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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

きねら

作者: DA☆

 西方はるか、広大な岩石砂漠を越えた先の山中で金鉱が発見された───というニュースを聞いて、ひとやま当ててやるとて父や兄どもが色めきたったあの日から、もうどれほどが経つだろうか。一家総出で西へ移住することを、母や妹の私や、親類一同の意見を何ひとつ求めず、彼らはその日のうちに勝手に決めてしまった。


 たかが小作人のままで一生を終えるのがいやだったのだろう、そういう男ならではの気持ちはなんとなくわかる。


 だが、私は金鉱に興味がなかったし、穴掘りに必要な腕っぷしの自信もなかった。山ぐらしの中で、ただ足を引っ張ることになるだろうと、おおよそ予想がついた。長い移住の旅が始まり、空虚な砂漠の光景をひたすら見続けるうちに、なおさら嫌気がさして、こんな賭けからは下りてしまいたい、と思うようになっていた。


 だから、旅の途中に立ち寄ったとある町の役場で、一枚の公告を見たとき、私は心を決めた。


 公告は、いうなれば、起業家支援。金鉱を求める山師たちの旅の通過点となったこの町では、宿屋や料理店などの、宿場町としての基盤が整っていなかった。そこで、新たに商業施設を開業する者に対し、補助金や優遇措置が用意される、という。


 私は、家族と別れ、ここで小さな酒場を新規開店することにしたのだ。


 「この話に、のってみたいの」


 役場からもらってきた資料を家族に見せて、私はそう切り出した。


 勝手なもので、ネンネの末娘の反乱に、父や兄は当然のように猛烈に反対した。だが、説得は簡単だった。どうせ山師の一家なのだ。父の血を引き、兄と同じ血が流れているのだ。私は私のやり方で山をはる。何も金を掘るだけが賭け方じゃないと。


 父や兄は、ひたすら苦虫を噛み潰した。


 「まったく、しようのない奴だ」


 父はそう言って、そっぽを向いた。


 「ひとりで大丈夫なのか」


 上の兄が言った。私とともにここに残るという家族がひとりもいなかったからだ。だからこそ、反対も厳しかったわけだが。


 「用心棒くらいは、雇うわよ」


 私の決意が固いのをみて、父も兄もしまいにはあきらめてしまった。


 いっとう仲の良かった下の兄は、せんべつだ、と言って一挺のリボルバー銃をくれた。ごつくて重くて、私には使えこなせそうにない代物だったが、私はそれをありがたく受け取った。


 「つらくても、めそめそ泣くんじゃないぞ」


 「もう子供じゃないわ。泣くわけ、ないでしょう」


 私は、笑って答えた。……そう、私は、確かにそう答えた。




 出店までにはさほどの困難もなかった。いや、まったくなかったといってもいいだろう。町の役場はにこやかに私を迎え入れ、公告以上の支援を約束し、実行してくれた。街道沿いの一等地、新築の店舗、仕入れの優先権。そこまでしていただけるのなら、税金とか上納金とか、ごたごた搾り取られそうなものだが、それもなきに等しく、まさにいたれりつくせりだった。


 話があまりにとんとん拍子で進み過ぎて、一抹の不安を感じるほどだった。


 開店準備がおよそ整って、それまで手伝ってくれていた家族が、金鉱を求めてまた西へ向けて旅立ってゆく頃、その不安は、私の中で、はっきりかたちあるものになっていた。


 この町、何か、変よ。


 私は、家族にそう言い出すことができなかった。


 近所づきあいをする気のあるわけもなし、彼らが町に関心を持たなくてもしようのないことだ。彼方の金鉱に思いをはせる父や兄に、大見得を切った以上は思案顔を見せるわけにもいかなかった。


 まず気づいたことは、土着の者たちの間に流れる、奇妙に閉鎖的な雰囲気だった。好意的にはしてくれるのだが、たとえば商工会の会合には呼ばれない。普段の会釈の直後、唇に薄ら笑いを浮かべる。うぬぼれかもしれないが、独り身の娘たる私に、言い寄ってくる者のひとりもいない。


