赤い部屋からの消失
【その1】
「なあ、灰田。ちょっとさ、相談したいことがあるんだけど――お前、赤い部屋のウワサ、知ってるか」
窓の外に広がる、五月のよく晴れ渡った青空とは対象的に、俺に話しかけてきたクラスメイトである弘原海大地の顔は梅雨時の曇り空のようにどんよりとしていた。
「赤い部屋って、もしかして化学準備室のこと?」
「そう、そうだよ」
それなら知っている。ここ、A学院中等部の第二管理棟、三階の奥まったところにある化学準備室にまつわる話。A学院でまことしやかに伝えられている、いわゆる学園伝説のひとつである。
「確か、昔化学準備室で女子生徒が自殺したってやつだよな」
「そうそう。教師と禁断の恋に落ちて心中したとか、同級生からいじめられていたことを苦にして首を吊ったとか。いろいろウワサされているけど」
「その首を吊ったときに使われたのが制服の赤いスカーフだったから、赤い部屋と呼ばれている――だっけ」
「それから、心中した教師とは互いに刃物で刺し合って、準備室が血の海と化したって話もある」
だが、実際はどれも信ぴょう性に乏しいウワサだ。赤い部屋は現在当たり前のように化学準備室として使われているのだし、女子生徒が自殺をしたという事実がそもそも本当なのかどうかも怪しいのである。
「で、その赤い部屋、というか、化学準備室がどうかしたの」
昼休みから怪談話で盛り上がるのかと思いきや、弘原海は何かに警戒するように誰もいない教室をきょろきょろと見渡すと、声をひそめて俺の耳元に口を近づけた。
「なあ、灰田。助けてほしいんだ」
「助ける? 助けるって、一体誰を」
「僕たちをだよ」
「僕たち? よく分からんけど、お前ら何かしたのか」
「違うんだよ。僕はただ巻き込まれただけで――ああ、どうしよう。昨日の今日で、もう一日過ぎちまった」
「話がまったく見えないんだけど」
「のんびり話している暇もないくらいなんだ。灰田、今日の放課後空いているか」
「――空いてるけど、何」
嫌な予感がした。根拠もない直感であるが、悪い勘ほど当たってしまうともいう。
「じゃあ、放課後一緒に化学実験室に来てくれ。そこで話すからさ。なあ、頼むよ。僕たちこのままじゃ」
一度言葉を切って、ごくりとつばを飲み込むような音。度の強そうな分厚いレンズの眼鏡をくいっと押し上げて、彼はふるえる声で告げた。
「このままじゃ僕たち、赤い部屋の亡霊に消されちゃうんだ」
【その2】
放課後。赤い部屋に関する相談を受けた俺は、弘原海大地に引き連れられて化学実験室を訪れた。実験室に並べられた九つのテーブルのうち、黒板側の出入り口にもっとも近い位置に座っていた二人の男子生徒が、俺と弘原海を見たとたんに素早く立ち上がる。
「お前が、ワダの言ってた“相談役”か」
早足で近づいてきたのは、外側にハネた髪を明るい茶色に染めた生徒だ。よくよく見ると、ジャニーズ系の甘い整った顔をしているのだが、耳元にキラリと光るピアスといい髪色といい、どことなく不良感が漂っている。ちなみに、ワダとは弘原海のことらしい。当人が眼鏡をずらしながらこくりと頷いていたからだ。
「灰田、紹介するよ。彼は赤坂克也、そしてそっちのサルみたいな顔のやつが」
「誰がサルだよ。四方隆志、赤坂と同じ二年四組です」
ぺこりと頭を下げた四方隆志は、面長な顔につぶらな両目、少し出っ張った口元が確かにサルを連想させる。
「それで、どうして俺はこんな場所に連れてこられたんだ? そもそも、ワダときみたちは一体どういう関係なの」
「何だよ、ワダ。お前何も話していなかったのか」
赤坂の叱声に、ワダは亀のように首をすくめた。
「だって、赤い部屋から女子生徒が消えたなんて、どうやって状況を説明すればいいのやら」
「女子生徒が消えた?」
思わず素っとん狂な声を上げた俺に、赤坂が値踏みするような視線を送ってくる。
「まったく。じゃあ、時間がねえけど最初っから説明するか」
「あ、それならさ。実際に準備室に入って、準備室で状況を話せば早いんじゃないかな。灰田くんもそのほうが、起きたことのイメージがつきやすいだろうし」
「お、四方ナイスアイデア。たまには良いこと言うじゃん」
赤坂がパチンと指を鳴らした。「じゃあ、自分鍵とってくるわ」と、サル顔の四方はダッシュで実験室を出ていく。どうやら、赤坂は三人の中でもボス的な存在であるらしい。さしずめ、ワダと四方は手下一号と二号といったところだろうか。
「あの、さっき言っていた、赤い部屋から女子生徒が消えたってどういうこと? というか、その消えた女子生徒ときみたちは、どう関係しているんだ」
「ああ、お前、まだ何も知らないんだったな。じゃあ、四方が戻ってくるまで簡単に説明しておくか。ここ、座れよ」
さっきまで陣取っていた席に再び腰を下ろし、椅子を進めてくる。言われるがままに、俺が赤坂の隣、そしてワダが俺の向かいに着座した。まるで秘密の会合でもするかのような、物々しい空気があたりを支配する。
「そもそもの始まりは、俺たちのクラスにいる白雪っていう女子生徒なんだ」
「白雪さん?」
「ああ。白雪姫奈って名前でな。まあ早い話、この白雪がいじめられていたんだよ。見るからに陰気な感じの生徒で、教室の隅っこで背中を丸めて本ばかり読んでいるような奴だからか、クラスの女子生徒数人から退屈しのぎのターゲットにされてたんだ」
「そのいじめって、たとえばどんな?」
「私物を隠されたり、机に落書きをされたり。まあ、いじめにはよくありがちなことばかりよ」
年に数回のいじめ撲滅期間をもうけているこの学院にも、表沙汰にされていない事案が少なからずあるらしい。決して気持ちの良い話ではなかったが、ここは冷静な気持ちで成り行きを聞くことにする。
「で、白雪をいじめている女子生徒ってのがまたクセ者でさ。他のクラスメイトにもいじめを強要するんだよな」
