瑠璃の鳥籠 金剛石の鸚哥
年が明けて瑠璃の誕生日が近づいた木曜日。
俺は織音籠のライブに一人で出かけた。
瑠璃も行きたかったらしいけど。
今年は一クラスとは言え三年生の授業も担当している関係で、受験を控えたこの時期はいつもにまして忙しいらしい。とてもじゃないけど、平日の午後に休みなんて取れるわけもなくて、『コォさんだけ、狡い』と膨れていた。
一月恒例のレクイエムのあと、瑠璃のパパが語るMCに耳を傾ける。
『明日が来る保証はない』
父親のその言葉に瑠璃が、互いの関係を変える決心をしてから、早くも五年が経つ。
“明日が来ない状況”になったとき、後悔することは? って、自分の心に問いかけながら、帰りの電車に揺られる。
明日なんて来なくても、後悔しない。
むしろ、時間が止まればいいのに。
そう考えてしまった事実に、背筋が震える。
ヤバい。俺、いま。
何を考えた?
『瑠璃の時間を止めてしまいたい』なんて危うい考えは、厳重に封印する。
翌週には、彼女の誕生日を祝うデートが待っているから。
子供じみた劣等感で、大切な日を汚すわけにはいかない。
「コォさん。最近、何かあった?」
大切なバースデーデートの日。
普段よりも少しだけ落ち着いた雰囲気の中華料理店で、飲茶コースの夕食をほぼ食べ終えたころ。
俺の顔色を窺うようにして、瑠璃が尋ねてきた。
「何って、何? 俺、変か?」
封印したつもりのモノがシッポを出してしまったんじゃないかと、焦りながら冷静を装う。
「半年……くらいかな? コォさんの心の一部分がずっと、何かに取り込まれてるような感じがするのやけど」
『強いて言えば』と、言葉を繋いだ瑠璃に言わせると。
織音籠のライブ直後。
頭や体の中に、彼らの音が渦巻いている時の雰囲気に近いらしい。
「ライブの後やったら、時間が経てば戻るのに。全然、戻らないし」
瑠璃の目が、心配しているとも責めているともとれる微妙な揺れを見せる。
「うーん」
半年っていえば。妃沙羅と出会った辺りから、だよな。
そう考えると、恐らく。多分。
最近、心を占めている悩み事のせいだろうけど。
瑠璃に言ってしまうのは、情けなさ過ぎて。
厳重に、心の蓋に鍵をかける。
沈黙の落ちたテーブルに、デザートのマンゴープリンが運ばれてきた。
「あの……フクロウカフェの日に逢った“カノジョ”のせい?」
心に思い浮かべてしまった顔が見えたかのように、ピンポイントで妃沙羅の存在を指摘されて。スプーンに伸ばした手が止まる。
「あの人、コォさんの何?」
「学生時代の……友人」
「恋人やった?」
「……」
返事に困って、目を逸らす。
「コォさん」
鼻が詰まったような声に呼ばれて、視線を戻す。ヤバい。瑠璃が泣く。
「あの人のこと、ずっと考えてるの?」
「そんなこと、無いから」
ヤバい。
既視感ってヤツに、襲われる。
これ。
十年前の。
妃沙羅の。
二の舞じゃねぇ?
