成長と老化
教育実習だの就職活動だのを精力的にこなして、瑠璃もとうとう社会人になって。
市内の中学校で国語の教員として働き始めた。
「結局、司書教諭にはなれなかったのか?」
彼女が働き始めて最初のデートは、ゴールデンウィーク直前。昼前に待ち合わせて、図書館内のカフェで昼メシなんか食っているけど。
数年前の約束通り、瑠璃は『自分が食べる分は払うから』と言って、俺には払わせなかった。
たいした金額でもないのに、頼ってもらえなくなった寂しさを覚える。
そんな自分の情けなさを隠すように、仕事の話題を出すと彼女は、
「まだ、そこまでは無理」
ホットサンドを手に、ゆるりと頭を振る。
ため息を一つ、つく。
「授業をこなすだけで、精一杯……」
「もう、授業を持ってるのか?」
俺が新入社員だったときは、やっと研修が終わって、簡単なピッキングを倉庫で始めたくらいの時期なのに。
すでに彼女は、一人前の先生だ。
「授業担任だけだし、コマ数も少なめだけど」
「それでも……」
「じゃあ、いつからだったら、いいと思う? コォさんなら」
問われて、答えに困って。ピラフを口へと運ぶ。
せめて、半年間。いや、ダメか。
学年の途中で先生が替わるなんて、よっぽどの理由がないと、ありえない。
「そうか。先生の仕事って、がっちり一年が一つのまとまりなんだな」
俺の仕事は薬価改定にあわせた、二年を一単位でまわっている感覚だけど。
職場によって、カレンダー感覚も違ってくるのだろう。
「でしょう? そんなに悠長に待ってはもらえないし」
それなら新卒を採らずに、講師の経験がある人を採用する方が効率いいって話になってくる。
「今はほら、少子化で学級数がへっているから。先生の数も余裕がないのよね」
いわゆる五教科に、実技の教科を合わせたら、最低十人の先生が一つの学校には必要なわけだけど。それすら微妙な学校もあるなかでは、新人も即戦力だという。
当然、保護者からの風当たりも、相当なものだろう。
そんな話を聞いてしまうと、去年までのようには簡単に出かけることができなくなる。
朝が早いと辛いかな、夜がおそくなると疲れるだろうかって、色々なことを考えてしまって、誘い辛い。
そして、俺の心配を裏付けるように、瑠璃からも遠出をするようなデートの提案が、ピタリと止まってしまった。
互いの部屋に泊まって近場へ出かけて、って感じのデートばかり重ねるうちに、夏が来る。
生徒にとっては長い休みである夏休みも先生は働いているって、当たり前のことを、俺は初めて知った。
そりゃあ、そうか。
夏休みの間も、給料は出てるよな。
前の晩から俺の部屋に瑠璃が泊まった、八月最初の日曜日。
その日も、朝から図書館で過ごす。
互いのペースで閲覧室を巡って、壁際のソファーで落ち合う。
「あ、その話。去年、映画化されてた……」
「棚で出会うのを待ってたんだ」
やっと借りれた、って笑った俺に
「予約をすれば、良かったのに」
右隣に座った瑠璃が不思議そうな顔をする。
「そこまで、必死じゃなかったんだよな。棚で見かけた時に忘れてたら、縁が無かったんだな,って諦められる程度で」
「そう?」
「映像化からのベストセラーってさ、予約が回って来たときには、興味が薄れてることって、ない?」
カウンターで渡されて、『あー、別に読まなくっても……いいかも?』なんて、思うことがここ二年ほどの間に何度かあって。
それなら、読みたくて待っている人に、渡してあげた方がお互いに幸せだ。
「確かに、そうかも。特に、その日に借りたい本が限度いっぱいだったら、ちょっと悔しいし」
三回に一回くらい、貸し出し限度近くまで借りる瑠璃らしい理由で納得しているけど。
そんな彼女も、最近では借りる本の数が減ってきていて。やっぱり仕事が忙しいのだろうかと、心配になる。
「……先生?」
瑠璃の右斜め前から、遠慮がちな声がして。
振り仰いだ瑠璃の顔が、すっと引き締まる。
「どうしたの? 吉田さん。小塚さんも」
どうやら教え子らしい、女子が二人。手を握りあっていた。
「小塚さんが……」
「え、ちょっと。やだ」
「だって、絶対に先生だって、言ったじゃない」
「声かけようなんて、言ってないし」
握った手はそのままで、空いた方の手で器用に叩き合いながら、言い争う二人に、
「二人とも、図書館では静かに」
立てた人差し指を唇に当てて注意する瑠璃は、すっかり先生の貫禄を身につけていた。
「すみませーん」
首を竦めるように謝ったボブカットの子が、声をひそめて。
「ね、先生。カレシ?」
興味津々って顔で、瑠璃に尋ねた。
横目で盗み見た瑠璃が、返事に困っているよう見えて。
「こんなオッサンが彼氏だったら、先生が可哀想だろ?」
咄嗟に口を挟む。
勢いよく振り返った瑠璃の目が、驚いたように見開かれていたけど。
彼女は、否定も肯定もしないまま。
生徒たちを、貸し出しカウンターへと促した。
「教え子?」
「部活動を受け持っている子たちで。今日は、休養日だったから、遊びに来たんじゃないかな」
軽い挨拶とともに立ち去っていった二人のことを話す瑠璃は、俺が途中で口を挟んだことについては何も言わなかった。
『嫌だったら、私はちゃんと言うから』って彼女の信念から考えると、問題なかったのだと思う。
そう考えると今度は、瑠璃が見せたあの驚いた表情が、気に掛かる。
やりとりを思い出して、考えられることは。
彼女が抱く想いと、俺の放った言葉が
思わぬ精度で重なったんじゃないか?
