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みづち姫

作者: あんのーん

 その昔。とある男が山奥で出会うた娘に懸想して、これを無理やり手籠めにしたそうなが、何度か逢瀬を重ねるうちに、娘も男に情が湧いて、これを慕うようになったそうな。そのうち娘に子が出来て、男はこれを娶らんと里へ来いやと誘うたが、娘はなんでかこれを拒み、あろうことかどこぞへかと姿を消してしもうたと。

 男は嘆き悲しみ、幾度となく山を訪れては娘を捜し歩いたが、とうとうある日、道に迷うてしもうたそうな。命運尽きたかと観念した男の前に、どこから湧いたか異形の男どもが現れてな。ひとりの赤子を差し出した。

 それは手足のない赤子でな。男は気味悪う思うてそれを返そうとしたが、男どもは「それはぬしの子や。ぬしがそれを産んだ娘のことは忘れそれを大事に育てるなら、里へも帰してやるし、ぬしのためにも働こう」と言うたそうな。

 男は異形の赤子などいらぬから娘を返せと応えたが、男どもは取りあわなんだ。それどころか「娘が泣いて頼むから赤子だけはぬしにやろうと思うたに、それもわからぬ阿呆なら、ぬしはこの場で殺すとしよう」と山刀を抜いたので、男は泣く泣く赤子を抱いて、男どもに案内あないされ山を下りたんやと。

 それからこの男は次第に頭角を現し、やがてこの辺りを束ねるようになった。これが奥河おうごの国の興りやそうな。



 1


 春のある麗らかな朝のこと。

 とある山国は雨宮の館では、当主と家臣がふたりの男を見つめている。

 ひとりは四十がらみ、粗末な単に山袴といういでたちで、もうひとりの背格好は十二、三。幼い全身を黒っぽいなりで包み腰には山刀を差し、どうやら少年と見えたがしかとはわからぬ。これは面妖なことに顔までを黒い頭巾ですっぽりと覆い隠し、当主の前でもそれを取ろうとしなかった。

「姫様の、裳着の祝いに参上つかまつりました」

 男がそう言い、黒頭巾が頭を下げた。

「おお。そのほうが」

 当主は彼らがやってくるのをあらかじめ知っていたらしい。機嫌の良い声でそう応えると、後ろの黒頭巾に名を問うた。

月夜つくよと申します」

 答えたその声はやはり少年のものである。

「顔を見せぬか」

 誰かが咎めるように言った。

「これは顔なき者。頭巾を取ることはできませぬ」

 男が応えた。居並ぶ侍達の間に、かすかなさざ波が立った。

「よい」

 当主も鷹揚に頷いた。

「これはみづちの手足や。手足に顔はないが道理。誰もこれの顔を見てはならぬ」

 家臣は驚いたように当主を見た。

「これを姫様の世話役にですか? 姫様には幼い頃より付き従った、乳母がすでにあるはずや……。このような、顔も見せられぬ胡乱な者を姫様のおそばに置かれるのは……」

「それでのうても、まだ子供やないか……このような者に姫をお守りできるのか」

「月夜」

 振り向かず低く男が呼ばわった。当主が頷く。

「どなた様か、これと仕合うてみてはいかがか」

 家臣が顔を見合わせる中、

「わしが」

と、ひとりの男が立ち上がった。家臣の中では剣の遣い手として、名の知れた侍である。

 庭先にてこれが刀を構えた。対する月夜と呼ばれた少年は腰のものも抜かず、素手のままだ。

「舐めとるのか……きさま」

 侍は憎々しげに呟くと気合いと共に打ちかかった。

 少年は軽々と身をかわし、侍と交差したかと思うとその首を手刀で打った。急所に当てられたか侍が膝をつく。その刹那、見物の侍の列から小刀が飛んだ。月夜は振り向きざまに山刀を一閃、小刀は侍の列にはじき返された。

