距離を詰めて
『後期試験が終わった』と彼女から連絡があったのは、二月の半ば。
初めてのハイキングの後で話題に出ていた、スケート場に行くことになって。
日曜日のこの日もまた、最寄り駅で待ち合わせる。
改札を抜けてくる彼女に小さく手を振ると、垂れ目が一段と嬉しそうな笑みの形に解けて。
小走りで近づいてくる姿が、愛らしい。
パンダは、こんなに軽やかに走らない。
でも、ルリコンゴウインコなら、きっと
羽ばたき一つで、この距離を詰めるのだろう。
「おっはようございまっすっ」
跳ねる挨拶も、心地良くて。
俺の顔も、だらしなく笑み崩れたのが判る。
「おはよう。今朝も気合、入ってるなぁ」
「はいっ」
コンタクトレンズに、ポニーテール。彼女が言うところの“オンの日”仕様の姿を眺めて。若いなぁなんて、改めて思う。
先月やっと十九歳の誕生日を迎えたって、言ってたしなぁ。
まぶしいような心持ちの俺に、パンダちゃんは
「お地蔵さん、待ちました?」
と言いながら、斜め掛けにした大きめのショルダーバッグのポケットへとパスケースをしまい込む。
「いや。ほんのさっき来たところ」
「え? でも。電車の時間って……」
うん。電車は上りも下りも出たところで。その前、となると、ちょっと間が空いてる。
「俺、バスで来たから」
「あー。そっかぁ。バスかぁ」
スケートリンクとは方向が違うけど、俺もこの駅を最寄り駅として使っているから。普段の通勤ルートは、ここからさらに二駅、西へと電車で移動している。
ちなみに図書館は、東隣の駅からさらに東へと線路沿いに歩いた所に建っている。
「パンダちゃんは、この辺りにくる事ってある?」
北方面へのバスに乗るため、駅前のバスターミナルへと向かう。
「叔父が、この近所に住んでるから……」
「うーんと。お母さんの方の?」
確か、この市の出身みたいな話だったっけ。
「はい。今日のリンクは、ママたちも昔行ったことがあるらしくって、私と妹も子供の時に何度か連れてきてもらったことがあるんです」
その、『ママたち』は、『姉弟で行った』なのか。それとも『夫婦で』って意味なのか。
なんて、わざわざ突っ込んで訊くことでもねぇな。
互いに最近読んだ本の話なんかをしながら着いたスケートリンクは、思いのほか混んでいて。
一昨年のオリンピックで、男子のフィギュアスケートがメダルを二個も取った影響かね? などと考えながらレンタルのシューズを借りる。
仕事で使う軍手以外の手袋を数年ぶりに着けて、男子ロッカーからリンクサイドへと出ようとして、足元の不安定さに妙な力が下半身に籠る。
これは、明日。筋肉痛決定だな。
子供の頃に来たことがあるというパンダちゃんと同じく、俺も中学生の頃に何度か友達とスケートはしたことがあって。
最初こそおっかなびくりで氷の上に立っていたけど。すぐに、勘が戻ってくる。
「お地蔵さん、すごい」
スネークバック程度のことで手を叩いて喜んでくれるパンダちゃんに、ちょっと得意になった途端に尻もちをつくのは、まあ……ご愛敬ってやつで。
お昼を少し過ぎる頃まで。滑っては転んで。笑っては、また転ぶ。
お腹もすいたしと、そろそろ切り上げて。
お昼は、近所にあるファミレスへと向かった。
注文を済ませて料理を待つ間、年末年始に互いが行ったコンサートの話題になった。
俺がスマホに保存していたセットリストを見せると、
「これ、お地蔵さんが?」
「帰りの電車で、忘れないうちにメモった」
うわぁ、と目を輝かせて画面を見つめる彼女は、ブツブツと呟きながら、何やら数えている。
「違うのは、三曲ですね」
「え?」
「神戸のセトリと……」
「覚えてるパンダちゃんが、怖い……」
この差は、やっぱり若さかね?