「それはまた」心からの同情を込めて相づちを打つ。
「ロシアンルーレットじゃねえけどさ、クジみたいなもんを作って、二、三日に一回、クラスメイトに順に引かせるの。それで、引いたクジの内容に沿っていじめていく。んで、今回とうとう俺にもその順番が回ってきたんだ」
世界一楽しくないクジ引きである。
「赤坂が引いたクジの内容は、『学院の七不思議になぞらえて、白雪姫奈を怖がらせること』だったんだよね」
ワダの問いかけに、赤坂は苦々しい顔で首を縦に振る。
「なるほど。それでワダが言っていた、赤い部屋の話につながるわけか」
A学院には、冒頭のワダとの会話に出てきた化学準備室、もとい「赤い部屋」の伝説以外にも六つの不思議な言い伝えが存在する。ここでは詳しい紹介は省かせてもらうが、赤い部屋の伝説は七不思議の中でも特にホラー要素が強い話として学院内でも有名なのだ。
「俺が七不思議の中でよく知っているものは赤い部屋くらいしかなかったから、白雪を赤い部屋に閉じ込めることを提案した。女子グループは俺のアイデアに満足そうな顔をしたけど、俺一人じゃどこかでズルをしたり白雪をいじめたフリをして実際には何もしないんじゃないかと心配したんだろうな。俺とよく休み時間につるんでいる四方を共犯に指名したんだ」
「赤坂くんと四方くんがいじめ騒動に巻き込まれたことは分かった。でも、ワダはどう関係してくるんだ」
「僕はね、赤坂と小学校が同じだったんだよ。クラスも四年間同じで、そこそこ長い付き合いなんだ」ワダがなぜか誇らしげに胸をそらす。
「白雪を赤い部屋に閉じ込める計画を立てていたときに、もう一人協力者が必要だと考えたんだ。この計画には、最低三人の手が必要だろうってな。だが、四方がいる手前、他のクラスメイトを巻き添えにするのは気が引けた。で、クラスは違ったけど昔なじみのこいつを計画に引きずり込んだってこと」
赤坂はこともなげに言ってのけた。同情の気持ちを赤坂からワダに移しつつ、今度は赤い部屋について言及する。
「赤い部屋の伝説って、昔学院の女子生徒が化学準備室で自殺を図ったって話だよね」
「そう。けど、その話には続きがあるんだよ」
「続きって?」
「化学準備室では、その女子生徒が自殺をした月に亡霊が出るらしいんだよ。自殺した女子生徒の亡霊が。そして、その女子生徒が死んだ月は、五月なんだ」
「つまり、今月」
赤坂は渋い顔でこくりと頷く。
「女子生徒は、五月の学校がある日、放課後にこっそり化学準備室に忍び込んで自殺したらしい。詳しい理由はよく知らねえけど。それで、その女子生徒が死んだ時間になると、準備室に女子生徒の亡霊が現れて、その姿を見たやつは三日以内にこの世から消されてしまうらしいんだ」
ワダが「時間がない」と焦っていた意味がようやく理解できた。赤坂の話によると、彼らが白雪姫奈を化学準備室に閉じ込めたのはつい昨日、水曜日のことらしい。そこから三日以内となると、タイムリミットは明後日の土曜日ということになる。ここまでの話を頭の中でまとめながら、俺ははっと顔を上げた。
「まさか、きみらが言っていた、赤い部屋から消えた女子生徒って」
「ああ。白雪姫奈のことだよ。俺たちが閉じ込めて鍵までかけた赤い部屋から、あいつは――白雪は、まるで幽霊のように姿を消してしまったんだ」
赤坂は机の角を睨みつけている。ワダの顔色が、心なしか先ほどより青白い。実験室を包む重苦しい沈黙を打ち破るように、四方の「鍵、とってきたぞお」という間延びした声が扉の向こうから響いてきた。
【その3】
「じゃあ、俺たちが昨日実行したことを説明するぞ。まず、昨日の水曜日を決行日に選んだ理由だけど、これは簡単だ。毎週水曜日の放課後に、職員会議があるからさ。水曜日の職員会議は、クラス担であるないに関わらず、全職員が出席しないといけないらしい。もちろん、化学担当の萩もだ。職員会議は、終礼が終わった後の三時二十分から五時二十分の二時間ちょうど。少なくともこの時間、萩は準備室にも実験室にもいない。加えて、職員会議がある水曜日は化学部の部活動もない。決行にはもってこいってわけだ。
ちなみに、俺たちの計画では三時三十分から四時三十分の一時間の間、白雪を赤い部屋に閉じ込めることになっていた。万が一、会議が早く終わって萩が準備室に戻ってこないとも限らないからな」
赤坂、四方、ワダ、そして俺の四人は、実験室を出て化学準備室の前で横一列に並んでいた。実行犯の赤坂は、手に持った実験室の鍵をもてあそびながら淡々と説明する。
「まず、終礼が終わった直後、俺が一階の管理室へ実験室と準備室の鍵をとりに行った。灰田も知っているかもしれないけど、実験室と準備室は、室内にある扉から行き来することができる。そして、この扉は鍵が最初からついていない。俺は、この実験室と準備室をつなぐ扉から、白雪を準備室に閉じ込めようと考えたんだ。ちょいとややこしくなるから、この実験室と準備室をつなぐ扉をX、準備室から廊下に通じる扉をWってことにしようかな」
「準備室と廊下をつなぐ扉Wから、直接白雪さんを閉じ込めようとしなかった理由は?」目の前で閉ざされている準備室の扉を指して、最初の問いを投げる。
「仮に、扉Wから白雪を準備室に閉じ込めたとしてもだ。準備室と実験室をつなぐ扉Xには鍵がかかっていないわけだろ? なら、そこから実験室へと抜けて、実験室の窓から外に脱出できるじゃねえか。窓は普通に内側から鍵の開け閉めができるんだから」
「なるほどね。扉Wから直接閉じ込めるとすると、扉Xから逃げられないようにあらかじめ実験室側から細工をしておく必要がある。それならば、最初から扉Xを通して閉じ込めたほうが、その場で細工をすれば済むということか」
