……」
みのりちゃんにツッコミまれて、パンダちゃんの勢いが萎む。
『別に、コォさんが年上だから、とか……』と、ブツブツ言っている彼女が、チラリとこっちを向いて。
目が合ったと思ったら、気まずそうにそらされた。
「ルルー、すっごいファザコンだったもんね」
懐かしそうなみのりちゃんの言葉に
「まあねぇ。あのパパじゃあ……ねぇ」
苦笑を含んだカッシーの声が続く。
そんな彼女たちへとに目を向けると、意味ありげに頷き合っていて。
「普通の中高生は、勝てないって。おりお」
「カッシー、ダメっ」
初めて聞くパンダちゃんの叫び声が、かき消した言葉は。
「織音籠のYUKI?」
と、俺には聞こえた。
「聞こえて、しまった……?」
上目遣いにこちらを伺う表情に、『眼鏡がないから、パンダっぽさ半減』とか考えて。現実逃避をしている自分に気付く。
いやいや。今は、そんなことを考えてる場合じゃないから。
「あ、うん。でも、ちょっとばっかし待って」
衝撃の事実ってヤツを、改めて脳内で咀嚼する。
神戸出身のパパで、彼女が産まれる前からママは織音籠のファン。
持っているスマホは、織音籠絡み。
パパが失業してたっぽい、彼女が小学校に入る少し前っていったら……さっちゃんの結婚式の頃だから……事情があって、織音籠は活動を休止していた。
そして、極めつけは。
『織音籠のファンに、悪い人はいない』って、呆れるほどの信頼。
ああ、うん。
なんか、すごく納得。
「オッケー。理解、できた」
俺が考え事をしている間にカッシーたちは、ちょっと気まずそうに頭を下げて、立ち去っていた。のは、見ていた。
俺も、心ここにあらずで、会釈だけは返した。
そして
「パンダちゃん?」
彼女は、血の気のひいたいつもより白い頬をして。
呼びかけた俺の顔をチラリと見て……視線が地面へと落ちる。
「呆れ……ましたか?」
辛うじて聞こえた、囁く声。
「え? なんで? 呆れるって?」
「パパのファン、を装って、コォさんに話を合わせてって」
でも、嬉しかったんです。
必死に訴えるパンダちゃんの垂れ目が、心を揺さぶる。
「初めて好きになった人がパパの……パパたちの織音籠のことを好きで」
あ、その嬉しさは、俺にも解る。
パンダちゃんが“籠の鳥”だと知った時の、頬が緩む感じを思い出す。
甥の俺でも……なんだから、ファザコンと言われるほどの“愛娘”にとっては、桁違いの喜びだっただろう。
「SAKUさんの真似をしてベースを弾くほど、好きなんだって言ってくれて」
「ああ、そういえば……」
スマホに保存してあった写真を彼女に見せたことがあった。学園祭のステージの後で撮った、記念写真ってシロモノで。
さっちゃんを意識して、髪型とか服装とかを真似をしていたことがバレバレの一枚だったっけ。
そんなことを思い出して、気がついた。
俺と雰囲気が似てるっていう、“パパの友だち”。
あれは、きっと。
さ っ ち ゃ ん。