「神戸で聴く一月の“レクイエム”は、やっぱり別格でした」
「思い入れ、だろうなぁ」
ドラムのYUKIが、神戸出場で。“レクイエム”は、阪神淡路大震災の犠牲者を想って作られた、鎮魂の曲だときく。
だから、CDには収録されておらず、一月のライブでのみ演奏されてきたらしい。俺が高校生だったころからは、三月にも演奏されているけど。
そして、織音籠では唯一、ボーカルのJINがコーラスを担当する曲でもあった。
「YUKI自身も、故郷で歌うってのは、気合とか違うんだろうし」
腕組みをして、しかつめらしく頷いてみせた俺を、パンダちゃんはなぜかじっと見てて。
その目を見つめ返すと、そっと視線が外れた。
「あの、お地蔵さん」
「うん?」
珍しく消えそうな声で呼ばれて。何事かと、思っているところに、料理が運ばれてきた。
「何か、言いかけてなかった?」
チーズハンバーグセットを前に、カトラリーケースに手を伸ばしながら尋ねる。
「あー、食べてからで……」
「そう?」
「は、い」
歯切れの悪い返事に、首を傾げつつも、『いただきます』と手を合わせる彼女にあわせて、俺も食事に取りかかる。
食事の間。
話しかける俺の言葉には、普通に返事をしている彼女だったけど。
ふとした拍子に会話が途切れると、そのまま思案の海へと潜って行ってしまうようだった。
たぶん。さっき言いかけた“何か”が、心を占めている。
そんな彼女の様子を伺いつつ、当たり障りの無さそうな話題で俺の存在を思い出させては、忘れられることを何度か繰り返しているうちに、食後のコーヒーが運ばれてきた。
「お地蔵さん」
ポーションのミルクをコーヒーに垂らしている俺を、パンダちゃんの硬い声が呼ぶ。
その声音に、変な力が肩にはいって。
思わず身構える。
「彼女、とか。居ますか?」
「いや、居ないって」
前にも、こんな会話をしたような……と、思いながら、密かに深呼吸をして、動悸をなだめる。
まさか、まさか。
そんなわけ、ないよな?
期待をしてしまった俺から視線を外して。
彼女は、傍らのショルダーバッグへと手を伸ばす。
そして、中から掌に乗るほどの小さな包みを取り出した。
「遅くなったけど、バレンタインの……」
「俺に?」
「はいっ」
差しだされたチョコらしき包みを、そっと受け取る。
「あの、それで」
「うん?」
動悸が煩くて、パンダちゃんの声が頼りなく聞こえる。
「あの。お地蔵さんのことが、好き、です」
こちら見つめる彼女の白い頬が、朱に染まる。
それを見返す俺の顔も、きっと。
真っ赤だろう。
「お……あ……うん」
動揺のあまりに間が抜けてしまった返事に、パンダちゃんの垂れ目が潤む。
こぼれ落ちそうな涙に慌てて、
「お、俺も、す、好きだから」
何度も噛みながら喜びを伝えると、彼女の口元が笑みの形に綻ぶ。
「じゃあ。あの……付き合ってもらえますか?」
「本当に、俺で?」
いいんだろうか?
「はい。お地蔵さんが……初めての彼氏になってください」
勢い余って三度ほど頷くと、パンダちゃんは
「よかったぁ」
力の抜けた声を上げて、天井を仰いだ。
そして、俺の方へと視線を戻すと、照れたように笑った。
「勇気を出して、やっぱり良かった」
「うん」
俺には、この関係を変えてしまう一歩は、踏み出せなかった。
彼女ほどの、勇気はまだ持てなかった。
それは多分。“今までの経験”っていう、失恋の傷がもたらした痛みの記憶のせい。
「パンダちゃんは、すごいな」
でも。だから。
彼女の若さに、敬意を。
「タネ明かしをすると、織音籠に背中を押してもらいました」
「え?」
さっちゃんたち?