準備室、そして実験室や音楽室といった特別教室はすべて、部屋の内側からは鍵をかけることができない構造になっていた。何でも、かつて特別教室を使っていた教師が、生徒を室内に引き入れていたずらをしようとした事件があったらしい。以来、教師がよからぬことを企まないため、現在のような部屋構造になったということだ。
「話が早くて助かるよ――ええと、どこまで話したっけな。ああ、俺が管理室に鍵を取りにいったところだな。それから教室に戻って、俺と四方で白雪を誘い出して実験室へと向かった。ワダのいる一組は四組から実験室へ行く途中にあったから、そこで合流したんだ」
「ストップ。白雪さんは、どんな理由をつけて誘い出したの? 彼女、仮にもクラス中からいじめの標的にされていたわけでしょ。普通なら警戒しそうなものだけど」
「それもちゃんと考え済みだよ」補足したのはモンキーフェイスの四方だ。
「『萩先生が、白雪さんの靴を盗んでいくのを見た。気になってこっそり後をつけると、実験室に向かっていった。もしかしたら、白雪さんの靴は化学実験室か準備室にあるかもしれないよ』って、白雪さんに伝えたんだ。こうすれば、じゃあ実験室に靴を探しに行かないと帰れないって流れになるでしょ。白雪さんは終礼以降教室から出ていないのは俺がこの目で見ていたし、ウソをついても白雪さんには分からないから」
大した悪知恵だ。半ばあきれながらも、「それで」と先を促す。話の主導権は、再び赤坂に戻ってきた。
「まあ、そんな理由をつけて白雪を呼び出して、実験室へ向かった。実験室へ入る前に、準備室の扉Wに鍵がかかっていることもチェック済だ。そして、白雪は俺たちの話を信じて実験室で靴を探す。一応、俺たちも手伝うフリくらいはしたんだぜ。けど、もちろんそんなのはデタラメなわけだから、靴なんて見つからない。そこで、『もしかしたら、準備室にあるのかも』とそれとなくほのめかして、今度は準備室へと誘導させる」
「よく考えたね」皮肉をこめたつもりだったが、赤坂は涼しい顔で「まあな」とひとこと言うだけである。
「そして、白雪が準備室に入ったのを見計らって、扉Xを締める。扉が開かないように、ドアノブにロープを巻いて固定したんだ。当然、白雪は準備室側から扉Xを開けようとする。四方とワダに扉を押さえてもらいながら、俺がドアノブにロープを巻いたんだ――じゃあ、そのときの様子をくわしく話すとするか」
赤坂を先頭に、四人でぞろぞろと実験室に入る。準備室と実験室をつなぐ扉Xは、回転させるスタイルのドアノブが取り付けられている、ごくごく一般的なものだ。ドアノブを含めて、扉のどこにも鍵穴は見当たらない。実験室から開ける場合、扉を奥に押すことで開く仕組みになっていた。逆に、準備室側から開ける場合は扉を手前に引かなければならない。
「このドアノブにロープを巻いたって言っていたけど、ロープのもう一端はどこに固定するの?」
「それはほら、扉の横。そう、そこにフックがあるだろう」
赤坂が示したのは、ドアノブ側の壁にある大きめのフックだった。フックには、教師が授業でよく使うような指し棒が引っ掛けられている。
「そのフックにロープを通して、扉が開かないように固定したんだよ。フックはもともと壁に埋め込まれているから、ちょっとやそっとの力じゃ抜けることはない」
もはや感心するレベルの入念な計画である。その頭脳を学生の本分で活用すれば良いものを――とは、もちろん本人の前で口にはしない。
「ロープで扉Xが開かないように固定したら、計画の第一段階は終了。白雪は完全に赤い部屋に閉じ込められたってわけだ。少なくとも、俺はそう思っていた」
苦虫をかみつぶしたような顔になる赤坂。手下二人は不安そうな表情で互いを見合っている。
「白雪さんを閉じ込めた後、三人はどうしたの」
「準備室の外から、白雪が泣き叫ぶような声で『助けて』って言いながら扉をガチャガチャいわせたり激しく叩いたりしている音が聞こえてさ。思わず立ち止まって、五分くらいか、聞き耳を立てていた。もちろん悪いことをしている自覚はあったし、俺らも好きであんなことしたんじゃねえからさ。できることならすぐにでも出してやりたかったけど、教室にはいじめグループの女子も残っていたからな。結局、そのまま教室に戻って、一時間待機していたよ」
「白雪さんが助けを呼ぶ声を、他の生徒や教師が聞くことはなかったのかな」
「ここは、管理棟の中でも人気がないエリアだからなあ。教師はほとんど職員会議に参加している最中だったし、化学部のやつらも会議がある水曜日は活動しないことなっているみたいだからね。まあ、そこまで見こした上で、赤坂も昨日を実行日にしたわけでしょ」
眼鏡をくいっとおし上げるワダの言葉に、赤坂は無言で頷く。白雪姫奈にはがぜん不利な状況であったわけだ。だが――
「白雪姫奈は、準備室から姿を消した」
独り言のように言うと、赤坂が「くそっ」といまいましそうに悪態をついた。
「赤い部屋の呪いだって? ふざけるな。どうせ、白雪が俺たちをおどろかせるためにやったに違いないんだ」
「それで、さっきの続きだけど。一時間経った後、三人はもう一度準備室へ行ったんだよね」
「ああ。ワダも一緒に四組の教室で時間をつぶして、ちょうど一時間後にな。じゃ、入ろうぜ」
鍵のかかっていない扉Xのドアノブに、赤坂は手をかける。何の抵抗もなく、扉はあっけなく開かれた。提出物を届けるときや特別の呼び出しがない限り、生徒は準備室への立ち入りを禁じられているが、緊急事態ということで自分の良心に目をつぶることにする。
「まず、俺が準備室の鍵を開けて中に入った。てっきり、部屋の隅で丸くなって泣きじゃくっているかと思ったんだが、部屋をどれだけ見回しても、白雪はどこにもいなかった。四方とワダも続けて準備室に入ってきて、やっぱり白雪がいないことに驚いていた」