 町中を歩いてみても、彼らは、不健康というよりは不健全な面構えで、あちらこちらたむろしていた。暇さえあれば、知っている者同士の輪の中で、サイコロ賭博や賭け碁に明け暮れているのだ。そして、よそ者の私や旅人たちに、にやにや笑いながら、上目遣いに不審な視線を投げかける。


 妖怪に支配されてでもいるかのような、重苦しい違和感が、彼らと私の間に、溝として横たわっていた。私はどうしてもその溝を越えられなかった。彼らとの接触は努めて避けた。近寄ると、自分まで無気力感に押しつぶされてしまいそうだった。


 けれど、私の店は、そんな町の人々の支援によって完成した。


 私ひとりを残し、砂ぼこりを立てて西へと去ってゆく家族の馬車を、手も振らず、黙って見送った後、私は自分の店に戻った。


 両開きの扉を開けて、中を見回す。磨き上げられた床。円卓がふたつ。卓ひとつにつき、椅子はみっつ。丸椅子がいつつ並ぶ、幅の広いカウンターの向こうの棚に、ずらりと並ぶウィスキー。ピアノもなく、暖炉もない、狭い店だ。


 ……ここは、私の城だ。そのはずだ。だが、不安だった。泣いたりしないって兄に誓ったはずなのに、涙がこぼれ落ちそうだった。膝を抱えて座り込みながら、私は何度も何度も頭を振って、不安を頭から追い出した。




 前宣伝をしなかったので、開店当初はほとんど客が来なかった。ひとりで、なんとでも切り盛りできた。


 けれど、こんな得体の知れない町でなくたって、女ひとりでの商売は恐怖感がある。強く頼れる用心棒が、どうしても必要だった。


 開店前から出している店員募集の貼り紙には、何の反応もない。私は孤独と不安に耐え、それらを表に出さぬよう努めながら、じっと待った。


 ようやく希望者がやってきたのは、開店三日目だった。


 「よぅ」


 ぞんざいな挨拶が、戸口に聞こえた。貼り紙をひっぺがし、ひらひらと手で振りながら、その男は現れた。


 一見、なれなれしい軟派な優男だった。泥にまみれた長いマントを羽織り、その裾からはショットガンの銃口が覗いている。かけている黒眼鏡は日よけ砂よけのためか、それとも表情を隠すためなのか、よくわからなかった。顔の作りと口元だけを見ればかなりの男前だが、浮かべている薄ら笑いがどうにも不快だった。


 私は警戒心をあらわにし、男をにらみつけた。男は、わずかに歯を見せた。


 「そんな面すんなよ。店員を捜してるんだろ」


 明らかに私を見下していた。


 「……えぇ」


 「俺を雇いな。安くしとくぜ」


 「私は……」


 言いかけるところを男はさえぎった。


 「わかってる、本音は用心棒だろ。まかせろよ」


 「……自信がおありのようね」


 「まぁね。銃の腕前には自信がある。殴り合いもまぁまぁだ。ついでに、この町での処世ってのにも、自信満々だ」


 私は眉をひそめた。


 「あなた、この町の人?」


 「あぁ。この町で生まれて、この町で育った」


 男は、私のひそめた眉を見て、にやりとした。


 「あんた、この町が嫌いだろう」


 「……えぇ」


 「心配するな、俺も嫌いだ」


 男は黒眼鏡を外した。思ったよりも、涼やかな瞳だった。少なくとも人に悪印象を与える顔つきではなく、かといって魅きこまれるほどの存在でもなかった。何を考えているのか、いまひとつ読めなかった。


 「生まれも育ちもこの町だ。だが、自分で言うのもなんだが、ちょっとクセのある生き方を選んだもんでな。町中の嫌われ者だ、俺は。それでもこうしてどうにかやってきてるが、よそ者の集まる店の方が、居場所としてはありがたいわけさ。……で、どうなんだ。用心棒が要るんだろ。やってやるぜ」