「と、とにかく。瑠璃。ここじゃなくって、部屋で話そう。な?」
「ごまかさないで」
「ごまかしてないから。落ち着いてゆっくり話そう。な?」
マンゴープリンを食う気分でもなくって。伝票を手に立ち上がる。
鼻をグスグス言わせながら、瑠璃も鞄に手を伸ばした。
半泣きの瑠璃を連れて、タクシーを拾う。
タクシーは静かに夜の街を抜けて、俺の部屋を目指して走る。
「コォさん」
「うん?」
「コォさんってば」
「うん」
「コォさん?」
「ああ、うん」
何を言おうとしてるのか、何を答えたつもりなのか。
呼ばれては応えるを繰り返すうちに、毎日利用しているバス停が近づく。
バス停の近くで、タクシーを降りて。
小糠雨の中、傘を並べて、無言で歩く。
冷え切った部屋をエアコンが温めるまでも待たず、
「コォさん」
さっきまでとは違った瑠璃の声が、俺を呼ぶ。
「あの人の何を、考えてるの?」
赤くなった目に、正面から問い詰められる。
「だから。アイツのことじゃないって」
「じゃあ、何? 何がコォさんの気持ちをそんなに、掴まえてるの?」
「……瑠、璃……のこと」
柄にもないことを言ってる自覚が、ためらいを生む。
ためらいが、
瑠璃の何かを刺激してしまった。
「私、みたいな子供は、嫌になった?」
ボロボロと涙がこぼれる。
「いや……」
「どうすれば、大人になれるの? どうなれば、大人なの?」
そういう意味でお前のことを、考えてた訳じゃ……。
「おいっ、待てっ」
不意打ちのように動いた瑠璃に、俺の反応が遅れた。
瑠璃は、その一瞬にテーブルの上に置いた俺の鍵を手にして。
キーホルダー代わりのツールナイフを起こす。
初めての誕生日に彼女へプレゼントした物より、少しだけ俺の使っているヤツの方が刃渡りは長い。
そのナイフがゆっくりと、彼女の首へと向かう。
キレイな瑠璃の髪が一房、床へと落ちる。
「あの人の髪、短かったよね?」
妃沙羅と自分を比べているらしい彼女の手から、もう一房が宙に舞う。
「髪を切れば、大人?」
切っても伸びる髪に、彼女の意識が向かっているうちに止めねぇと。
細面で鋭角なイメージの妃沙羅と、パンダ顔の瑠璃。
このままエスカレートして、顔にでも傷をつけたら……。
「瑠璃は、もう十分に大人だよ」
だから、ほら。ナイフを返すんだ。
「うそ」
ナイフがまた、黒髪を落とす。
「俺を悩ませていたのは、大人になった瑠璃に置いて行かれる怖さだぜ?」
「え?」
「妃沙羅が。アイツが言っただろ? いずれ大人になった瑠璃に振られるぞって」
「……そんなこと。言ってない、と思う」
考え考え答える瑠璃の手が、掴んでいた髪から離れる。
「俺には、そう聞こえたんだよ。どんどん成長していく瑠璃に焦っていたし」
「うーん?」
考えをまとめようとして、少し落ち着いてきたらしい瑠璃を驚かさないように、そっと近づく。
「とりあえず、鍵は返してくれ。な?」
握りしめた手を開かせて、ナイフを取り返して。
取り返したナイフは畳んで、ズボンのポケットへ。
ひとまず椅子に座らせた瑠璃と目を合わせるように、跪く。
「コォさんは、だって。私よりも、ずっと大人じゃない」
「それは、瑠璃の欲目」
「そんなことないもん」
いやいや。惚れた欲目。が、言い過ぎなら、身内の贔屓目。
「あのな。例えば瑠璃は、去年よりも任せられる仕事が増えてるだろ?」
「だって、去年は一年目やったし……」
「そうだな。でも俺の仕事は、瑠璃と出会った頃からほとんど変わってくってさ。就職してそろそろ十年が経とうとしてるのに、未だに平社員のままだぜ? 情けないだろ?」
「ええっと。私、会社勤めのことを、よく知らないから……」
そういえば、周りに会社勤めのヤツは居ないって、聞いたっけな。
「会社にもよるけど。俺の友達には、とっくに部下がいる奴もいる」
雄人がおそらく、仲間内では一番の出世頭だ。
「ソイツに比べたら、俺は落ちこぼれだよ。この先もきっと、出世に縁も無いだろし」