「文字通り、人っ子一人もいなかったんだ」
四方が両目をぎょろりとさせ、ワダもせわしなく眼鏡をおし上げている。
「それから、実験室の鍵を開けた。そこに白雪がいればまだほっとしたんだが、そこにも白雪の姿はなかった。血眼になって探すってこういうことか、ってくらい、三人で探し回ったよ。だが、結局白雪を見つけることはできなかった」
「扉Xから脱出した形跡は?」
「もちろん確かめたさ。だが、ロープはしっかりと固定されたままだった。俺が結んだときのままで、引きちぎられた様子も、一度ほどいて結びなおした様子もなかった」
「赤坂のロープの結び目って独特だからさ。結びなおされたら分かると思うよ」
ワダが付け足した。小学生来の仲らしい指摘である。
「ふむ。つまり、ミステリ小説なんかでいう、いわゆる密室状態の準備室、もとい赤い部屋から、白雪さんは煙のように姿を消してしまったというわけだね」
「そういうこと――なあ、灰田。女子グループやこいつらは『赤い部屋の亡霊に呪われたんだ』『このままじゃ三日以内に消されてしまう』とかほざいてやがるが、俺はそんなこと信じたくねえ。まったくもってアホらしい」
こいつら、の部分で、赤坂は手下二人をくいっとあごで指す。
「だが、白雪がどうやってこの部屋から抜け出したのか、それが分からないことにはどうにもむずかゆいままだ。こんなこと、まったくの部外者に頼むのも忍びないことだが、俺たちにはさっぱりお手上げだ。どうか、この事件の謎を解明してくれないか」
茶髪頭が、深々と下げられた。ボスに習い、手下一号と二号もひょこりとお辞儀をする。俺はというと、準備室の窓から見える、徐々にオレンジ色に染まり始めた夕空をぼんやりとながめていた。
【その4】
赤坂、ワダ、四方の三人組が去った準備室には、俺一人だけが残されていた。実行犯からあらかたの話を聞かされたわけだが、安楽椅子探偵ではないのでもう少し調査を進めてみないことには、謎を解きようもない。だいたい、俺に相談をもちかけた理由が「去年の文化祭のクイズ大会で優勝していたから、今回の事件についても何か良い解決法を教えてくれる気がした」とは。そんな理由で人間消失の謎ときを頼まれるようであれば、全国クイズ大会に出場する学生たちはホームズ顔負けの名探偵ということになるではないか。
「っと、そんなことを考えている場合じゃないな。萩先生もいつ戻ってくるか分からないし」
ちなみに、化学担当の萩先生は、放課後に必ず校外の喫煙所で一服する習慣があるらしい。その間に、手早く調査を済ませなければならなかった。
赤い部屋という気味の悪い呼び名がつけられているが、化学準備室に取り立てて奇妙なものはない。廊下に面する扉Wを南とすると、グラウンドに面する窓は北側にある。窓のすぐそばにはスチール製のデスクが置かれており、実験室へ通じる扉Xはデスクの右側にあった。デスクの左、西側の壁には横幅が二メートルほどの棚が設置されており、実験に使う道具や名前も分からない薬品などがずらりと並んでいる。棚にはガラスの扉がついており、この棚の鍵は担当の教師しか所持していないらしいと、以前耳にしたことがある。準備室の扉に内側から鍵がかけられない以上、このくらいのセキュリティは許されるべきだろう。
南側の扉Wは、二枚重ねで引き戸の仕組みになっている。出入りに使わない片側には、ホワイトボードが置かれていた。ボードの横には、丸めて筒状になったものが立てかけられている。ちょっと気になったので、慎重にゴムを外して広げてみた。
「何だ、元素記号の表か」
ナトリウムやらカルシウムやらの元素記号がずらりと並んだ、あの表である。授業で黒板に貼り付けるためか、やたら横に長い表だ。横幅だけでも成人男性の身長くらいの長さがあるかもしれない。特に事件解決につながるものでもなさそうなので、丸めなおしてそっと元の位置に戻しておく。
「うん――?」
元素表を戻そうとして、ホワイトボードの後ろをふとのぞきこんだ。ドアの端に立てかけられていたそれに手を伸ばして、しげしげと眺める。
「これは、竹刀だな」
竹刀とは、剣道の試合で使われる、文字通り竹製の刀である。はて、化学の萩先生は剣道部の顧問だっただろうか。部活動無所属の俺には、すぐには思い当たる節がない。
「剣道部じゃないとすると、先生の趣味か? けど、だからってどうしてこんなところに――」
「誰だい、準備室に勝手に入った不届き者は」
突如かけられた声に、「おうっ」とついおかしな声を発してしまった。振り返ると、実験室に通じる扉から顔をのぞかせ、縁なし眼鏡をかけた男性がにやにや笑いを投げかけている。
「は、萩先生。いつの間に」
「てっきり実験室の鍵を閉めて出かけたと思っていたんだけどね。戻ってきたら、実験室の扉がわずかに開いているじゃないか。まったく、近頃の生徒は好奇心が強すぎて困っちゃうよ」
大して困ったような顔でもなく、むしろどこか楽しそうな笑い声を上げながら、萩先生は準備室に入ってきた。手には茶革のケースを提げている。一服するには道理で時間が長いと思っていたのだ。煙草ついでにどこかへ出ていたのかもしれない。
「いえ、あの。俺は決して何かを盗んだり、その、やましいことのためにここに入ったのではなく」
「まさか、今度の定期テストの解答をこっそり盗み出そうとしていたのかい」
「いいえ。めっそうもない。そんなことをしなくても、俺、化学はむしろ得意教科なので大丈夫です」
変な意地を張ってしまったが、萩先生は肩を揺らしながら大笑いする。
「そうかいそうかい。きみ、あまり見かけない顔だね。私の受け持ちクラスではなさそうだ」
「ええ。実はちょっと、頼まれ事がありまして」
「ああ、誰かに頼まれて、しかたなくテストの解答を盗みに入ったんだね」