 男はそう言った。


 男の言葉すべてに納得したわけではなかった。しかし、孤独感を抱えていつまでも悩んでいたくなかった。少し考えたが、自信の裏打ちがあればこその尊大な態度なら、悪くはなさそうだ。私は、彼を店員兼用心棒として、雇うことに決めた。


 こうして私の店は滑り出した。


 幸いにして、客は次第に増えてきた。町全体の閉鎖的な気配を察してか、店には山っ気の強い荒くれた旅人たちが多く集い、よそ者同士の気安さで毎夜賑わった。


 そして、雇った用心棒には、目を見張らされることになった。


 実によく働くのだ。眉をひそめた第一印象がまったく嘘のようだった。黒眼鏡とマントを取り、エプロンをつけさせてみると、彼はごく人当たりのいい青年に早変わりし、かいがいしく注文を取ってきた。おまけにそろばんなどは、私よりも得意なほどだった。


 かといって不必要に卑下することもなく、いざこざが起これば、すかさずショットガンを手にしてにらみを利かせ、あっという間に収めてしまう。非の打ち所がなかった。


 はじめはどこかうさんくさく思っていた私も、これほどできる男なら、無気力に満ちたこの町ではかえって嫌われもするのだろうと、なんとなく納得してしまった。


 私は彼を信頼した。信頼をこえて、好意を抱くようになっていた。その好意は、本当は、ただ孤独感を癒したいだけなのだと、内心では気づいていたけれど、だからといって一度おこった顔のほてりが収まるはずもなかった。何より、彼が運んできてくれた、忙しくも安息の日々を、私は噛みしめて味わっていた。


 「ありがとう」


 あるとき私がそう言うと、彼は苦笑した。


 「俺は俺自身のためにやってる。感謝されるいわれはないぜ」


 照れたように言う様子に、私はまたひとつ、心の中に幸福感を転がしたのだった。


 その後も、順調な経営が続いた。これといって事件は起こらなかった。このぶんでいくと、家族がもしすってんてんになって戻ってきても、故郷に戻ってやり直せるくらいの小金は、じきに貯められるだろう。私は、私の賭けに勝ったのだ、そう感じていた。




 開店からひとつき経った。


 その日は珍しく、日が高くなっても、ひとりも客が入ってこなかった。大きな商隊が入ってくるという話だったので、仕入れを多くしておいたのだが、どうしたことだろう、と、新品の酒瓶を棚に収めながら、私は首をひねっていた。


 からん……という扉の鈴の音がした。ようやく来たか、と私が顔を向けると、木の床に革靴の音を響かせながら入ってきたのは、私の雇った用心棒だった。


 「……なんだ、あなたなの」


 「なんだはなかろう」


 「お客だと思ったのよ」


 彼が普段と違う格好をしていたからだ。私と初めて会ったときと同じ、黒眼鏡をかけ、長い汚れたマントを羽織っていた。


 「着替えてよ。その格好でお客を迎える気?」


 「まだ来てないじゃないか」


 「それなのよね……来るはずの商隊が、どうなっているか御存知?」


 「もう着いているが、宿や食事を手配する様子はなかった」


 「自前でキャンプを張るってこと?」


 「知らん。だが……着いた早々、町の連中も巻き込んで、妙な賭けを始めていた。どんな賭けかというとだな」


 私は眉をひそめた。町でいつも味わう不快な雰囲気を、店の中に持ち込まれたくなかった。


 「聞きたくもないわ。あの人たちのしてる賭けの内容なんて」


 が、彼はカウンター席に座り込むと、無視して話を続けた。


 「……まぁ、聞けよ。ある競争で賭けが行われる。形式は、誰が一着で、誰が二着を獲得するかを当てる、いわゆる連勝式(キネラ)だ。ただ、競争をしようという面子が、ひとくせもふたくせもある連中だ。目の大きい男。鼻の大きい男。耳の大きい男。口の大きい男。それから顔の大きい男」


