わたしの世界
年末。
毎年のごとく実家に帰って大掃除の手伝いをしていたわたしは、不要なものを仕舞いに訪れた物置で、あるものを見つけた。
「これは……」
こんなの、まだ残ってたんだ。
埃のかぶったそれを、指先で撫でる。長年触っていなかったせいか、それとも当時の使い方が良かったのかは知る由もないことだが、壊れたような箇所はなく、埃を拭えばまだ綺麗な状態のままだ。
いかにも子供用のおもちゃといった風情の、キャリーバッグの形をした可愛らしいピンク色の大きな物入れ。蓋が透明のビニール製になっているので、中に何かが入っていることがわかる。
チャックに手を掛け、中身を取り出してみた。
絵を描くことが好きだったわたしの拙いタッチが目立つスケッチブック、そして使い込まれた色鉛筆セット。キラキラ光る綺麗なビー玉やおはじきを、ありったけ詰め込んだカンカン。当時お気に入りだった本。大好きだった人がくれた花籠。母にあげようとしていたけど、結局渡さなかったプレゼント。
また小学校時代に図工の授業で作った木の箱も入っていた。表面には彫刻刀で、当時実家近くの川で見れた蛍の風景と、母の実家で毎年見ていた花火のイラストが彫られている。中には小学校時代の写真や、当時の友人がくれたアクセサリー類、好きだった曲が流れるオルゴールなどがしまわれていた。
「なんで、こんなもの大事にしていたのかな」
昔の自分に問いかけるように、ポツリと呟く。
もう、全て鮮明に思い出していた。
これは、昔のわたしにとっての宝物。あの頃のわたしにとって、全てだったものたち。
あれは、いつの頃だっただろう。将来わたしがこの家を離れる時に、大切なものを全てひとところにしまいこんで、持って行こうと画策したんだ。この、キャリーバッグに詰め込んで。
当時のワクワクした、でもちょっと寂しい気持ちが次々と蘇り、懐かしさと当時の自分の可愛らしさに、自然と頬が緩んでいく。
そして同時に、とても悲しくなった。
――過去に戻れたら。
そんなことを、不意に考えたりすることもある。
まだ、地元に蛍がたくさんいた頃。川が、泳げるくらい綺麗だった頃。幼馴染の常盤紗幸と、無邪気に手を繋いで駆け回っていた頃。今は亡き母が、まだ生きていた頃。
狭い世界の中、わたしは確かに幸せだった。知らないことは確かにたくさんあったけど、それでも毎日充実していた。それなりに泣いたり笑ったり、していた。
当時に戻れたら、きっとずっと幸せで、今より断然楽な気持ちで生きていられるのかもしれない。
楽園、だったのかもしれない。
でも――……。
ポケットに入れていた携帯の鳴る音で、わたしは我に返った。高校の時に初めて買ってもらった二つ折りのそれとは違う、買い換えてまだ間もない便利なディスプレイを取り出す。
画面には、グループチャットの着信を知らせる文字と、二つの名前が並んでいた。
寺村咲と、相川貴理乃。
二人は高校時代のクラスメイトで、おそらく常盤の次に仲が良かっただろう子たちだ。今でも三人でちょくちょく遊ぶ仲で、会うたびに馬鹿みたいな話題で盛り上がったりしている。
早速グループチャットの画面を開き、わたしは笑みを浮かべる。主にトラブルメーカーの貴理乃が何か思いつきを発し、しっかり者の咲が具体的に話を広げる。そして面白いことが好きなわたしが、便乗して加速させるのだ。
楽しい気分でメッセージを打ち終え送信すると、わたしはふと思った。
あの頃にもし戻ったら。もし時の流れが、あの時点でぴたりと止まってしまったとしたら。
わたしは母と別れることなく、咲や貴理乃を初めとした数々の出会いを経験することのないまま、狭い世界でずっと生きていくことになる。
それは……本当に幸せ?
確かに、母を失うことはない。
けれど当時のわたしは、生前の母と互いに素直になれずに折り合いが悪かった。奇しくも彼女が抱いていた本当の想いを知ったのは、その死後だったのだ。
つまり、時が止まるということは、わたしは一生母の本音を知る機会がないままということ。
そんなの、あまりに悲しすぎる。
歳を経るごとに、失うものは確かに多い。
母は癌を患い、わたしが中学の頃に死んでしまった。わたしが気に入っていた当時の田舎独特の風景も年月の経過とともに徐々に色褪せ、きっとこれからもまた変わっていくのだろう。
それでも、得るものの方がずっと多いはず。
咲や貴理乃との出会いもそうだし、今までの何年間でたくさんのことを経験したことで、わたしの世界はあの頃よりずっと広がったように思う。
常盤との関係だって、あの頃よりずっと変わった。
外側から見れば随分淡白になったように見えることだろうが、絆はずっと深まっているはずだ……なんて、照れくさくて本人には絶対に言えないことだけれど。
昔のように手を繋いで、四六時中一緒に過ごしたりなんてしない。
それでもたまに連絡を取り合ったり、予定が合えば会って話したりもする。当時はただ一緒に時間を過ごしていたというだけで、踏み込んだ話なんてしたことは一切なかったのだから、大きな変化だろう。
年が明けたら、久しぶりに常盤に連絡を取ってみよう。予定が合えば、少しだけでも話がしたい。何だか無性に、常盤に会いたくなった。
あまり自分から連絡を入れることのないわたしだから、常盤は驚くだろうか。それもまた、一興な気がして楽しみだ。
変わるものも、変わらないものも。
得るものも、失うものも。
成長すると雪だるま式に、大切なものはどんどん増えていく。目の前の世界は、どんどん広がっていく。
だからこそ、昔そうしようとしていたみたいに、全てをしまいこんで持って行くことなんてできないのだ。
過去を振り返ることが、決して悪いわけではないけど。
キャリーバッグから取り出した、狭かったわたしの世界たちは、また元のようにしまいこんだ。けれど多分、もう開くことはないだろう。
過去を懐かしみこそすれ、決して戻りたいなんてことは思わない。
形のない、わたしの大事なもの。
このキャリーバッグは、もうわたしの全てではない。わたしの世界はもっとずっと、大きくて広くて、どこかひとところにしまいこめるような単純なものではないのだ。
これはわたしを形成する、ほんの一部。たまにふと思い出す程度の、過去の一片でしかないのだから。
このキャリーバッグは実際、作者が幼い頃に持っていたもので、多分実家を探せば出てくると思います。主人公と同じように、いろんなものを入れてましたね。…もうなに入れたかは思い出せないんですけど。
そんなことをふと思い出し、夜中3時に布団にもぐりこみながら、携帯電話のアプリを使って書きこんだお話です。