「……っ」

 人とも思えぬ身の軽さ、その手際に、侍の列からは溜息とも呻きともつかぬ声が漏れた。

「見事や、月夜」

 当主の声に月夜、そして男もかしづき、こうべを垂れた。

 ふたりがその場を辞した後、残った者がなおも納得いかぬげに言った。

「しかし、殿……。男をあの姫様のおそば近うに置くのは……」

「そのことなら心配ない」

 当主が応えた。その頬に浮かんだ笑みには含みがある。

「あれは、羅切や」

「…………」

 その場の者は一様に面妖な面持ちになった。中にはうろうろと手が股間をまさぐる者まである始末だ。皆、おのが一物を切り取られる様を、はからずも思い浮かべたようである。



 2


 この辺りは山国ながら都にもほど近く、古くから戦の絶えぬ土地柄である。

 この地で頭角を現した雨宮氏はよく時勢を読み、小さなおのが領国を守っていたが、特にこの頃この家にはひとりの姫があり、これがよく先を視たので、この国は戦禍や厄災にも遭わずにいた。

 しかしこの姫については、いささかの噂があった。曰く、手足を持たぬ異形だと。村人達はこの姫をみづち様と呼び慣わしていたのである。

 さてこの姫が月のものをみたとき、姫の父、すなわち雨宮の当主は姫の世話役としてひとりの少年を召した。顔を持たぬこれもまた、異形であった。

 家臣はこれの異様な風体を見、また氏素性もわからぬこと、そして何より男であることを懸念したが、当主はただ「姫ももう一人前ひとりまえや、男の情に触れるのも良かろう」とのみ言い、取りあわなかった。


 最初に月夜に引きあわされたとき、姫は不満は唱えなかったが、その表情や態度には内心がありありと表れていた。

 姫がそれをあらわにしたのは、月夜が下がった後である。

「嫌や嫌や……!」

 姫は泣き声混じりに父に訴えた。仕立ての良い着物に身を包んだ、十二、三と思しき少女である。背凭もたれのある脇息に身を凭せかけ、色白くたいそう美しく優しい顔だちだが、着物の袖や裾の辺りが何やら常とは違って見える。

