幼い憧れ
「さくらちゃん、お嫁さん……」
そろっと尋ねた僕に、“叔父”の“さくらちゃん”は。
「ああ、知美。な」
うれしそうな声で目尻にシワを寄せて笑う。
その隣で、僕と弟の大輝を交互に見つめた彼女は
「よろしく。知美といいます」
そう言って、優しい微笑みを浮かべた。
その笑顔に
小学校四年生だった僕は。
初めての恋をした。
出会う前に終わっていた恋を。
“知美”“朔矢”と互いを呼びあう、新婚の叔父夫婦の仲良しさに、泣きたくなるようなモヤモヤした感じを胸に抱えて。
お正月のその日は、トランプやカルタで遊んだり、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんと一緒にお鍋を食べたりして過ごす。
その合間に『次から“さくら”って、呼んだら罰な』って言う さくらちゃんのことは“さっちゃん”って呼ぶことになったけど。
そのどさくさに紛れて、三歳年下の大輝は彼女のことまで“知ちゃん”なんて、馴れ馴れしく呼んでいて。
僕も、そっと真似をしてみる。
「知ちゃん」
「はい。皓貴くん、どうしました?」
「あの……」
呼んだはいいけど、何を言うか考えていなくって。言葉に詰まった僕を知ちゃんは、急かすことなく待ってくれる。
なのに。焦って言葉が出ない僕を押しのけるみたいに、大輝が
「ねえねえ、知ちゃん」
って、話しかける。
「大輝、今は僕の番」
「えぇー。何の順番? 僕、いつまで待つの?」
「うるさいなぁ」
「うるさくないもんっ。僕うるさくなんか、ないもんっ」
「あー。もう。うるさいってば」
ゲンコツでパカパカ殴ってくる弟をパチンと叩き返す。大した力も入れてないのに、大輝が泣き声をあげて。
「こらっ、皓貴っ」
お祖父ちゃんの怖い声に呼ばれた。
『女の子と自分より小さい相手は、叩くな。泣かせるな』ってお説教をされながら、知ちゃんたちを盗み見る。
大輝を膝に座らせた知ちゃんは僕と目が合うと、『ダメですよ』と目だけで叱って。
その隣で胡座をかいている さっちゃんには、呆れたような顔で小さく笑われた。
くっそ。
見てろよ、さっちゃん。
絶対に、さっちゃんよりも
かっこいい大人になってやる。
そんなことを思っていた僕が小学六年生になった、翌年のゴールデンウィーク。さっちゃんと知ちゃんの結婚式があって。
さっちゃんは、“ベース”っていうギターみたいな楽器を弾くところを、僕たちお客さんに見せてくれた。
そして、さっちゃんが織音籠ってバンドで活動している芸能人なんだ、って。僕は、初めて知った。
花婿の衣装を少し着崩してベースを弾いているさっちゃんは、メチャクチャ格好良くって。
一緒に演奏をしている、仲間のおじさんたちも、すっげぇ存在感で。
織音籠みたいな大人に
なれたらいいな
さっちゃんと血の繋がった僕なら
なれるかもしれない。
その日から、さっちゃんの真似をして、自分のことは“俺”と呼び。
見上げるほど背の高い、さっちゃんみたいになるために、苦手な牛乳も飲んで。
高校生になった俺は、さっちゃんの楽器、ベースを練習するために軽音楽同好会に入った。
女子部員の多い部活動のなかで、気の合った五人で織音籠のコピーバンドを組む。
当然、俺はベースで。
「なぁ、カズ。もうちょい音、下げられねぇ?」
「無茶言うなよ。楽器のチューニングじゃないんだぞ」
ボーカルの一紀に注文を出して、睨まれる。
「俺だってなぁ。JINの魅惑のハスキーボイスが、出せるなら出したい、っつうの!」
あんなもん、無理だろ。素人には。
そう言って、半オクターブほど上げて歌うもんだから、演奏するこっちがそのままのコードで弾くのは間違いな……気がする。
「って、どう思う? さっちゃん」
どうにもしっくりこないままの演奏を、さっちゃんに聴いて貰ったのは高校二年の夏休み。
その年のゴールデンウィーク。軽音をしている市内の高校生が集まって演奏を競い合う大会があった。後々の練習の参考にするためにと、自分たちの演奏をハンディカムで録画したやつを、お祖父ちゃんちで さっちゃんに見せて。
せっかく身近にいる“ホンモノ”にアドバイスを貰おうとしたのだけど。
「お前。それは、狡くねぇ?」
サインを書いていた手を止めた さっちゃんは、難しい顔でペンに蓋をして。書き終えた3枚の色紙を軽く、トントンと揃える。
バンド仲間から頼まれたフルメンバーのサインをゲットするのは、さすがに無理だったけど。
友人たちに配る、俺からのささやかな“夏休みのお土産”だ。
色紙を座卓にそっと置いた さっちゃんの左手。ギター胼胝が刻み込まれた指先が、ネックを押さえるように形を変える。
関節の目立つその指が、宙で押さえているのは……今流れている曲のコード。
多分。自信はないけど。
「世の中に、織音籠のコピーバンドがいくつあるのか、知らねぇけど」
「うん」
この大会でも三つほど、織音籠の曲を演奏したバンドがあった。
その中では良い方の出来だったと、自分では思っていて。
だからこそ。もう一歩進むために、アドバイスが欲しかった。
「いまだかつて『教えて欲しい』なんて、頼まれたことねぇぞ?」
「そりゃぁ、まぁ……」
俺だって、さっちゃんじゃなきゃ、訊かないし。
「どのバンドだってさ、自分たちで工夫して、練習するんじゃねぇの?」
「俺たちだって、してるし」