「……」
「俺の仕事なんてさ、運転さえできれば誰にだって」
「コォさん、それは違う」
言いかけた言葉を、瑠璃に遮られた。
「コォさんが、すごいって。私は知ってるもん」
瑠璃の赤く充血した目に見つめられて、目を伏せることも出来ないまま。
「スゴイって、何が?」
「学生やった頃に、私、仕事中のコォさんを見たの」
「マジ?」
思いもよらない事を言われた。
「待合室で隣に座っていた人に『在庫が足りない薬を手配中だけど、まだ届かなくて』って、薬剤師さんが説明してて」
どうやら急ぎの配達で訪れた薬局に、彼女は患者として来ていたらしい。
「そこに、これぐらいの……」
百錠包装だなって、思わせるサイズを瑠璃の手が示す。
「箱を持ったコォさんが入ってきて。中にいた別の薬剤師さんが、受け取ったその箱を持って来て『今。今、届きました。三分くらい待ってもらえれば、お渡しできます』って」
「あー、まあ。それは多分、よくある話だぞ?」
スゴイと言われても、反応に困る。
「まだ、続きがあるの」
とっておきの内緒話の雰囲気で、瑠璃の声が潜められる。
「その人が待っている間に、私もカウンターに呼ばれて」
「うん」
「会計をして貰っている時に、カウンターの内側の会話が聞こえててね」
思い出し笑いが、その頬に浮かぶ。
「『間に合うなんて、さすがは苓草堂さんね』って」
「うちの……会社?」
正式には“苓草メディカル”なんだけど。昭和時代の旧社名、“苓草堂”と呼ばれることも多い。
「『無理を言っても、なんとかしてくれるのよね』って」
それは、頼りにして貰えてるって意味で、いいんだよな?
『医療機関が俺たちに求める“価値”は、いかに早く確実に届けてくれるか、ってことだよ』って。
そういえば、新人の頃に先輩に言われたっけ。
俺は、その信頼に応えることが、できたのか。
「そうか」
「あの頃のコォさん、働きだして四年目くらいやったと思うの」
瑠璃と出会ったのが三年目、だったから……そうなるか。
「あと二年しか……ないのに。私は……」
急に瑠璃の言葉から、今までの勢いが削がれた。
「まだ半人前の先生モドキやから。コォさんには、追いつけない……」
「いや、それは……そもそも仕事の内容が違うわけだし」
「隣に並べてない自分が、嫌なの!」
おお。復活した。
「逆に、追いつけるような情けない男で、瑠璃はいいのか? 六歳上らしい……包容力とか……無いぞ? 俺には」
「要らない」
「は?」
「包容力が欲しくて、コォさんと付き合っているわけじゃないもん」
そう言いきられるのも、如何なものか。
「私は、コォさんが年上だからって理由で、好きになったわけじゃない」
「瑠璃……」
「同じ空気を感じたから。この人とやったら、楽に息ができるって」
「ちょっと待ってくれ」
話の展開に頭がついていかない。
「息ができる、って?」
「仲の良い友達といても、時々、息が詰まるの」
「うん?」
「パパの娘ってことが、どうしても付いて回るの。『YUKIの娘だから。YUKIの娘なのに』って言われる事が、やっぱり有って」
思い出したように、肩で息をつく。
そういえば、何年か前に彼女の高校時代の友人も言っていたな。『あのパパじゃね』とか。
大学進学時の親離れには、そんな生活に嫌気がさした、って事情も有ったらしい。
「それなら、例えばハルやショータが相手でも良いんじゃねぇの?」
むしろ、同じ織音籠の子供って立場なんだから、瑠璃の気持ちは理解しやすいと思う。
「ハルくん達は、“弟”だし」
「あー」
ショータ、報われねぇ。
いや、報われたら、俺が困るな。
「それに、万に一つの可能性で、ハルくんたちと付き合ったとしたら、もっとしんどくなると思うの」
“織音籠の子供”の二乗で、世間の目が厳しくなりそうと、苦笑を漏らす。
たしかに。ショータは、ついこの前まで未成年で。
“悪さ”をしたら、親にとばっちりが行くわけか。
「それで俺? さっちゃんとは適度に距離があるから?」
