大人の男 大人の恋人
大人へと背伸びをしたような瑠璃からのキスに、狼の欲望が目を覚ます。
人目が無いのを良いことに、甘い唇を貪って。
息継ぎを知らない瑠璃の、必死に背中を叩く衝撃で、我に返る。
なーにが、初めてなんだから……だ。
何も気遣ってなんかいねぇじゃねぇか。
ばつが悪くなって、抱きしめていた手を離す。
互いの間を、北風が吹き抜ける。
「悪い。ゴメン」
情けなく掠れた俺の声に
「嫌だったら、ちゃんと言うから。私は」
紅い顔をして、軽く息を乱していても、瑠璃は強気で。
「言う暇も、やらなかったのに?」
「言う暇が無くても……言うもん」
「それは……無理じゃねぇかな?」
いくらパパの教えでもさ。
「コォさんなら、きっと」
家へと向かって歩きはじめた瑠璃の手が、探るようにして俺と繋がる。
「言葉として言えなくっても、判ってくれる」
こそばゆい信頼が、繋いだ手から伝わって。
「いやいや。それは、無理って」
嬉しさと戸惑いで、声が上擦った。
二つほど角を曲がったところで、コンビニの明かりが夜道を照らす。
その明るさに、一度押さえ込んだ送り狼が再び暴れる。
「あのさ、瑠璃」
繋いだ手を軽く引いて。彼女を呼び止める。
「今夜、このまま……大人の恋人に……」
なるか?
「今夜はダメ。いや」
想像以上にはっきりとした拒絶を受けて。
残念な気持ちと、同時に『さすが、瑠璃』って、妙な感動を覚える。
感動がナイロンザイルの代わりに、劣情に身を焦がす狼を縛りあげる。
『大人になるのは、バレンタインが過ぎてから。後期試験の後で』って、約束を交わして。
その夜は、別れた。
そして、迎えた二月の半ば。
この辺りでは珍しい雪の夜。
俺の部屋で
瑠璃は
大人の恋人になった。
翌朝、窓の外を通る車の、雪を踏むタイヤの音を聞きながら、健やかな寝息をたてている瑠璃を眺める。
キレイだったよなぁ。
俺の手で大人へと導いた、昨日の瑠璃は。
そして今、俺の腕の中で微睡む彼女が、
かつてないほど、愛おしい。
昨夜のアレコレを思い出しながら、いつぞやの夜に触れていたいと熱望した黒髪を、何度も指に巻き付けては、解ける感触を楽しむ。
鮮やかなルリコンゴウインコに勝るとも劣らない、キレイな瑠璃。
愛くるしいパンダ以上に、俺の心を和ませる瑠璃。
『世界で一番、大切な娘や。泣かすな』って、釘を刺してきたYUKIの想いが、俺の心とシンクロする。
一生、大切にするから。
いつまでも、俺の隣で笑っていてほしい。
彼女と“大人の恋人”になった、その日以来。
俺は、折に触れて二人の未来を思い描くようになった。
二年ほど前、年下の女の子と付き合っていた友人が、拠ん所ない事情で恋人の在学中に結婚したけど。
中学校か高校の先生、できれば司書教諭になりたい、って語っていた瑠璃の夢を、俺は奪いたくない。
だったら、彼女を無事に卒業させるのは、当たり前で。
さらに、就職して仕事に慣れて……って考えたら、結婚できるのは瑠璃が今の俺の歳になる頃、か。
うーん。あと六年。
長い、なあ。
いや、でも。
その六年の間に、結婚資金も貯めなきゃな。
そんな皮算用の真似事をしているうちに、年度が改まって。
ゴールデンウィークの谷間のような平日だったその日、俺は市内の総合病院へと、車を走らせていた。
表通りに面した広めの駐車場は患者用だから、俺たち卸は建物の裏手へ駐車するのが、この病院のルールで。
業者用駐車場で伝票と商品の最終チェックをして、車にロックをかける。
今日の配送先は、検査室。試薬が足りないと、急ぎの発注を受けていた。
正面玄関の自動ドアが開くのを待つ、わずかな暇に首から下げたIDカードの位置を直す。
うん。これでよし。
「皓?」
一歩を踏み出しかけて。呼ばれた名前にたたらを踏む。
玄関脇の喫煙スペースに居たのは
「妃沙羅?」
細い指に火の着いてないタバコを挟んだ、昔のカノジョだった。
「悪い。急ぎの、仕事だから……」
何かを言いかけた妃沙羅に、被せるような言い訳をして。再び開いた自動ドアから、院内へ。
背後に、見てはいけないモノでもいるような錯覚を抱きながら、俺は慌てて待合室を通り過ぎた。
検品を済ませて、検査室をあとにする。
時間にして十分足らずのわずかな間に、妃沙羅が立ち去っていることを、仄かに期待していた俺の耳に
「皓、こっち」
聞きたくなかった声が届く。
すんなりとは、帰れないらしい。
気取られないように吐息を漏らして。声の方を振り返る。
待合室の壁にもたれていた妃沙羅が、ユラリと体を起こして歩み寄ってきた。
病院って場所のせいか、ゆっくりとした彼女の歩き方に不健康な匂いを感じる。
瑠璃の弾むような足取りって、やっぱりいいよなぁ。