「いいや、してねぇな」
「なんで、そんなこと」
「練習はしてても、工夫はしてねぇだろうが」
バンドスコアをそのまま、なぞってるだけじゃねえか。
そう言って、さっちゃんは座卓に頬杖をついて、俺を見た。
「オレたちの曲は、JINの声に合わせて作ってるわけだけどさ」
知ちゃんが少し前に運んできた麦茶を一口のんで、さっちゃんが話し始める。
「うん」
「初めてあいつがステージで歌ったのは、高校の文化祭でさ。お前たちと同じようにコピー曲だった」
お。初めて聞く、織音籠の歴史、だ。
「歌ったのは、何?」
「アメリカのロックバンドの……」
さっちゃんはそう言って、座卓に置いてあったスマホを手にとって。
学年でまだ一人二人しか持っていないスマホを、当たり前のように扱う姿に、また一つ、『さっちゃん、スゲェ』って思いを積み上げる。
そんな俺の前に、動画サイトから選んだらしい、一つのライブ映像が差しだされた。
「この曲?」
当たり前だけど、英語の歌で。
英語歌詞の曲もある織音籠なら、楽勝なのかもしれないけど。
俺たちの英語力では、真似できない曲が流れる。
「そう。これを高校一年が、アレンジして演奏しててよ」
「……さっちゃん、他人事みたい」
「他人事だっだぜ? 高校生の頃、オレは客席で聴いていたからな」
へぇ。
「じゃあ、最初はさっちゃんじゃない人がベース?」
「いや。高校時代は、ベースなし。ドラムもなし。最初なんて、更にギターもいなかったな」
「は?」
「キーボードとヴォーカルだけのユニット」
「で、この曲? 二人で?」
「そ。すげぇだろ?」
あり得ねぇ。5人編制のバンドの曲を、二人でって。
「才能、って言っちまえば、それまでだけどさ。高校一年生が、それだけのことをやったんだぜ? 誰に教えてもらうでもなく」
「……」
「それに比べたら、お前のやってることって……カンニングじゃねぇの?」
そう言って再びペンを手にした さっちゃんに言い返そうとして。
隣の部屋から聞こえた大輝の叫び声に邪魔された。
なんで、中学生が四歳児相手にチャンバラなんかするかなぁ?
破れた障子の前で正座した大輝が、さっちゃんの息子の暁と並んで二人、お祖父ちゃんに謝っているのを見ながら、さっちゃんの後ろで小さく舌打ちをする。
そのまま、障子の張り替えを始めたお祖父ちゃんの手伝いを、大輝や暁と一緒にする羽目になって。
結局、なにも教えてもらうことはできないまま、さっちゃんの一家は帰っていってしまった。
自宅に帰ってからも、さっちゃんに見せて貰った動画サイトを検索しては、あの曲の再生を繰り返す。
スマホを持っていない普通の高校生の俺は当然、ノートパソコンで……だけど。
うーん。これを、二人でやれって言われたら……。
そう考えては、『無理。絶対に無理』って、結論にたどり着く。
そんな悶々を抱えた俺に、オフクロはあっさりと
「そりゃぁ、“さくら”は、あれでも大卒だし」
なんて、言う。
「え? さっちゃんが?」
「そうよ。織音籠は、全員大卒ね」
そう言って、俺の高校からでは、かなり厳しめのレベルにあたる大学名が出てきた。さっちゃんは、そこの国文学科の卒業らしい。
「マジかよー」
「あー、一人は違う?」
と言って、更にランクが上の、外大が出てくるし。
もう、嫌だ。
なに、その化け物じみた才能は。
さっちゃんたちと自分との、大きすぎる実力差に打ちのめされて、『俺だって、いつかは織音籠みたいに……』なんて夢は、夢でしかないことに気付く。
才能の差、って、言ってしまえば、それまでだけど。
その差は、努力なんかじゃ、埋められそうにない。
諦めを混ぜた憧れは、微妙に拗れた自意識へとシフトした。
自分は織音籠には、成れないけど。そんな“偉大な”人物が、身内にいることに、ささやかな優越感を抱く。
けれども、優越感でメシは食えない。
“織音籠の甥”って肩書きが飯のタネになる仕事なんて、女にたかって生きるヒモぐらいだろう。
そうなったとして。
さっちゃんの呆れ顔しか、浮かばない。知ちゃんだって、悲しみそうだし。
だからといって、両親みたいに美容師になる……のは、無しだ。
小学生の頃に、幼なじみの長い髪の毛が半袖の腕を撫でて。その感触に、ポニーテールの根元からバッサリ切り落としたくなった覚えがある。
あの感触を朝から晩まで、この手に……と考えただけで、怖気がはしる。
そうやって、消去法としてもお粗末なことを考えて。
大学、行くか。って、結論にたどり着く。
出遅れたか、ぎりぎり間に合ったかで始めた受験勉強を、なんとかクリアして。
俺は、さっちゃんの住む街の西隣、鵜宮市で、大学生になった。
「皓貴くんってさ、織音籠のファンだったりする?」
「あ、わかる? 高校のころは、ベースも弾いたりしたんだぜ?」
「やっぱりぃ? 髪型とか、SAKUっぽいもんね」
新歓や合コンの度に女子とかわす、こんな会話にも、夏を迎える頃には慣れた。
「目元かな? SAKUと雰囲気も似てる」
そりゃな。血が繋がってるし。
なんてことは、心の声で。
「そう? 似てる? 実は、ちょっと意識してたりするんだ」
表面的には『サンキュー』と言いながら、ガッツポーズをしてみせる。
さっちゃんとの繋がりを言ってしまうのは、子供じみた自慢だから。
優越感ってのは、独り静かに噛みしめるモノじゃねえのかな?