「だから、違いますって。赤い部屋消失の謎を、解明しにきたんです」
おっと、つい口を滑らせてしまった。萩先生の耳が遠いことを期待したが、俺の言葉はしっかりと彼の耳に入ってしまったようだ。
「赤い部屋消失? それはちょっと聞き捨てならないね」
化学教師は眉を器用にくいっと上げると、なぜか棚の中からコーヒーメーカーと電気ポットを取り出した。デスクの横に立てかけていたパイプ椅子を広げ、手のひらで示す。
「まあ、立ち話もなんだからさ、ここに座りなよ。コーヒーは大丈夫? そう、中学生にしては大人の味覚だね――ああ、ところできみ、名前は?」
一応中学生ということに気をつかったのか、萩先生砂糖とミルクをふんだんに入れたコーヒーを出してくれた。先生はブラックコーヒー入りのマグカップを傾けながら、時折小さく相づちを打って俺の話を静かに聞いている。
「ふうん。この準備室でそのような残念な出来事が起きていたとは。世も末だね」
一通り話し終えると、先生はマグカップの縁を指でなぞりながら苦笑いを見せた。
「はい。ただ、さすがにこの話を聞いて気味悪く思ったのか、白雪さんをいじめていた女子生徒は、今日は白雪さんに何もしていないそうですよ。むしろ、まるで幽霊でも見るかのような視線を彼女に送っているとか。これは赤坂たちから聞いたことですけど」
「ある意味、白雪さんに対するいじめが止まるかもしれないってことか」
「いじめによっていじめが止まるっていうのも、何だか皮肉めいていますけどね――あの、先生」
「何だい」
「俺、ひとつ考えたことがあるんです。白雪さん消失の謎について。大した根拠があるわけではないんですけど」
「いいよ、気になることがあれば口にすればいい」萩先生はにっこりと微笑む。
「実は、白雪さんをこの準備室から助け出したのは、萩先生。あなたではないかと、最初は思ったんです」
「随分と直球を投げてきたね。どうしてそう思ったのかな」椅子の背もたれから体を起こし、指をクロスさせた手を膝に置く。生徒をどうこう言えたものではない。先生も赤い部屋の事件に並々ならぬ好奇心を抱いているのだ。
「さっき、一階の管理室に行って、昨日の鍵の貸し出し名簿を見てきたんです。確かに、昨日の終礼が終わった三時五分、赤坂が化学準備室と実験室の鍵を貸し出していることが記録に残されていました」
「彼の証言の裏をとった、ってことだね」
「それもあります。けど、俺はもうひとつ確かめたいことがありました」
「ははあん。つまり、私が白雪さんの消失を手伝った犯人ではないか、ということかい」
「ええ。ここで重要なのは、管理室には二種類の鍵があるということです。ひとつは、生徒にも先生にも貸し出しができる、準備室と実験室が別々になっている鍵。そしてもうひとつは、準備室と実験室の鍵がセットになっている鍵。これは、教員だけが借りることができるもので、生徒には原則貸し出すことができません。そして、この準備室と実験室の鍵がセットになっているものが、昨日は終日貸し出されていたんです。名簿に書かれていた名前は、萩先生――あなたです」
「しかし、灰田くんの話では白雪さんがここに閉じ込められたのは、昨日の三時三十分から四時三十分の間ということだったよね。そのとき、私は職員会議に参加していた」
「そうです。ですから、次に俺は職員室に向かいました。昨日の職員会議にはほとんどの先生が参加していたから、近場にいた先生にてきとうに声をかけて、昨日の会議中に少しでも席を立った教員はいなかったかと訊ねたんです」
「まるで探偵みたいだね」
「止めてくださいよ――で、結果はすぐに判明しました。昨日の会議で、一瞬でも席を離れた教員は誰一人としていなかったと、その先生は証言してくれました。ランダムに話を聞いた先生が、たまたま萩先生と共犯関係にあったという可能性は限りなく低いです」
甘すぎるくらいに甘いコーヒーを飲み干し、「ごちそうさまです」と空になったマグカップを先生に差し出した。
「ですが、だからといって萩先生が今回の事件に百パーセント無関係かというと、まだ断定することはできません」
「ほう、どうして」
「たとえばですけど、萩先生が所持していた準備室と実験室がセットになった鍵が、何らかの理由によって白雪さんに渡されていたとしたら?」
縁なし眼鏡の奥で、優しそうな両目が大きく見開かれた。おや、勘任せに出た考えだったが、意外と良い所を突いているのだろうか。
「それは、何か根拠があってそう思ったのかい」
「あ、いえ。正直、勘ですね。この学校、生徒と教師が実は遠い親戚だったってこと、結構聞くので。萩先生と白雪さんがそうだったとしても、別に不思議ではないかと思いまして」
「はは。なるほど、勘ね――前言撤回するよ、きみは探偵よりも刑事が向いている。なぜなら、刑事の勘という言葉はあっても、探偵の世界では勘というものは信用できないからだ。少なくとも、推理小説の中ではね」
回転式の椅子をくるりと回して、先生は俺に背中を向けた。気を悪くさせたのだろうかと心配していたが、何のことはない。二杯目のコーヒーを淹れていただけだった。
「灰田刑事の勘は、半分当たりで半分はずれ、といったところかな」
「どういう意味ですか」
「白雪くんはね、昔、近所同士での付き合いがあったんだよ」
「昔?」
「私が引っ越してからは、あまり連絡も取らなくなったけどね。そうだな、彼女が小学五年生に上がったときくらいだったか。かれこれ四年近くも前のことだ」
化学教師の目が、遠い過去を懐かしむように細められた。何かを思い出すときの癖なのか、白いものが混じった頭髪をゆっくりと片手で梳きながら。
「だから、白雪くんとは血縁関係はないけれど、まあ、歳の離れた幼なじみっていうのかな。二周りも離れていちゃ、むしろ親子みたいなものか」