「仕事って、配送関係?」
「まあな。妃沙羅は、どこか……悪いのか?」
近くで眺めた彼女の顔には、うっすらと隈が浮いているように見えた。記憶にあるより、かなり髪も短くなっていて。
躊躇いながらも、突っ込んだことを訊いてしまった。
「私? 私はお見舞いよ」
高校時代からの友人が、出産したとか。
「見舞いって……今日は、平日だぞ? お前、働いてねぇの?」
もう結婚したかな? って考えたのは、多分。俺自身が、瑠璃との結婚のことを考えているから、だと思う。
「失礼ね。ゴールデンウィークに休みも取れないようなブラック企業で働いてるあんたと、一緒にしないで」
いや、どっちが失礼だよ。
問わず語りの妃沙羅の近況に、『スゴイな……』なんて、相槌を打つのにも少し疲れてきた。
そろそろいいか、と背を向けようとして、
「皓もバカよね。人の話を聞かないから……」
何かを含んだような声に制される。
「なに?」
もう一度、彼女と向き合う。
「いい年なのに、子供みたいな女の子としか、付きあえないのよ」
「はぁ?」
なんだ、それ。
眉間に皺が寄ったのが、自分でもわかった。
「見ちゃったのよねぇ。鼻の下を伸ばして、若い子と手なんか繋いでるところ」
歌うような抑揚で言われた光景に、心当たりがあり過ぎて。
いつの何を見られたのかも判らず、言い返す言葉を失う。
「誰にでもできるような仕事にしか就けない男でも、一応は大卒だもんねぇ。世間を知らない若い子には、ごまかしも効くでしょうけど。同じ年頃の子には、相手にされないわよねぇ」
嘲りを含んだ声に、腹の底が煮え立つ。
お前が有名企業で働いていようが、カタカナ職のカレシが大きな仕事を任されていようが。
瑠璃を馬鹿にしてもいい理由には、ならない。
真面目に就職活動さえしておけば……とか言っている声を背中で断ち切る。
足早に玄関ドアをくぐった俺は。
小走りに車へと戻った。
その日は、通い慣れた道を間違ったり、工事渋滞にまきこまれたり。
妃沙羅に呪われたような、散々な一日だった。
そんな、後味の悪い出会いがあったことを知らない瑠璃は、相変わらず軽やかに毎日を過ごしている。
デートの会話に、チラリホラリと就職活動の話題が混じり。引退したらしい部活動の話題が、減ってきて。
その年も暮れようかという頃。
「よう、お疲れ」
午前中の定期配送の最終で寄った病院の駐車場で、桐生さんと逢った。
「お疲れっす」
「午前の配送は、まだ残ってるのか?」
そう言いながら配送用バンの中を覗く桐生さん。カーゴスペースがほぼ空なのは、見れば分かるだろうけど。
「ここで、終わりで……」
答えながら持ち上げた、二つのコンテナを足元の台車へと下ろした時に、小さな違和感を覚えて。
無意識に辺りを探った視界の端で、桐生さんの意外と武骨な手が、台車の持ち手から離れていくのが見えた。
コンテナを降ろした反動で台車が動かないように、押さえてくれていた、らしい。
無くても困らない。でも、あると嬉しい。そんな程度の手助けだけど。
こういうことをさりげなくできるのが、かっこいいんだよな。桐生さんって。
「ありがとうございます。じゃぁ、行ってきます」
軽く会釈をした俺に
「終わったら、昼メシ、一緒に行くか?」
お誘いがかかる。
「まさか、奢りで……」
「んー、まあな」
調子に乗った俺に、苦笑気味の声がOKをくれた。
「やりぃ。じゃ、さっさと終わらせてきます」
「ミスるなよ」
「新人じゃないっすよ?」
早く行ってこいって、言葉に送られて、俺は台車を押す手に力を込めた。
納品を終わらせて、互いの車を連ねて向かったのは、国道沿いの豚カツ屋だった。
カウンター席に並んで、サービスランチを頼む。
「嶋田さ、最近、何かあったか?」
ほうじ茶の湯呑みを両手で包むようにして、桐生さんが尋ねてきた。
「えー、何かって、何です?」
「んー、ちょっと不穏な気配が……」
「不穏って……」
「っていうかさ。何かこう……悩んでるか?」
言葉を選ぶようにしながらも、ズバッと核心を射られた気分。
「分かり……ますか?」
「んー、お前って結構、分かりやすい。気分の浮き沈みが」
そう言って桐生さんは、小さく笑った。
「実は、元カノにちょっと前にばったり逢って」
カウンターに置いた湯呑みに添えられた桐生さんの手を見ながら、最近の“悩み事”を吐き出す。
「何? 縒りを戻すとか、そっち方向の悩み?」
「いや、じゃなくって」
って、“そっち方向”の方が、気楽なように思える。
春のあの日。
妃沙羅と出会った直後は、瑠璃を馬鹿にされたと、腹を立てていた俺だけど。
時間が経つにつれて、自分に自信がもてなくなってきた。
瑠璃が社会に出たとき、俺の隣で満足してくれるだろうか。