「一月のレクイエムのあと、MCが入るでしょう?」
少しぬるくなったコーヒーに口をつけながら、彼女の話を聴く。
「アレが、神戸ではなくって」
レクイエムのあとでYUKIが、『明日がくる保証なんて無い。後悔するな、行動しろ』って、客席に語りかけるのも恒例のことなんだけど。
「無かったんだ?」
「実際に震災を経験した人達には……」
「うーん」
言い難いか。
「で? 背中を押された?」
「なんか、こう……祖父母も経験したことなんやって、実感がきちゃって……」
ああ、そうか。そうなんだ。
俺自身が赤ん坊の頃の出来事だから、実感は薄い。
生まれてもいなかった彼女には、さらに遠い事柄だっだろう。
でも、確かに。
さっちゃんたちは、リアルタイムで触れた事実で。
パンダちゃんの身近には、その場に居た人達がいる。
「お地蔵さんに気持ちを伝えないままで、次の大地震がきたら……って考えたら、すごく悲しくなってしまって」
「うん」
「そんなことになるのは嫌やと思ったから。帰りの新幹線で、『次のデートで絶対に!』って」
飲みかけたコーヒーに、咽せた。
「ちょっ、デートって……」
まだ、付き合ってなかったのに。この子は……。
「フライングやけど。私の中では、最初のハイキングからずっと、お地蔵さんと会える日は、デートでした」
『お地蔵さんがカレシだと、空想してました』と、首をすくめて笑う。
許す。
フライングだろうが
空想のカレシだろうが
俺が許す。
だって、俺にはもったいないくらい、可愛いんだから。
食事を終えて、伝票を手に会計へ。
財布を出そうとする彼女を制して、支払いをする。
店員の『ありがとぉごさいましたぁ』に送られながら、ドアを開けたところで、
「あの、私の分……」
パンダちゃんが焦った声で俺を見上げてきて。
「まあまあ、出て出て」
こんなところで押し問答をするモンじゃない、と、彼女を促す。
「お地蔵さん、私の分!」
「いいって。気にしなくっても」
「でもっ」
バス停への道すがら、払うの奢るので軽く揉める。
「俺の方が年上だし、働いているんだから」
「お地蔵さん、ずるい。働いてる、だけやったら、追いつけるけど。年下って言われたら……追いつけないじゃないですか」
そう言って、悔しそうな顔で見つめる彼女の垂れ目に、吸い寄せられそうになって。
慌てて、目を逸らせる。タイミング良く、青に変わった信号を渡る。
「お地蔵さんってば」
「うーん」
どうしたもんかねぇ。
このまま押し切られて割り勘ってのは、どう考えても、格好悪い。
学生時代のカノジョにだって、払わせたことはなかっだけに、すんなりとは頷くことのできない俺がいた。
「じゃあ、間をとりましょうよ」
しばらく考えていた彼女が、『良いこと、考えた』って顔で手を打ち鳴らす。
「あいだ?」
「私が学生の間は、奢って下さい。でも、卒業したら割り勘ですよ?」
うーん。
そこが、落としどころ。かな?
「パンダちゃんって」
決まりっ、とか言って笑う彼女を、意外な思いで眺める。
「はい?」
「結構……他人の意見には、流されない方?」
「そうですか?」
「うん」
俺自身、“楽な方”とか“格好いい方”とかに流されてる。
だから、大輝に泣かれたらめんどくさい、とか。友達にどう見えるだろう、とか。
いろいろ考えて、飲み込んできたモノってのが、心の底に沈んでたりする。
だから、簡単に折れるんじゃなくって、折衷案ってヤツを出してきた彼女に
「芯の強さっての、感じた」
その強さに、惹かれた。惚れ直した。
そんな俺の言葉に、パンダちゃんの白い頬が、仄かに染まる。
「パパが、『嫌やったら、ちゃんと言わな』って」
おっと。ここで、パパ参上。
「そっか。パパか……」
「『女の子は、流されとったらアカン。傷つくで』って」
「そんなこと教えられて、ワガママにならなかったってのが………」
奇跡だろ。
いや、“パパの言いたいこと”は、判らんでもないけどさ。
「嫌って言っても、本当にダメなモノは、『ダメ』って言われるから」
「矛盾、してない?」
「意見は、一通り聞いてくれるんです。それで、どうしてダメなのかって」
例えば、予防接種。ママ友達のナースさんまで動員して、説得された、とか。
「動員って……」
「あー、向こうの子とまとめて、ですよ?」
「それでもさ」
「『宿題、嫌』って言った時には、同じパターンで、小学校の先生をしている人が……」
それは、凶悪だ。
夏休みに行った祖父ちゃんの家で、知ちゃんに漢字の書き取りを監督されたことを、思い出す。
アレは、確か。
オフクロとさっちゃんの二人がかりで、小学校の先生をしている知ちゃんにお願いした結果、だったと思う。
それにしても。
「パンダちゃんのママ、顔が広いんだな」
「ママの友達っていうか……家族ぐるみの付き合いなんです」
「それでもさ。二つ返事で、よその子の説得を引き受けてもらうってのはさ。すごいと思う」
率直な感想を伝えたところで、バスが来た。
バスのステップを上がりながら、パンダちゃんの背中を見守るように眺めて。
彼女が両親からうけた躾と、ファミレスでの告白が一つの線で繋がった。
『このまま……になるのが、嫌やった』から、彼女はちゃんと想い伝えてくれた。
そう考えると、腹の底の方から、
感謝の念が湧き起こるのを、感じる。
織音籠と、パンダちゃんのパパ。
サンキュー。
おかげで、
かわいいカノジョができた。