 私は聞いていないふりで店の準備を進めていたが、内容のあまりの奇妙さに思わず反駁してしまった。


 「……何それ? そんな連中で、何を競争するのよ」


 用心棒は、さぁな、と大仰に肩をすくめてみせた。


 「……だが、口の大きい男はやたらに声が大きくてな。そいつの最後の言葉がこうだ。『何しろあすこのおかみは美人だって話だからな。楽しめそうだ』。その意見には俺も大いに同感だが」


 彼はそう言いながら、私の目をじっと見据えていた。その美人とは、どうやら私のことのようだった。


 「……」


 私はあきれるやら照れるやら、ともかく絶句してしまった。気を引くために、馬鹿げた話で私をかつごうとしているのだろうと思った。自分がその賭けとやらに本当に関連があるとは、夢にも思わなかった。……私は、一度幸福が訪れたら、その幸福は二度と去っていかないと勘違いする、愚か者だったのだ。


 だが。


 再び、からん、と鈴の音がして、言葉通りの、招かれざる客の到来を告げた。


 いらっしゃいませ、すら言えなかった。―――次々入ってきた彼らを見て、私は激しい吐き気を催した。


 顔を手で覆い、カウンターの内側に突っ伏した。その姿を直視したことさえ、後悔せずにはおれなかった。入ってきたのは、それほど奇怪で、珍妙で、気味の悪い、化け物としかいえない存在だった。


 最初に入ってきたのは、目の大きい男だった。尋常な大きさではない。釘ほどの太さ長さのあるまつげに囲まれた、りんごのごとき巨大な目玉をかっと見開いて、ぎょろぎょろ私を睨むのだ。顔を近づけるまでもなく瞳孔の動きがわかる。あまりに大きいせいか、その焦点は遠くはずれており、どこかに落ちていく途中のような錯覚があった。


 目の大きい男は言った。


 「ひひひひひ。見える見えるぞ。そんなところに隠れても、おまえのすべてがよく見える。五〇本もある若白髪。乳房の横にナイフ傷。下着の色はピンクだぁ! ひゃひゃひゃひゃひゃ」


 次に入ってきたのは、鼻の大きい男だった。顔全体が、酒に酔ったかのように赤い、脂まみれの鼻だった。しかも垂れ下がるかぎっ鼻で、口とあごは隠れて見えなかった。鼻筋の両脇にある小さな点のようなものは、もしかして目だろうか。鼻の穴からは鼻くそのまとわりついた鼻毛がぼうぼうと顔を出し、ふうふう通る息にふるふる揺れていた。


 鼻の大きい男は言った。


 「ひひひひひ。臭う臭うぞ。そんなところに隠れても、おまえのすべてがよく臭う。今朝のトーストママレード。麝香(じゃこう)のコロンは似合わぬぞ。生理は昨日終わったか?! ひゃひゃひゃひゃひゃ」


 続いて入ってきたのは、耳の大きい男だった。両耳とも顔本体より大きく、まるで造物主が作り損ねた蝶の残骸だ。その蝶は死にかけで、びくびくびくびく脈打って小さく動いている。耳介のうねりが、恐怖を呼び起こすほどの無秩序な歪みであることを、私は初めて知った。


 耳の大きい男は言った。


 「ひひひひひ。聞ける聞けるぞ。そんなところに隠れても、おまえのすべてがよく聞ける。脈拍は分に八五。ほぅら今したまばたき三回。パンツのゴムがきしんでらぁ! ひゃひゃひゃひゃひゃ」


 男たちの淫猥な笑い声を聞くだけで、背筋に怖気が走り、体中から汗が吹き出した。非日常とか違和感とかの言葉では言い表せない、人として拒絶すべき、角度の狂った歪みだった。