例えば五年後。
瑠璃やその友人達は、俺よりも重要な仕事をしているかもしれない。
そんな内心のモヤモヤを吐き出している間に、料理が出されて。
箸を取った桐生さんに促された俺は、愚痴を止めて、食事に取りかかった
つけ合わせのキャベツを噛みながら、付き合い始めた頃に瑠璃と約束させられた『社会人になったら、割り勘』って言葉を思い出す。
妃沙羅のカレシならきっと。そんなことは、言われないんだろうな……とか考えて、また落ち込む。
「嶋田はさ、自分の仕事に意味がないとか、思ってる?」
しばらく黙って箸を動かしていた桐生さんに問われて。
「意味がないとは、思わないですけど……。誰でも出来るってのは……」
「誰にも代わることができない仕事って、そもそもあるのか?」
「あるんじゃないっすか?」
「本当に?」
重ねて問うた先輩の、切れ長の目が隣から覗き込んできた。
「例えば,俺がインフルエンザで明日から休んだとしてさ。その間の……一週間くらいか? 俺の担当している医療機関さんと会社とのやりとりが滞るか?」
「えーっと……」
「そんなわけ、ないよな? 課長か近隣を担当している後藤さんか篠原あたりがフォローするだろ?」
「はあ。まあ。そう、ですけど」
「社会なんてさ、そんなもんじゃないか?」
そう言って桐生さんは、味噌汁に口をつけた。
「人間の体でもさ、一つの細胞が死ねば、空いたスペースを隣の奴がさっさと埋めて、そこでまた分裂して……って組織を維持する訳だろ?」
『その仕組みが無ければ、体中が穴だらけになる』と、テーブルに指先で図を書いて説明してくれた先輩の、きれいに切り揃えられた爪を眺める。
そのまま視線は箸を持った自分の手へと、流れて。
朝から段ボールを運んだり、開封したりで荒れた指が彼と俺の差のような気がして。
情けない気持ちで、豚カツを一切れ口へと放り込んだ。
「それから、もう一つだけ、な?」
俺がカツを飲み込むまでの間、同じように食事を進めていた桐生さんが、話を再開する。
「はぁ」
「華やかに見える仕事ほど、実は無くても社会は困らない、かもしれないぞ」
「そうですかね?」
俺の身の回りで最も華やかな仕事をしてるのは、さっちゃん達だけど。
「嶋田は、織音籠って聴いたりするか?」
ピンポイント!
なんで、そこ?
そこに話が行くんですか、桐生さん?
「あ、まあ。学生時代は、ちょっとばっかし……真似事もした程度には……」
黒歴史、再来。
「じゃあ、あのバンドがさ、十……五年くらい前に活動を休止してたのは、知っているか?」
「あー、はい」
「それでも、誰も困らなかった、だろ?」
「……」
瑠璃や知ちゃんたち、家族は困ったみたいだけど。
それは、ここで言うべき話じゃない。
「うちの嫁さんなんかさ、織音籠のヴォーカルが変わったって、思い込んでた時期もあったし」
『ファンが聞いたら、殴られる』と笑いながら、ご飯茶碗を手に取る桐生さんに合わせるように、俺も味噌汁を啜る。
そういえば。桐生さんって、身内に織音籠の関係者がいるような噂を聞いたことがある。
とはいえ、さっちゃんたちの同級生とか同窓生なんかを数に入れたら、この街には関係者なんてゴロゴロしているわけだけだけど。
「じゃあ、ノーベル賞を取るような研究は?」
豆腐を飲み込んで、思いついた反論を投げてみると、
「それこそ。その研究がなくても、世の中は回っていただろ?」
「……研究なんて、意味がない?」
「そこまでは、言ってない。研究があればこそ、の未来は確かにある。でもさ、その研究が成功するまでは? 社会はなかったか?」
『びふぉーあふたーって、こと』って付け足した桐生さんだけど。
「桐生さん」
「んー?」
「もしかして、英語、苦手ですか?」
どうもこの人の発音って、怪しすぎる。
「あ、ばれた?」
小さく笑って目を逸らした彼は、最後に残っていたカツを口へと運ぶ。
頬張ることなく囓り取ったその食べ方も、大人に見えて。
その分、さっきの『びふぉーあふたー』とのギャップが、凄い。
「英語が得意だったら、DIって配属もありかもしれないんだけど。こればっかりは、どうにもならなくってな」
「医薬品情報、ですか」
「海外文献を読むスピードが、仕事レベルでは使い物にならなくってさ」
大学入試で、全英語能力を使い果たしたとか。
「俺にはこなせない業務だけど。DIってのは多分、一般の人は知らない」
「俺も、入社するまで知りませんでした」
「だろ? そんな地味にみえる仕事だけど、医療機関さんからの信頼は絶大だぞ」
ほら、華やかな仕事だけが、社会を回す訳じゃない。
桐生さんは、そう言って。
最後の一口を食べると。
両手を合わせて、食事を終わらせた。