「それで、俺の予想は半分当たりで半分はずれということですか」
「そういうこと」
「まあ、どちらにしろ、先生と白雪さんが実は既知の仲だからといって、そこからどのような経緯で鍵の受け渡しが行われたのかという推測はできないわけですけど。仮に、萩先生が白雪さんからいじめの相談を受けていたとしても、次のいじめの内容が化学準備室に閉じ込められることだとは分からないわけですし――ところで萩先生」
「何だい」
「先生は、剣道部の顧問をしていますか」
「剣道? ああ、もしかしてさっき竹刀を見ていたのは」
「はい。俺、部活に入っていないんで、誰がどの部活の顧問とか、全然知らないんですよ」
「答えは、ノーだ。あれはね、ただつっかい棒として利用しているだけなんだ」
「つっかい棒?」
萩先生は「よいしょ」とじじ臭いかけ声で椅子から立ち上がると、扉に立てかけていた竹刀を手に取る。
「ほら、この学院の準備室って、内側から鍵がかけられないでしょ。過去の教員の不祥事でね。けど、私は仕事に集中したいときに、他人に訪ねられるとどうにも気が散ってしまうんだ。だから、鍵をかけられない代わりにこれをつっかい棒にして、外から扉を開けられないようにしているわけ」
扉をふさいでいたホワイトボードを、棚側に寄せる。引き戸形式になっている扉だから、確かに片方の扉に斜めに設置しておくと、鍵をかけなくても外側から扉を開けることはできないのだ。客を入れたいときはつっかい棒を外せばいいだけなので、鍵をかけるよりも楽なのかもしれない。
「なるほど。原始的ですけど、妙案ですね」
「でしょう。他の先生にもね、密かに広めているんだよ、この方法。竹刀でなくとも、代わりになるものはいくらでもあるしね。ある先生なんて、布団たたきをつっかい棒にしていて『これは便利だ』って感動していたくらいだ」
竹刀とホワイトボードを元の位置に戻した先生は、腕時計に目を落として「おや」と声を発した。
「もうこんな時間だ。さて、私はそろそろ雑務を片付けて帰り支度とするかな」
「あ、そんな時間でしたか」
時計も携帯電話も持参していないので、時間の感覚が鈍っていたようだ。準備室の窓が、鮮やかな緋色に染まった夕空を一枚の写真のように切り取っている。
コーヒーの礼を言って、準備室を後にした。結局、はっきりしたことは三つだ。萩先生には、昨日の事件に関する鉄壁の不在証明があったこと。白雪姫奈とかつて近所付き合いの関係があったこと。そして、先生から白雪姫奈には準備室の鍵や実験室の鍵は渡っていないこと。これらが示すことは一つ。萩先生は、今回の消失事件に関与していないということだ。
一階の下足場にたどり着いたとき、ふと、図書室に寄ってみようかという気まぐれが沸き起こった。これも、勘というやつだろうか。まだ下校時刻ではないものの、白雪姫奈が図書室にいるという根拠はない。強いて言うならば、二年四組の靴箱をそっと探ったところ、彼女の靴がまだ残されていたから校内のどこかにはいるのだろう、というくらいか。ちなみに、この学院の靴箱は自分の苗字が印刷されたプレートを靴箱にはめ込むことになっているのだ。
回れ右をして、小走りで階段を駆け上がる。図書室は、化学準備室や実験室がある管理棟の二階だ。果たして、白雪姫奈はそこにいた。夕陽が差し込む窓辺の席で、一人静かに本を読んでいた。生徒の数はまばらで、テーブルに座っているのは彼女を入れて三人だけだ。まさか白雪姫奈の隣に座り「やあ。ちょっと昨日の赤い部屋消失事件について調べているんだけど」と声をかけるわけにもいかない。まるで片思いの相手を遠くから眺める初心な少年のように、てきとうな本棚に身を隠してそっと様子を伺うことにした。
黒く艶やかな髪がまっすぐに垂れ、横顔を覆いつくしている。時折ページをめくる手は雪のように白い。ぴんと伸びた背中にも美しい黒髪が流れ、彼女のシルエットを温かな夕焼けの明かりが包み込んでいた。
白雪姫奈の手が、耳元に垂れた髪をすくった。なめらかな曲線を描いた、儚げな横顔があらわになる。
――その動きを見たとき、頭の奥で何かが小さく弾けた。扉をふさいでいたホワイトボード。つっかい棒代わりの竹刀。丸められた元素記号表。貸し出された準備室と実験室の鍵。そして、赤い部屋から姿を消した少女。
下校をうながす音楽が、遠くから聞こえてきた。白雪姫奈が、ゆるりと顔を窓に向ける。その耳元で、キラリと小さく光るものがあった。
【その5】
白雪姫奈が赤い部屋から謎の消失を遂げて、二日が明けた金曜日。放課後。
化学準備室と実験室の鍵を管理室から借り出した俺は、赤坂克也を準備室に呼び出した。本来、今日の放課後は化学部の活動時間なのだが、萩先生に無理を言って部活動を休みにしてもらったのだ。
「白雪の消失の謎が解けたって、本当か。灰田」
準備室に飛び込むなり、赤坂は俺につかみかかるような勢いで近づいてきた。
「ああ。まあ――そう焦るなって。心配しなくても、白雪さんが赤い部屋から消えたのは決して亡霊の仕業なんかではなかったんだ」
赤坂にパイプ椅子をすすめて、俺はというと安楽椅子探偵を気取って萩先生の回転椅子に体を沈めた。呼び出された相手はけげんな顔でこちらをじっと見つめている。
「で、白雪はどうやって赤い部屋の密室から姿を消したんだ。どんなトリックを使ったんだよ」
「トリックなんて、彼女は何も使っていない」
「え?」
「むしろ、彼女は与えられた筋書きに従っただけなのさ」
「小難しい例えを使うなよ」赤坂は苛立たしそうに貧乏ゆすりを始める。
「つまり、白雪姫奈には共犯者がいたんだ。彼女はその共犯者によって、一見密室とも思える赤い部屋から見事に脱出して、いじめの対象から逃れようとした」
「いじめから逃れる? 赤い部屋から脱出することが、どうしていじめられないことになるんだよ」
