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二人の回顧

作者: けい

 シン……と静まった部屋の中で時折聞こえてくるのは、暖炉の中で木が爆ぜる音と規則正しい呼吸音のみ。決して華美ではないのに、上質だと一目でわかる内装は美しく、そして堅固ですらある。だが、その部屋の主は大きなベッドに身を横たえ、寝言もなく夢の中にいる。その目尻に刻まれた皺は深く、白くくすんだ髪はこれまでの人生の苦難を彷彿とさせるものだった。

 大きくパチンと音がして、それを合図だったかのように部屋の主は目を覚ます。ゆっくりと開かれた瞳は萌黄(もえぎ)色。けれど昔は若葉のような瑞々しい色合いだったことを想えば、そこにも老いが見て取れた。


「……アリエル」

「はい、陛下」


 陛下と呼ばれた部屋の主は、返事が聞こえた方に視線を向け、そこに見慣れた小さな姿を見つけてほっと息を吐き出した。同じように髪は白く、目尻にも皺を見つけて改めてお互い年を取ったのだと実感する。

 アリエルと呼ばれた老女はそれでも背筋をしゃんと伸ばし、姿勢正しくベッドわきに用意された椅子に座っていた。手元にあるのは編み掛けのショールだろうか。彼女は男が目覚めるまでの時間、手慰みに編み物をしたり本を読んでいるのが常だった。


「こちらに……」


 もう体は満足に動かすことはできない。若い頃は剣に馬にとこなし、王子として戦にも出陣したものだというのに。「オーラム国の若獅子」と呼ばれ、その武勇は遠方の国々まで広まった。隣国を併合するにあたり、その国の第一王女であった娘を娶り子を成した。アリエルという年下の恋人を捨てて―――。


「白湯がございます、飲まれますか」

「ああ」


 この部屋の侍女はいない。扉の前には衛士がいるが室内は二人だけだ。用があれば鈴を鳴らすことになっているが、使用歴は皆無に近い。それは彼がこの部屋から出れなくなってからずっとだ。

 すでに退位し、王位は息子に譲位されている。それでもアリエルにとって王は一人。目の前にかつての恋人だけだ。だから今でもアリエルだけは、彼を陛下と呼び続ける。


 アリエルは男の背中を少し浮かせるとクッションを置き、体を起き上がらせる。自分より4つ年下とはいえ、アリエルはもう立派な老女だ。そのアリエルにとって、この作業も決して楽なものではないだろう。けれど彼女はこの役割を誰かに代わってもらおうとは思っていなかった。

 温めておいた器から水差しに白湯を移し、それを口元に近づける。力の入らなくなった腕では、自力でカップを持つことも難しい。昔は剣を振るっていた筋力も、今では見る影もない。

 ゆっくりと流し込まれていく温い水に、男はぼんやりとしていた意識が覚醒していくのを感じていた。もういいと首を緩く振ることで示し、それからアリエルを見る。美しかった髪は自分と同じ色になり、青空のようだった瞳は曇天のように濁りが見えた。お互い、長い年月を重ねてきたのだとしみじみ実感するばかりだ。


「どうされました?」

「いや。お互い年を取ったものだと……な」

「急にどうされたのです。珍しい」


 くすりと笑う顔はもう老いたものだというのに、その中に若かりし頃の愛らしい表情が見え隠れする。初々しい恋人同士だった遠い昔。王子と子爵令嬢だった二人は穏やかに愛を育んでいた。微笑ましいほどの様子に、揶揄されることはあっても悪意を向けられることはなかった。勇猛果敢な王子と美しく(たお)やかな娘との恋愛は、そのまま実るはずだった。しかし―――


 オーラム国が隣国を併合しなければ。条件が王女を人質とすることにより娶ることでなければ。円満な完結策が他にあれば。王子が一人息子でなければ。現れた王女が善人でなければ―――いや。王子とアリエルが小さな舞踏会で出会わなければ……引き裂かれる運命は最初からなかったのだろう。けれど現実は無情なものだ。


 王子は条件通り王女を娶り、それを機に隣国は併合されて名前を消した。そしてアリエルは、のちに王の騎士となる男と結ばれた。それは王子が知らぬ間に勧められた計画だった。王子はアリエルを愛していた。だからアリエルを第二妃として娶り、隣国王女を蔑ろにしないために先手を打ったのだ。王子の父―――時の王が。

 王からの要請にアリエルは迷うことなく是と答え、王子が視察で都を離れている間に婚礼は上げられた。そんな形での婚姻だったが、騎士である夫はアリエルを大切にしてくれたし、アリエルもまた信頼と親愛を育てていった。


 当時はそれなりに王子は荒れ、(すさ)んだ時期もあったが、今ではもうただの昔話だ。お互い孫やひ孫までいる老人でしかない。


 ただ辛くも懐かしい過去と違うのは、お互いにもう伴侶がいない事。王妃となった隣国の王女は知性溢れる優しい娘だった。併合され、国としての名前が無くなった故郷をそれでも愛し、荒廃した地区への復興に尽力を注いだ。またオーラム国の王妃としてもその手腕を発揮し、その発展に大きな貢献を残した。そうした活動は王となった男にも響き、彼もまた王妃を信頼と親愛で慈しんだ。結局、他に妃を娶ることはなかった。


 子宝にも恵まれ、二人の王子と二人の姫はそれぞれの役目を果たしてくれている。譲位した第一王子は今では立派な王だ。第二王子はその補佐に。二人の姫はそれぞれ大国に嫁ぎ、国と国との結びつきに一役買っている。


 王妃はもう10年も前に先立った。


 アリエルの夫はもっと早く、最初の子供が生まれて2年で事故で死んだ。失意に在ったアリエルを、王子たちの乳母として城に召し抱えることを決めたのは王妃だった。当初訝しんでいたアリエルだったが、王妃のその性格と考え、深い知性を知れば知るほど心酔していくのだった。


『アリエルはわたくしの一番の友でいてちょうだい』


 幼い息子を抱きしめ、微笑んでそう言っていた友人が死んだとき、アリエルは夫が死んだ時以上の涙を流したのだった。





「長い時が過ぎたな」

「ええ。けれど、あっという間だった気もいたします」


 男はなんとか腕を持ち上げ、細木のようになった手をアリエルに伸ばした。伸ばされたその腕をつかみ取ると、アリエルは手の甲から指先までを優しく撫でた。


「君との約束を守れなかった」

「……『生涯アリエルだけだ』と言っておられた事ですか?」

「ああ」


 秘め事のような小さな声は、暖められた空気に溶けていくように儚い。


「それを言うならわたしくもです。あなただけを愛し続けると申しました」

「そうだったな」

「そうです。お互い様ですよ」


 優しい声は耳朶を震わせる。それは穏やかで緩やかな時間。まだ若い頃手を取り合うことしか出来なかった二人は、今もこうして手を取り合うだけだ。


「陛下、こうしていつまでも傍にいられることが夢だったのです」

「わたしも、アリエルと隣り合ってゆっくりと時間を過ごすことが夢だった」

「あら。それではわたくしたち、夢が叶っておりますのね」

「そうか……そうだな」


 自由に動かない手足。草臥(くたび)れてしまった体。色の変わった髪。濁ってきた瞳。けれど心だけはずっと変わらず―――。


「君を愛しているアリエル」

「お慕いしております、ディウス殿下」


 二人の気持ちは形は変われど色は変わらず。


仕事してて思い浮かんだ突発作でした

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