「姫様のお世話を男に任せるなど、とんでもないことにございます。ましてやどこの者とも知れん、怪しげな子供を……それでのうても、姫様は……」

 脇に控えた侍女と思しき女がおろおろと、しかし抗議するかのような声を上げた。髪には白いものが目立ち、長らく姫に仕えてきたことが伺える。どうやら姫の乳母と見えた。

「もう決めたことや」

 当主は乳母の言葉を、にべもなく退けた。

「おまえはこれまでようやってくれた、礼を言う。そやけどおまえももう歳や。みづちの世話はそろそろきつかろう」

「わたくしはまだまだお役に立てます。どうかお願いいたします、わたくしからお役目を取り上げるなど、なさらないで下さいまし……!」

「みづち」

 今度は当主は、姫に向かって呼びかけた。

「そなたはどう思う。今はまだ体も小さいが、これからどんどんおとなになるのや。もう髪も白うなってきたこれに、これからも世話をして貰うのがよいのか」

 そう言われ、姫は押し黙った。

「月夜を」

 当主が呼ばわった。使用人頭が月夜を伴い現れた。

 当主はこれを見やるでもなく、では頼んだぞ、と言い置くと、去りがたい気持ちを隠そうともしない乳母をうながし部屋を出て行った。

 あとには姫と月夜のみが残った。

 長い沈黙があり、ようやく姫が口を開いた。

「父上のお考えがわたくしにはわからない……。男のおまえがこのわたくしの手足となるのか」

「わしは男でも女でもございませぬ」

 月夜が応えた。それから頭を上げると言った。

「先ほど姫様が仰いました。わしは姫様の手足です。姫様のお心のままに動きましょう。お望みなら、この場で両目をくりぬいてもかまいませぬ」

「そないなことが──」

 こわばった笑みを浮かべて言いかけた姫の眼前で、月夜の右手が動いた。その手の中に鈍い鋼色の光を見た姫の顔色が変わった。

「やめえ! そないなことを、このわたくしが望むと思うのか」

 月夜の手が止まった。姫の表情はもとより、声にも怒気が表れている。月夜はしかし、両手をつき頭を下げると、

「この手足は、全て姫様の意のままに」とのみ応えた。その表情は頭巾に隠されて伺うべくもない。



 3


 当主は乳母をはじめ、これまで姫に仕えてきた数人の侍女をも全て遠ざけてしまった。姫の身辺の世話は一切が月夜の仕事となった。

 膳の給仕から召し替え、沐浴やその他の世話まで、月夜はひとりでかいがいしく、身を尽くして姫に仕えた。

 姫は当初はなかなか慣れず、文句は言わずとも口もきかずいつも身体と表情をこわばらせていたが、月夜の心の届いた献身にやがてこれと言葉も交わすようになった。

 これまで姫は祭礼に祭殿に上がるほかは、家臣や使用人はおろか父でさえほとんど訪うことのない館の奥でごくごくわずかな侍女にかしづかれ、ひっそりと生きてきた。

 侍女達は姫を憐れみ優しかったが、内心では姫の異能と異形を怖れ、それがために姫は常に孤独であった。

 だが、月夜は違った……。

 月夜の献身を受けるごとに、それが姫にもわかりはじめたのである。

 同時にこの、自らを「手足」と心得た少年にも心があることに、ようやく思いが至ったのだった。


 あるとき、姫がふと月夜に頭巾のことを訊ねたことがあった。

 四六時中目の前を覆っていてはものもよく見えなかろう、鬱陶しくはないのかと……だが特段の思いもなく発したその問いに、返ってきた答は驚くべきものだった。

 月夜はおのが顔を知らぬという。物心つく前から頭巾を被せられ、おまえは姫様の手足であるから、おのが顔はないものと心得、見ても見せてもならぬときつく戒められたという。

 明るい陽の光を知らず昼も暗い視界は生来のものと変わらず、おかげで不自由はありません、と月夜は笑ったが、姫には胸を締め付けられるようであった。

「おまえがそないな役目を負わされたのも、このわたくしのせいやな。子細がどうであれ──わたくしが──こないな体に生まれつきさえせなんだら……」

 ぽつりと漏らした姫の言葉を、常には従順にうなずくばかりの月夜が即座に遮った。

「いいえ、それは違います」

「姫様のお役に立つことが、わしが生まれた意味や。こうして姫様のおそばでお仕えできる……それがどれほどうれしゅうてありがたいことか、どれだけ言葉を尽くしても足りません」

 姫はわずかに表情をゆがめた。

「おまえはそうまで慕うてくれるこのわたくしの名を知っとるのか」

と、皮肉げな笑みさえ浮かべた姫が問う。

「もはや父にさえ呼ばれぬ、おまえのあるじのその名前を──」

日生ひなせ様」

 月夜が答えた。姫がまじまじと月夜を見つめた。

「物心つく前から存じ上げておりました。姫様のお名前はわしの、宝です」

 はっきりとそう言うと、月夜は言葉を継いだ。

「姫様がかようなお身体に生まれたことにも、必ず意味がある。姫様にしかできぬことがあるのです」

「わたくしが生まれたわけが……? こんな、不具な身体にか」

 言いながら我知らず涙があふれてきたのは、月夜の声がたいそう優しくその言葉が心に迫ったせいか。

「おのが流した涙さえ、自分では拭けぬというのに……」

「わしがぬぐってさしあげます。いつもおそばでお助けします」

 そう言いながら月夜はあとからあとからこぼれ落ちる姫の涙を、言葉の通りに指先で拭い続けた。



 4


 その年の春の祭礼では、奉納舞の舞手を月夜が勤めた。

 山に囲まれ、山あいの僅かな土地から作物を得ている奥河の国では、春の祭礼は龍神を鎮め豊穣を祈念する、最大の祭祀まつりごとである。家中の皆が反対し月夜も固辞したが、姫が強く望んだのと、当主が「巫女の意向を尊重せよ」と言ったので、影が舞台に立ったのだった。

 蒼天の下、月夜の舞は見事なものであったが、その場の皆が息を呑んだのはそれのみが理由に非ず、常の通りの黒装束に頭巾で面と肌を隠し、濃色の千早を纏った月夜のすんなりと優しげな姿形かたちがとうていひとのものとも思われず、みづちと呼び慣わされた姫の分身とも、姫が操る傀儡くぐつのようにも感じられたからであった。