「現に、白雪さんは赤い部屋から消失して以来、いじめられていないんだろ?」
「ま、まあ。今日も、特に誰かが白雪にちょっかいを出すようなことはなかったけど」
「それが、共犯者の一番の狙いだったんだよ」
「狙い?」
「そう」
「意味が分からねえな」
赤坂はきっと睨みをきかせる。俺は回転椅子から背を離し、茶髪に見え隠れする彼の右耳に視線を定めた。窓から差し込む陽の光を受けて、銀色のピアスが鈍い輝きを放っている。
「じゃあ、事件当日の共犯者と白雪さんの行動を、最初から説明しようか。もちろん、今から話すことはすべて、憶測の域を出ない内容であることは先に言っておこう。
まず、共犯者は一昨日の放課後、管理室へ化学準備室と実験室の鍵を借り出しにいった。そして、その足で向かったのは、自分の教室ではなく化学準備室だ。準備室の鍵を開けて中に入った共犯者は、準備室で萩先生がつっかい棒の代わりにしていた竹刀を手にとって、準備室の扉に竹刀を斜めに挟んだ。共犯者は、白雪姫奈からあらかじめ竹刀の存在を聞きだしていたんだろう。あるいは、たまたま準備室に用があったときに、竹刀を目にしていたのかもしれない。いずれにせよ、犯人は竹刀をつっかい棒にして、外から準備室の扉を開けられないようにしたんだ。そして、準備室の鍵を準備室の中に残して、準備室と実験室をつなぐ扉から、実験室へと抜け出した。最後に、実験室の鍵を外からかけて、下準備は完了。共犯者がしたことはたったこれだけで、時間にすれば五分とかからない。けど、この下準備こそが、白雪姫奈に謎の消失をさせるためのトリックだったんだ」
赤坂は、顔色ひとつ変えないまま、そして表情ひとつ動かさないまま俺を真正面から見据えている。
「次に、共犯者は何食わぬ顔で自分の教室に戻って、白雪姫奈を口巧みに実験室へと誘い出す。もちろん、どんな理由を聞かされたところで、白雪姫奈は誘いに応じただろう。最初からそういう筋書きになっていたんだからね。
実験室で靴を探したのも、白雪姫奈と共犯者にとっては演技だった。そして、これも筋書き通りに白雪姫奈を準備室へと誘導させる。準備室と実験室をつなぐ扉から彼女を準備室に閉じ込めて、三人はロープで扉が開かないように細工をした。はたから見れば、白雪姫奈は何も分からないままに準備室に閉じ込められたかわいそうな被害者だ。だか、視点を変えて見るとどうだろうか。外からしか開かないと思われていた準備室には、実はつっかえ棒が立てかけられているだけで鍵なんてかかっていない。そして、準備室には準備室の鍵が用意されている。ここで、白雪姫奈に与えられたミッションとは? 簡単だ。準備室に閉じ込められ、赤い部屋の伝説に怯える哀れな少女を演じるだけでいい。共犯者を含む三人組が教室に戻ったことを確かめると、白雪姫奈はつっかい棒代わりの竹刀を外して準備室の扉から廊下に出る。最後に、用意されていた鍵で準備室に鍵をかけてその場を立ち去る――どうかな。これで、赤い部屋は完全な密室となる。白雪姫奈と共犯者以外の目には、“白雪姫奈が幽霊のように赤い部屋から消失した”と映るんじゃないだろうか」
「おいおい、待てよ。今の灰田の話をまとめると、まるでその共犯者ってのが俺だと言いたそうじゃねえか」
「ああ、そうだよ」きっぱりと、目の前の相手に向かって言い放った。
「トリックを使って白雪姫奈を消失させ、赤い部屋の伝説を利用し彼女をいじめから救い出そうとした犯人は、きみだよね。赤坂克也くん」
【その6】
「一番引っかかったのは、つっかい棒になっていた竹刀とホワイトボード、そして元素表でした」
「元素表?」
「萩先生は、元素表を縦長に丸めていましたよね」
「ああ。それがどうかしたの」
「ワダに確認したんです。準備室で白雪姫奈を探していたとき、元素表がどうなっていたのか。彼は、棚のところに立てかけられていたと言いました」
「私もそうしているが?」
「次に、俺はこう訊きました。『その元素表は丸められていたか。丸められていたとしたら、筒状になったその元素表は長さが短かったか、それとも長かったか』とね」
「――それで、ワダくんの答えは?」
「『短い筒状に丸められていた』――彼は、そう言いました。
最初は、それがどうして頭に引っかかったのか、俺もよく分かりませんでした。けど、さらにワダへの質問を続けたとき、準備室のある状況を想像することができたんです」
「ある状況?」
「元素表は、横長に記号が並んでいますよね。縦に九列、横に十八列だ。どうしたって横長の表になります。あの元素表の縦と横の長さを測ってみると、縦が百二十センチ、横が二百十センチでした。そして、ホワイトボードの横幅は百二十五センチ、高さは百七十五センチです。ええ、そうです。元素表の縦部分をホワイトボードの横幅に合わせて貼ると、ちょうどホワイトボードを覆うような形になるんです。下がちょっと余ってしまうくらいですね。
では、これが意味することとは何でしょうか? たとえばです、もし、白雪姫奈を準備室に閉じ込めようとしたときに、白雪姫奈以外、正確には、白雪姫奈と共犯者以外の誰かが準備室に入ったとしたら? そのとき、扉に挟まれているつっかい棒の存在に気がついたら? すべての準備は水の泡になってしまいます。たとえ見た瞬間にトリックと結びつかなくても、俺に話をするときに必ずつっかい棒の存在に触れるだろう。そうすれば、灰田は一瞬でトリックにたどり着くかもしれない――自信家ですか? まあ、一応校内クイズ大会で優勝したという経歴がありますからね。