『子どもみたいな女の子なら、誤魔化せるわよね』
かつて妃沙羅に投げられた呪いが、胸を焼く。
付き合い始めた時には十代の学生だった瑠璃も、成人を迎えて、社会人になった。
対等な大人の立場へと、追いついてきた。
六歳の物理的な年の差が縮むことは、永遠にないけど。
彼女と同じだけの成長を、俺の精神はとげたのか?
無駄に年を重ねた、ただのオッサンに、なってはいないか?
内心のモヤモヤを抱えた付き合いに、新たな影が落とされる。
瑠璃の学校は、体育祭の代休だと聞いていた九月下旬の月曜日。
俺は、いつものように昼下がりの道を配送に回っていた。
信号待ちの道路を横切る、カップルを見るともなく眺めて。
こちらに顔を向けた女性に、目を疑う。
瑠璃、だ。
間違いなく。瑠璃だ。
屈託なく笑いながら、男の背中を叩く。
叩かれた男も笑いながら、瑠璃の頭を小突く。
こら。俺の彼女を叩くんじゃねぇ。
苛ついた俺は、信号が変わったことに気づかず、後続車からクラクションを鳴らされて。
慌てて、サイドブレーキを下ろす。
チラリと目をやったサイドミラーには。
男に手を振る瑠璃がいた。
その週末に顔を合わせた瑠璃は、いつもと変わらず。
瑠璃の性格からしても、絶対に浮気なんかじゃないって、自分に言い聞かせる。
いかにも体育会系って雰囲気だったアイツはきっと、同僚か学生時代の友人だったのだろう。
けれども。
一目見た感じで、あの男とカップルに見えてしまったことは、紛れもない事実で。
夜、一人の部屋で歯磨きをしながら、鏡に映った自分の顔と睨めっこをして、ため息を吐き出す。
あの男と並んだ瑠璃を見たら。彼女の教え子は『カレシ?』なんて、わざわざ訊かないだろう。訊くまでもなく、カレシだと判断するに違いない。
俺がカレシに見えなかったのは、三十歳に近くなった歳が邪魔なんだろうなぁ。
せめて俺が、大輝の歳だったら。
瑠璃との差は、半分の三歳。
『年下だからって言われたら、追いつけないじゃない』って、いつだったか拗ねていた瑠璃を思い出す。
本当にな。
年の差ってのは
残 酷 だ。
その年のクリスマスは、瑠璃も俺も都合がつかなくって、織音籠のコンサートどころかデートもできなかった。
一人寂しくコンビニおでんの晩メシを食っているところに、メッセージアプリが着信を告げる。
瑠理は、こんな日に忘年会だって言ってたはずなのに……と、訝しく思いながらスマホの画面に触れる。
『久しぶり』の挨拶とともに送られてきたのは、学生時代のバンド仲間、雄人からのメッセージだった。
転勤で他県に住んでいる彼は年明けの数日間、こっちへ泊まりがけの出張に来る予定らしい。『その時に一度、飲みにいかないか?』ってお誘いに、通勤カバンからシステム手帳を引っ張りだす。
瑠璃と約束している織音籠のライブなんかのプライベートの予定や、新年会や休日出勤なんかの仕事上の都合なんかを考え合わせて……なんとか、行けそうだと返信を送る。
送った返信からさらに、日程をつめて。
[じゃあ、竜星と哲尋にも、言っておくから]
って雄人からの返事に、『まじか?』なんて独り言を言いながら、
[あの二人、来れるのか?]
尋ねる。
竜星は、数年前に年下のカノジョとデキ婚して。飲みに誘っても、出てこなくなっていたし。
俺たちのバンドでボーカルをしていたテッちんは、掛け持ちをしていたもう一つのバンドでのデビューを夢見て歌い続けている。インディーズでデビューしたって噂は聞いていたけど、卒業以来、すっかり疎遠になってしまっていた。
[竜星は、嫁さんが年末から実家に帰ってて。そのまま、二人目の出産までは、独身生活らしい]
[ほー、二人目]
ニヤリ顔のスタンプも、ついでにオマケ。
[って、話したら、テッちんも来るってさ]
久しぶりに、会うことになる友人たちの顔を思い浮かべて。
[じゃあさ、奏音は?]
ドラムだったカナトの名前を出すと、返事にしばらく間が空いて。
[なんかさ……ヤバイっぽい]
声を潜める雄人の姿が、目に浮かぶ。
[怪しげな儲け話に乗せられたらしくってさ]
[はあ?]
『俺も、ゼミの連中からの又聞きなんだけど』って前置きをつけて雄人が言うには。ヤバイ組織に取り込まれたカナトは、詐欺紛いのグレーゾーンを綱渡りしているような状態だとか。
『“絶対に儲かる”って話には、乗るなよ』って、死んだ祖父ちゃんの言葉が頭に浮かぶ。
[伝手をたどって、金づるを探してるみたいでさ。職場に迷惑をかけることを考えたら、カナトには会わないほうが良さそうかなって]
[そう、だな]
金づるになりそうな人物なんか、俺の職場関係では思いつかないけど。
どこからそんな……って、情報がつながってくるのが、人の縁ってやつで。
[それに、竜星は家庭持ちだしさ。テッちんを巻き込んだら、アイツのこれまでの頑張りが、水の泡だろ?]
芸能界に近いテッちんがある種の広告塔なんかに使われた日には、グレーが限りなく黒に近くなる。
それを言えば、直に織音籠と繋がる俺や瑠璃の危険度も相当なもので。
悪ぃ。カナト。
今のお前とは、
付き合えねぇ。