 夜、姫はいつにない昂揚し嬉しげな表情で、月夜の舞を褒めた。

「きっと龍神様もお喜びや。ほんに美しかったぞ。この国のいかな舞の名手でも、おまえのようには舞えまい」

 月夜は、お言葉、もったいのうございます、と応えたが、少しのあと小さく続けた。

「わしは姫様の手足でございますれば、ただひとつ、姫様のお心にかなうことのみを念じて舞いました──」

「月夜……」

 姫の声も、なぜか小さく震えている。

「月夜……わたくしは、おまえの顔が、見たい──」

 え……、と、なりゆきに月夜が口ごもった。

「姫様は、祭礼の後でお心が高ぶっておられるから、そのような──」

「そうではない」

と、姫が遮った。

 もうずっと考えていたことだ。だが言葉にするのが憚られた。父がみなに「誰も月夜の顔を見てはならぬ」と命じていたのを知っていたし、月夜もおのが頭巾に触れることさえしなかったからだ。

 違う……、と姫は思った。

 わたくしが真に恐れていたのはそんなことではない。月夜が罰せられるかも知れぬ、それは確かに恐ろしいことだ。だがわたくしが本当に恐れていたのは──。

 姫が怖れたのは、親身におのれに尽くすこの男の顔に憐憫や畏怖を見ることであった。

 だが月夜は今日、まさに姫自身の心を映して舞ったのだ。そうまでおのれに寄り添う者が、そんな感情を表情に浮かべているはずがない──。

 さあ、はよう、と言ったきり、姫がただ月夜を見つめているので、逡巡していた月夜もとうとう頭巾を取った。

「────」

 姫はかすかに息を呑んだ。

 長い睫に縁取られた双眸が瞬きもせずに月夜を見つめた。月夜は耐えかねたように顔をそらした。

「なんで目をそらす? わたくしのこの身体、やはり見るに堪えぬか」

 静かに姫が問うた。

「とんでもございませぬ……!」

 月夜がはじかれたように姫へと向きなおる。

 だが姫と視線が合った刹那、また顔を伏せてしまった。

「……ではなんでわたくしを見んのや?」

 ややあってまた姫が問う。

「……それは」

 ようやく月夜が口を開いた。今にも消え入りそうなその風情も、常の落ち着いた月夜とはまるで別人である。

「わしが耐えがたいのは……、この醜い顔を姫様に晒し、お目を穢すことです。……姫様も最前、わしの顔を見てたいそう驚かれた──」

「おまえはおのが顔を見たことがないのではなかったか。なんで醜いと思うのや」

 問うた姫に、俯いたまま月夜が答える。

「戒めには必ず理由があります。見せてはならぬ理由とは、きっと姫様のお目を穢すことを怖れたからに違いありません」

「顔を上げよ、月夜」

 姫が言った。

「わたくしがおまえの顔を見たいと望んだのや。おまえの顔がどうでも、堂々としておればよい」

 姫の言葉に促され、顔を上げた月夜が見たのは、姫の頬を伝う一筋の涙であった。



 その後も姫はしばしば月夜の顔を見たがった。そこに浮かぶ己れに対する愛情と賞賛の表情は姫を癒したが、もうひとつ、月夜がしばしば見せる切なげな表情にも、疼くような幸せを感じるのだった。そしてもうひとつ、ただ姫のみの胸に秘めた秘密があった。

 

 夜、ろうそくのほのかな明かりのなかで向きあい、語りあうふたり。

 いつぞや姫が話したのは、雨宮に伝わる言い伝えであった。

 昔々、ある男が山で出会った娘とねんごろになったこと。ところが娘は姿を消してしまい、必死にこれの行方を捜したところ、見たこともない男どもが現れて、手足のない子を差し出したこと。それで男は……しょうがなくその子を抱いて帰って育てたこと……。

「それが、姫様のご先祖様……」

「そうや。子供を得てからその男はよう時勢を読み、やがてここらを束ねるようになったということや」

 そう言うと姫は続けた。

「もしかしたら、この村というのはおまえの村のことやも知れぬな。昔々から、わたくしのようなものが生まれる度に、おまえのような者が助けてくれたのかも──」

 月夜も語った。月夜の村には不具な者も多くいるという。だがそれを恥じる者はないと。

 それを聞いて姫が微笑んだ。

「わたくしも、おまえの村の娘に生まれていたら良かったな。わたくしはこの身体を恥じることもなくおまえも面を隠すこともなく、村のためにたまさか先を視て、おまえに助けられながらふたりで仲良う暮らせたろうな……」