それは置いといて、とにかく白雪姫奈と共犯者にとって、そのような展開は避けたいところだった。だから、ホワイトボードに元素表を貼り付けて、つっかえ棒の竹刀を挟んでいる側の扉の前に、まるで垂れ幕のような役割を果たすボードを置いていたのではないか。元素表が短く丸められていたのは、普段横向きに丸められている際についたクセを少しでもなくすためだった。いくら垂れ幕の役割をしてくれるとはいえ、クセがついて下から扉が見えてしまえば、竹刀の存在に気づかれる可能性がある。まあ気付かれない可能性も充分にあったでしょうが、念には念を入れたのかもしれません。白雪姫奈は、準備室を出るときに元素表を丸めて戻した。そのときも、共犯者と同じように縦向きに巻いたのでしょう。だから、ワダが見た筒状の元素表は、長さが短かったんです」
【参照図 化学準備室(2)】
「それだけで――それだけで、つっかい棒で密室に見せかけるトリックに行き着いたのかい」
「いえ。次に、白雪姫奈を閉じ込めて、教室で一時間待機していたときの彼らの行動を聞き出しました」
「待機中の彼らの様子に、何か不審な点でもあったのかい」
「いえ。三人は一時間の間、それぞれ一度ずつトイレに立ちました。後は、教室でいじめ組の女子生徒から痛い視線を浴びながら、時間がくるまでただしゃべっていたそうです」
「それだけの中に、事件の謎を解くヒントがあったというのかい」
「ええ。といっても、ごくごく簡単なことです。三人の中で、赤坂だけがほんの少し、トイレの時間が長かった」
「それだけで、どうして彼が怪しいと?」
「そもそも、俺がさっき話したトリックは赤坂が仕掛けたもので、つまり共犯者が赤坂であると仮定すると、彼には絶対にしなければいけないことがありますよね」
「――白雪さんから、準備室の鍵を返してもらうことか」
「そうです。四方とワダは、赤坂が準備室と実験室の二つの鍵を借りてきたと認識していました。実際は、確かに赤坂は二つの鍵を借りたけど、準備室の鍵は白雪姫奈が脱出するまで彼女の手の中にあった。何としてでも、どこかでコンタクトを取って彼女から鍵を返してもらわなければいけない。けど、教室の廊下では四方たちやいじめ組の女子生徒たちに見つかる可能性が高い。だから、せめて教室棟から離れた場所で鍵の受け渡しをしよう。そうなると、『ちょっとトイレ』と立ってから白雪姫奈と合流し、鍵を受け取って教室棟に戻る必要がある。男子トイレは教室棟内にあるけど、必然的にある程度の時間は経ってしまうわけです」
「ちょっとくらいトイレが長引いても、言い訳はいくらでもできるものね」
「ええ。『緊張で腹を壊した』とか言えば、まあさほど怪しまれないでしょう。俺だって、元素表のことと合わせて今回の仮説を立てたんですから、トイレがちょっと長いってだけで彼を犯人と疑うことはかなり無理があります」
「まあ、私から言わせてみれば、きみの推理もかなり飛躍しているけれどねえ。まさか、元素表からそこまでの仮説を導き出すとは思わなかったよ」
「いいえ。実は、他にもあるんです」
「何がだい」
「自覚なされているかどうか分かりませんけど、萩先生も何気なくヒントを与えてくれていたんですよ」
「私が、事件解決のヒントを?」
「先生、白雪姫奈との関係についてこう表現しましたよね――白雪くんとは血縁関係はないけれど、歳の離れた幼なじみのようなものだ」
「言ったかもしれないね。でも、それのどこがヒントになったんだい」
「萩先生。赤坂と白雪姫奈の関係を、わざと俺に教えなかったんじゃないですか」
白髪頭の化学教師は、うっすらと口元に笑みをのせたまま何も言わない。
「二周りも歳が離れていれば、最初から『親子みたいだろ』と言えばいいんじゃないでしょうか。けど、先生はあえて『幼なじみ』という表現を最初に用いた。まるで、白雪姫奈と赤坂克也の関係を暗示するかのように」
「はて、私はそんなことまるっきり考えていなかったけどね。大人というものは、時に回りくどい表現を好むものだよ」
「そうかもしれませんね。けど、ひねくれ者の俺はそのようには捉えませんでした」
「やっぱり、きみは刑事に向いているよ。その気があれば、知り合いに良い刑事さんがいるから紹介してあげようか。もちろん、今回の赤い部屋消失事件の話付きでね」
「いえ、結構です。重いものを背負うのは、あまり性に合わないんで」
マグカップに残ったコーヒーを飲み干して、萩先生に差し出した。今回は砂糖とミルクの分量が控えめなのか、ほろ苦い味がまだ舌の上に残っている。
「ごちそうさまでした。そして、いろいろとありがとうございました」
「こっちこそ、久しぶりに楽しい話を聞くことができたよ。もし、今度不思議な事件に私が遭遇したら、きみをここに呼び出そうかなと思ったほどにね」
「俺は刑事にも、探偵にもなるつもりはありませんよ」ぴしゃりと告げると、先生は白髪頭をゆっくりとかき回して「分かってるよ」と朗らかに笑った。パイプ椅子をたたんで棚に立てかけると、準備室の扉をゆっくりと開く。
「灰田くん。最後にひとつ、いいかな」
「何でしょう」
「事件の真相を話すまで、きみは赤坂くんにも、もちろん白雪さんにも、二人が幼なじみであることを訊ねなかったんだよね」
「ええ」
「それでも、二人が幼なじみか、あるいはそれと同等に深い関係であると信じた根拠は?」
開きかけた扉に手を置いたまま、準備室を振り返った。回転椅子に座る萩先生。背後の窓からは、えんじ色の夕焼けが燦々と部屋に注ぎ込んでいる。
「赤坂と白雪姫奈は、それぞれ片方の耳にピアスをしていたんですよ。赤坂は右耳に、白雪姫奈は左耳に。白雪姫奈のピアスは、表から見える飾りがリンゴを象ったものでした。そして、赤坂のピアスは――裏側の、ピアスを固定するキャッチの部分がリンゴの形だったんです」
そして、俺は準備室の扉を閉めた。西日で真っ赤に染まった赤い部屋から、一人の少女が解放されたことを信じて。
状況が想像し辛いかと思い、参照図を載せました……が、どちらにしろ分かりにくい?