01.逃走
気が付くと、見覚えのない森の中に寝転がっていた。
木々の葉の間から明るく輝く満月が見える。
(どこだここ・・・)
自分の身に起きた現実味のない事件を思い出しながら、立ち上がり周りを見渡す。
周囲には木々が生い茂り、月明かりで多少はマシとはいえ、遠くを見通すことはできない。
人工の明かりなどどこにも見えない、深い深い森の中といった感じの場所だった。
(・・・何で森の中にいるんだ?
もしかして遭難した?
でも俺銀行にいたよな?
そうだ!確か俺刺されて!)
慌てて背中をまさぐる。
しかしナイフで刺された跡はどこにもなかった。
代わり映えのしない、いつもの自分の背中である。
頭が混乱する。
全部夢?
でも銀行に行く前までの記憶は全部あるし・・・
今見てるのが夢か?
いや、ほっぺたつねると痛いしな・・・
・・・冷静になろう。
今まで何があったにせよ、とにかく今はこの森から出て、人のいるところに行くのが先決だ。
交番に行けば電話も借りられるだろうしな。
確か山で遭難したら上に登ってあたりを見渡すか、川に沿って下ればいいとか・・・
いやここは森か。
森でも同じか?
その時、
ガサガサッ
と背後で葉の擦れる音する。
不気味な森の中、突如響いた物音にビクッと反射的に振り向く。
振り向いた視線の数メートル先、全てを飲み込むようなの暗闇の中に、赤い眼が二つ浮かんでいた。
何かいる。
微動だにせずこちらをうかがっている。
俺に向け静かに注がれるその視線は、今までに見たことのない種類のものだった。
銀行に入ってきた気のふれた男でも、こんな背筋の凍るような目はしていない。
風が空を覆っていた葉を揺らし、月明かりがその暗闇に一瞬だけ差し込む。
オオカミだ。
人の大きさほどもあるオオカミが、今にも飛びかかって来そうな姿勢でこちらを見ていた。
ヤバイ。
本能的に感じる。
あれは捕食者の目だ。
あんなのに襲われたらきっと冗談でなく死ぬ。
生きたまま食われる。
そう感じた次の瞬間に、俺は全速力でオオカミがいるのと逆の方向に駆け出した。
ヤバイ・・・!
ヤバイヤバイヤバイ!!
肉食獣なんてテレビでも動物園ででも飽きるほど見てきた。
だけど状況が違う。
画面や柵を隔てたときとは全く違う。
オオカミが俺に向けていた目が何よりそれを伝えてくる。
ガサガサガサッ!
追って来てる!
スタミナなど考慮せず、全力で走る。
森の中は暗く、月が出ているとはいえほとんど前は見えない。
いつ木にぶつかったり、足を踏み外してもおかしくない。
しかしスピードは落とせない。
あのオオカミが後ろをぴったり付いてきているのを感じる。
どうする!?どうする!?
回らない頭でなんとか打開策がないかと考える。
しかし、
ガウッ!!
急に右側の木の陰から、別のオオカミが牙を剥き出しにし顔をめがけて飛びかかって来た。
一匹じゃないのか!?
俺はなんとか体をねじって避けようとする。
しかし避けきれず、右肩に深々と牙が突き刺さる。
「うわあぁぁぁぁーーー!!!」
俺はなおも走る足を止めず、振り払うように体を動かし、オオカミの鼻先を殴りつけた。
ギャウ!
振り回しながらの鼻面への一発でオオカミは肩から離れた。
が、再び逃げ出そうと腕を振った瞬間、激しい痛みが襲う。
見ると、肩の肉が大きく食い千切られていた。
い、痛い!
痛い!痛い!痛い!!
痛みでうまく呼吸ができない。
しかし、走る足は止められない。
止まったら死ぬ、喰い殺される!
走る。
ただまっすぐ走る。
千切れそうな腕を振りながら走り続ける。
オオカミの数は明らかに増えていた。
もう左右後ろとあらゆる方向からオオカミの走る音が聞こえる。
それに引き換え、俺の走るスピードは落ちていた。
いつ殺されるかわからない緊張感の中走り続け、体力の限界が見えていた。
それでも走り続け、走りながら何度か嘔吐したりもした。
しかし、オオカミは襲ってこない。
俺の周りを一定の距離を保ち走りながら、時おり嘲笑うかのように遠吠えを発する。
遊ばれている。
俺を追い立てながら、弱っていく様を見ている。
しかし怒りなど沸いてこなかった。
ただ懇願していた。
死にたくない。
お願いだからそのままでいてくれ。
お願いだから一秒でも長く遊んでいてくれ。
助けて。
死にたくない。
涙と汗と疲労で霞む視線を前に向けると、いつの間にか周りの木の数も減っており、少し先には芝の生えた開けた草原が見えた。
その時、オオカミの一匹が何かの合図のように高らからに吠える。
そして、
ザシュッ!
背中に激痛が走った。
とうとう一匹の狼によって、背中を切り裂かれた。
切られた衝撃で地面に顔から突っ込み、その勢いのまま三回ほど転がり、開けた芝の上に投げ出される。
切り裂かれた背中に、熱した鉄を押し当てたかのような激痛がはしる。
見ないでもわかるくらい血が流れているのを感じる。
すぐに立ち上がろうとするが足が動かない。
(あ、ダメだ、死んだ)
何匹もの狼に飛び掛かられる未来を想像しながら、首だけ動かし後ろを振り返った。
だが、そこに狼はいなかった。
いや、正確には俺の数メートル先で、恨めしそうな顔をしながら立ち止まっている。
1、2、3・・・6匹もいる。
違う。
その後ろの森の中にも、いくつも目が光っているから、もっといる。
痛みと恐怖で動けない。
狼は低い唸り声をあげたり、こっちに来いと脅すかのように獰猛に吠えながら、血走った狂暴な眼でこちらを見ている。
(に、逃げないと・・・)
激痛と恐怖でガクガク震える足でなんとか立ち上がる。
悲鳴をあげる足を引きずるようにして、フラフラになりながらも、俺は走ってその場から逃げ出した。
何であいつらが襲って来なくなったかはわからない。
だけど遠くへ、なるべくあいつらから遠くに逃げないと!
どのくらい経っただろうか。
後ろを振り返る。
疲労困憊どころか、満身創痍の体での逃走だったので、どれほど距離を進めたのかはわからない。
だが、狼たちの姿はすでに見えなくなっていた。
周りも花壇や石畳の道の敷かれた、巨大な庭園のような場所に来ている。
(助かった・・・のか・・・?)
そう思った瞬間、緊張が解けまた足に力が入らなくなった。
立っていることもできなくなり、そのまま石畳の庭園に前のめりに倒れる。
狼から受けた傷が焼けるように痛む。
特に切り裂かれた背中の傷は深く、服は血でびしょびしょになっていた。
血を流しすぎたのだろう、意識は朦朧とし、体が凍えるように寒く重い。
地面に倒れた俺の、開けるのが精一杯のまぶたに、眩しい太陽の光が差した。
どうやら夜が明けたらしい。
朦朧とする頭で、
(結果出血多量で死ぬのか・・・
まあ狼に喰われながら死ぬよりはいいか・・・
でもどうしてあいつら最後に追ってこなくなったんだ・・・
死にたくないな・・・)
などと考えながら、俺は意識を失った。