「いつかきっと、姫様をお連れいたしましょう」

 姫が微笑み、月夜も笑った。夜ごとに交わすそんなたわいない会話が、ふたりの密かな楽しみであった。



 そうして何年かが経ち、姫はいっそう美しく成長した。内から照り映えるような輝きには、誰もが畏怖さえ覚えるほどである。月夜もまた背丈も伸び、どこかに幼さを残していた体つきもおとなのそれに変わりつつあった。但しその印象は初めて館に上がった頃と変わらず、どことなくひとならざる風情を漂わせていた。

 邸内で月夜について口さがない噂話に興じていた者達は、視界の端に入った黒装束に慌てて口をつぐんだ。が、当の黒装束──月夜──は、彼らを意に介する風もなくその場から立ち去った。

「──ふう」

 月夜の姿が消えたのち、ひとりが大仰に息を継いだ。

「珍しいな、あれがひとりでおるとは。それでのうても、姿もほとんど見んのに」

「何の気配もせなんだな。……ほんまに気色の悪い奴や」

「『手足』であれば、それも道理……」

「しかしなあ、手足というたかて、実のところは男なんやし……あの姫様とぴったりいっつも一緒やぞ……」

「そこらでやめとけ、殿の耳に入ったら大ごとやぞ」

 何やら会話のあやしい雲行きに、ひとりが割って入った。他の者どもも何かに気づいた表情になり、三々五々にそれぞれの持ち場へと散っていった。

 しかし一旦ふと漏れ出た疑念は、ひそやかに空中を伝播するもののようである。



 5


 その夏の終わりのことである。姫は嵐を先見し、作物を早く刈るように、と宣った。

 日々の天候に恵まれ、村の作物は豊かに育っていた。

「ほんまに嵐が来るのか」と、村人はおろか家中の者も半信半疑である。もう少し辛抱すれば実りの秋がやってくる。村人は収穫を渋った。託宣のあった当初こそ堤に土塁を築き、備えを急ぐ気配を見せたが、いつまで経っても空には一点の曇りもない。そのうちに、姫は月夜と情を通じ、神通力を失ったのだと噂する者まで現れた。