そうは言っても、さっちゃんをきっかけにして友達が増えるのは、悪くない。
男女を問わず、話のつかみにありがたく使わせて貰って。
誘われるままにワンダーフォーゲル部に入り、それとは別に、高校生活の延長のようなバンドも組む。
そして、学園祭でのステージが話題になったおかげで、クリスマス前には彼女もできて。
まずまず人並みな学生生活を、満喫する。
「今月、ヤベぇかも?」
と、口座残高を見て頭を抱えたのは、二年生になった五月の半ば。
四月にあった前期の教科書購入が、けっこう大きく響いてやがる。
ワンダーフォーゲル部では年度末を挟んで、追い出しコンパだの新歓だのと、飲み会が重なったし。その上、追い打ちをかけるように、ゴールデンウィーク合宿なんてのもあった。
三日前、『講義の参考に……』と紹介された本が、面白そうで。買おうと思って本屋へ行ったものの、値段を見て回れ右。
ATMの前で愕然、っていうのが、今の状態だった。
とりあえず、親からの仕送りもあるから、生活はなんとかできる。
月末の、バイト代が入るまで待って……。いや、次はバンドの方で出費がある予定だし。
来月まで、あの本を待つか?
学校の図書館で借りるか?
翌日、空き時間に行ってみた図書館には……置いてねぇし。
これは、あれだな? 学生に本を買わせる魂胆だな?
読めないとなると、読みたくなる。
なんとか方法はないかと、無い知恵を絞って。
市立図書館の存在に行き当たった。
次の日曜日、さわやかな五月晴れの朝。開館を待って、図書館の玄関をくぐる。
自習室へと向かう受験生らしき連中をやり過ごすように、掲示されている閲覧室の案内図を眺める。
目的の本は……分野的には、中庭寄りの棚かな?
いや、検索機が途中にあるから、そっちを先に使おうか。
調べて、正解。『カウンターに問い合わせ』なんて結果が出てきた。
閉架図書じゃねぇ? これって?
借りれなかったら、無駄足だなぁ。
昼からコンビニのバイトだから、読み切るのは無理だし。
とことん、この本とは縁がねぇなぁ、なんて思いながら、それでもカウンターへと足を運ぶ。
検索機からプリントアウトしたレシートを差しだすと、係員の女性は、
「お呼びしますので、しばらくお待ちを」
と、番号札を差しだして、カウンターの奥へと入っていった。
カウンター横で手持ち無沙汰に待ちながら、なんとなく彼女が入っていった辺りを眺める。
同年代に見えたけど……かなり背が低かったよなあ。
俺自身が、さっちゃんほどには大きくならなかったとはいえ、男子の平均身長は越えているから、女子の頭は目の高さより低い。
そんな女子の身長なんて、どのくらいが普通なのか知らねぇけど。付き合っている彼女や、その友人達と比べて、確実に小さかった感じがする。
「お待たせしました。十二番の方」
カウンターからの呼び出しに、小さく手を挙げて応える。
「こちらで、お間違いないでしょうか?」
示された本を手にとって。タイトルと著者名を、持ってきたメモと照らし合わせる。
ついでに、“禁帯出”の表示がないことも確認して。
そのまま、貸し出し手続きまで済ませる。
新しく作ってもらった貸し出しカードを財布に仕舞おうとして、記入された自分の名前を眺める。
“嶋田 皓貴”と読みやすく揃った彼女の文字には、少し右上がりの癖があって。ちょっと気が強そうな印象をうける。
『書いた文字っつうのはよ、意外とソイツの印象を変えるもんだぜ?』なんて言っていた さっちゃんは、ロックミュージシャンらしからぬ、端正な字を書く。
それに比べたら……意外性は小さい、か。
ただ。“相沢”と書かれた名札を首から下げていた彼女は、小柄ながら、立派に社会人なんだなぁって。
そんなことを考えながら俺は、図書館を後にした。