「コォさんがSAKUさんの親戚ってことを、知らないうちからよ? なんとなく、『この人やったら大丈夫』って感じがしてて」
「何が大丈夫なのか、俺には分かんねぇけど」
「うーん。そこが“同じ空気”ってことなんだけど」
要するに、波長が合ったとしか、言いようがないらしい。
床に座り込んでいる俺のこめかみに、瑠璃の指先が触れる。柔らかい掌が頬を包む。
椅子から降りた彼女が、俺と同じように床に腰をおろした。
「そうして付き合ってみたら、やっぱり。コォさんは、パパの事には拘らなかった」
「まあ。なぁ。YUKIのことを引っ張りだしたら、もれなく さっちゃんがついてくるし」
「コォさんってば、ヒドイ。叔父さんをオマケみたいに……」
瑠璃の目が、笑う。
しかし。瑠璃が俺に求めている価値が、そこにあるなら。
「どっちの方が大人だって、勝負みたいに考えてしまったのが、間違いだったんだな」
成功と失敗を繰り返して、人は成長していくのに。
『アイツに負けた』『コイツには勝てない』って、負けばかりをカウントしすぎた俺は、底知れぬ卑屈の沼に溺れかけていた。
俺も手を伸ばして、一部分だけ短くなってしまった瑠璃の髪に触れる。
せっかくの綺麗な髪が、顎や耳の辺りで不様に切られていて。そんなことをさせてしまった自分の愚かさに、胸が詰まる。
「瑠璃を泣かさないって、約束してたのに。つまらない見栄に振り回されて……ゴメン」
泣かせるどころか、こんな風に自分を損なわせてしまった。
「約束って、誰と?」
「瑠璃のパパと」
いつの間に、パパと……って、驚いた顔をした瑠璃の頭を抱き寄せて、額に軽く口づける。
「今度は、瑠璃と約束する」
「え?」
「俺はもう、誰かよりも大人になろうとするのは止める。自分のペースで進んでいくよ」
こうやって誓うことが、初めの一歩になる。
「置いて行かれるのは、嫌やから。私も一緒に進んで行く」
「うん。瑠璃は、瑠璃のペースで。競争じゃなくって、並んで生きていけると良いよな」
そんな事を言いながら思い出したのは、二人で初めて出かけた、紅葉狩りのハイキング。
若い瑠璃のペースに合わせて、一生懸命に登ったよな。
あの時、俺は大人の男で、瑠璃は未成年の女の子だったから、負ける訳にはいかないって。情けない所は見せられないって考えていたけど。
今は、互いに大人になったから。
この先、調子良く進める時もあれば、立ち止まる時もあるだろう。
自分が遅れたなら、相手の姿を目標に歩き出せばいい。
相手が遅れたなら、手を差し伸べて応援すればいい。
「お地蔵さんと並んで歩くパンダって、面白い絵になりそう」
瑠璃も、出会った頃の事を思い出していたらしい。
懐かしい呼び名が、出てきた。
「ルリコンゴウインコも、仲間に入れてやろうぜ」
先導するように大空を舞うルリコンゴウインコの後、ゆっくりと足を進めるお地蔵さんとパンダを思い浮かべる。
瑠璃が“織音籠の子供”であることは、一生変わらないけれど。息の詰まる“籠の鳥”から抜け出して、羽ばたいていけばいい。
そして俺は、彼女が息をつく場所であり続けるために、歩いて行こう。
「瑠璃」
改めて彼女の手を握りしめ。その眼を見つめる。
垂れ目が、静かに俺を見つめかえす。
「この先、ずっと一生、俺と」
「うん。コォさんと一緒に、歩いていきたい」
「どっちかが、先に死ぬまでだぞ?」
「それは嫌。死んでからも、一緒に進むのよ?」
おっと。彼女に一歩リードされた。
「そうか。その先も……だな」
「私は、そのつもり。コォさんは?」
「よっし。じゃぁ、俺も頑張るか」
俺の答えに満足そうな笑みを浮かべた彼女を抱きしめて、約束のキスをする。
パンダの愛らしさを持つ彼女は、
金剛石の意思で羽ばたいて
俺を未来へと導く。
そんな瑠璃と、数十年の人生だけでなく
死後の時間も共に過ごそう。
出会ったあの日から俺の魂は、
瑠璃の籠にとらわれた
“ 籠 の 鳥 ”
END.