「殿、申し上げたいことが」

 居室の当主に声をかける者があった。使用人頭の声である。障子にはやわらかな光が落ちている。当主は呼ばわった。

「入れ。何や?」

 現れたこの年寄りはためらう風であったが、ほどなく口を切った。

「姫様と……月夜のことにございます」

「あれらがどうかしたか」

 書き物をしていた当主は顔を上げずに応じた。

「姫様はたいそうお美しゅうおなりや……もともとお美しいお顔だちでしたが、この頃では輝くばかりで」

「みづちの顔だちを褒めにきたのか」

 当主は片笑みを浮かべていった。

「いえ」

 年寄りは慌てて打ち消すと、そのまま続けた。

「あれを姫様のおそばに、このまま置いておくおつもりですか」

「なんぞよからぬ噂でも聞いたか」

「いえ……」

 曖昧に語尾が消える。当主はあっさりと応えた。

「ならばよい。ほうっておけ」

「……しかし……」

「それよりも刈り入れを急がせよ。実入りの悪さはしょうがない。嵐で水に浸かったら元も子もないからな。ぐずぐず言う者にはわしの命やときつう言え」

 使用人頭はまだなにごとか言いたそうにしていたが、は……、と、低く応えると引き下がった。

 気配が遠のいた。当主は手を止め小さくため息をつくと立ち上がった。

 館の裏手である。陽はすでに傾き、夕映えに空も山も燃え上がるようであった。月夜を認めた当主が声をかける前に、これは振り向きかしづいた。

「みづちは機嫌よう過ごしておるようやな。礼を言う」

「いえ。お言葉勿体のうございます」

 頭を垂れたまま月夜が応える。

 当主は月夜に立つよう促すと、独りごちるように続けた。

「……あの身体や。永らえることはできまい」

 立ち上がった月夜が、これも小さく応えた。

「わしが必ず、お守りしてみせます」

 当主が月夜を見つめた。しかし月夜は顔なき者。当主の目には、面を覆った黒い頭巾が映るのみである。


 このまま豊かな秋が訪れるのだと村人達が信じ始めた頃。

 果たして嵐は突如として村を襲ったのである。

 遠雷が不穏な湿った空気を運んできたと思う間もなく、強風に民家の屋根が吹き飛び、横殴りの雨が頭を垂れはじめた稲穂をなぎ倒した。

 家中も総出で村人達の加勢に回ったが、嵐の中での刈り入れは困難で、あちこちの堤が切れ、濁流が村を呑み込みはじめた。

 当主は村人達を山城に集めるよう命を下した。人さえ生き残れば村もまた建て直せる。作物もまた作れるのだ。

 騒然とした館の奥、姫は青白い頬を固く引き締めて身じろぎもせずにいたが、月夜にさあ、姫様も、と促され、かぶりを振った。

「いいえ、わたくしが行くべきは山城ではない」

 月夜の動きが止まった。

「月夜、わたくしを、川へ連れて行って」

「え……」

「聞こえなんだか。わたくしを川へ連れて行くのです」

「……そんな、いくら姫様のお言葉でも、……そんなこと、わしにはできません……!」

 月夜が姫に逆らったのははじめてのことである。何かを予見したか、その声は悲痛であった。

「殿様にお約束しました。必ず姫様をお守りすると──」

 姫の表情も一瞬悲哀にゆがんだ。だが姫は言った。

「おまえの忠義は誰のものや、父上か、このわたくしか。答えてみよ」


「きさま、どこへゆく!」

 警護の者が気づき、気色ばんだ声を上げた。近くにいた他の者どもも集まってきた。

 月夜は走りつつ山刀を抜いた。

「我らの行く手を遮るな! 前に立つ者は殺す!」

 音声おんじょうが凜と響いた。声は月夜のものである。だがその場にいた者は、姫の怒りに触れたかのように、一瞬怯んだ。

 月夜は姫を抱き、嵐に消えた。

 追っ手がすぐにかかったが、彼らが再びふたりを見ることはなかった。

 しかしようやくたどり着いた堤では、荒れ狂う川へ自分を投げ込めと言われ、月夜も躊躇していた。

「何をためらうのや、ここまでわたくしを抱いてきたのは何のためや」

「いいえ、わしにはできません──」

 乱れた月夜の声を風の音がかき消す。

「月夜、よう聞いて」

と、姫は月夜を励ますように語気を強めた。

「おまえも知っておろう、わたくしは水龍みづちの巫女、わたくしなら天へ昇ってこの嵐を収めることができるのや」

 吹きすさぶ嵐の中、姫を抱きしめたまま動かぬ月夜に、姫はなおも語りかける。

「おまえはいつかわたくしに、わたくしにしかできぬことがあると申したな。それがわたくしの生まれた意味やと。今こそわたくしが、それを証すときや」

「では、わしも一緒に──」

 とうとう月夜が言った。

 だが姫は、いいえ、と強く拒んだ。折からの強風に月夜の頭巾が飛ぶ。

「天へ昇れるのは私だけ、おまえは生きるのです。おまえは心も美しく腕も確かや。きっとこの国の役に立ちます。嵐が収まれば、これまでの事は隠して父上に会いなさい。父上はきっとおまえを雇い入れるはずや。おまえの顔を見れば──」

「わしの、顔……?」

 風に打たれ、雨に打たれても美しいその顔。それは姫と同じものだった──。

 さあ、早く、と促され、月夜は再び頭を振った。そして言った。

「どこまでもお仕えすると誓いました。わしも、一緒に……」

 答を聞く間もなく、月夜は姫を抱き、川へと身を投げた。

 国中の者が見た。濁流から天へと迸った、巨大な閃光を──。



 終章


 翌朝。嵐は嘘のように去り、姫と月夜を探していた家中の者は、汚泥の中にひとつの死体を見つけた。

 それは濁流に揉まれ流木や岩に擦りつけられたらしくひどい有様であり、顔なども潰れてどこの誰ともわからなかったが、着衣から月夜であろうと知れた。姫の姿はどこにもなかった。

 どこからか余所者が数人やって来て、月夜の死体を引き取らせてくれと言った。家臣は気色ばんだが、当主はこれを許した。


 男達は山中の川縁で、これを燃やした。

 薄く細い煙が立ち上る。それは灰色の小さな蛇が、蒼穹を目指し上っていくようであった。




 了



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