 彼らが店に入ってきた、それだけのことだ。だが、私の頭の中で、何が起きたのかわからないという叫び声が渦巻いた。何も、認められなかった。


 「貴様ら、覚悟はできているだろうな」


 用心棒の声がして、私はふっと正気を取り戻した。彼は、外でちらとでも見たからだろうか、私ほどのショックを受けていないようだった。彼の救いの手を期待して、私は、カウンターの内側から少しだけ顔を出して様子をうかがった。


 用心棒は、カウンターごしに私をかばう位置でショットガンを構えて彼らに銃口を向け、ただちに出ていけと顎で示した。


 その前に口の大きな男が立ちはだかり、巨大な口をくわっと開いた。タバコがいちどきに百本入りそうな巨大さだった。そして、本当にそうしているかのようなまんべんなくヤニ色の歯と、口内炎だらけの汚い歯肉があらわになった。その奥の口蓋垂(のどちんこ)は、その俗称通り、本物の陰茎のようにだらしなく垂れ下がっていた。


 そして口の大きい男は、突然笑い始めた。


 「ぼはははははははははぁっ!」


 その笑い声の声量はすさまじかった。店全体が大きく揺らぎ、埃がどっと降ってきた。真正面に立っていた用心棒は、声の塊を叩きつけられた衝撃でカウンターに体を打ちつけ、一声うめいて動かなくなった。


 私は息を飲んだ。私の信頼する、どんなトラブルにも身を張ってくれるかの用心棒が、これほどあっけなく倒されるとは、夢にも思っていなかったのだ。むろん彼を罵る余裕などなかった。このおぞましい怪異どもから、自分の身を守らなければならない。私は恐怖におののき、用心棒の存在に寄り掛かって緩んでいた、自身の危機管理の甘さを呪いながらも、金入れの横の引き出しをがたがた鳴らして開けた。そこには、下の兄がせんべつにくれたリボルバーがある。私は震える手でそれを取り出し、ぎこちなく構えた。


 「出てって! 撃、撃つわよ!」


 だが男たちは怖れる様子もなく、むしろ歓喜と思える表情を見せた。


 目の大きい男はさらに目を大きく見開いて。


 鼻の大きい男はぶぅふぅ鼻を鳴らして。


 耳の大きい男は耳に手を当てて、もっとその臆病な声を聞かせろというように。


 口の大きい男はまた高らかに笑った「ぶひょっほっはっはぁ!」


 さらにもうひとり、顔の大きい男がいた。これまでの男たちの巨大にして不気味な顔のパーツを、アンバランスこそないものの、すべて兼ね持っていた。特にえらの張った顎幅がとてつもなく広かった。あまりに広すぎて、建物の扉から入れないほどだった。だが男は、扉を支える柱に顎骨を押しつけた。めりめりと木の裂ける音がした。この建物を破壊してでも、むりやり入ってこようというのだ!


 何のために? 何のために? 私には何も解らなかった。ただ、彼らは私に迫ってくる。そうして恐怖を叩きつけてくる。


 ついに顔の大きい男が柱をへし折った。梁が傾き、またどっと埃が振ってくる。目の大きい男が見開いた目から滝のように涙を流し、鼻の大きい男は突風のごときくしゃみを始めた。


 顔の大きい男は、柱を折った勢いのままに店内に転がり込んできた。立ち上がりざま首を振って、耳の大きい男と口の大きい男をまとめて顎で薙ぎ払って押しのけると、その巨大な顔を突き出しながら、私のいるカウンターへ迫った。さながら古代のファランクスの進撃だった。だがその盾には、昂揚で真っ赤に染まった顔がついていて、脂汗を撒き散らし、正気とはとうてい思えない奇声を挙げているのだ!


 「ひ……」


 小さく引きつった声しか出なかった。私はほぼ反射的に、圧迫感から逃げたい一心で、リボルバーの引き金を引いた。


 がぉん! 反動で手首が跳ね上がった。ぐきと鈍い痛みがした。慣れない危険物を扱った報いだ。だが顔の大きい男の巨大な顔は、そんな私にでも当てられる的だった。男は脂で汚れた鼻の頭でまともに銃弾を受けた。


 顔の大きい男は、倒れなかった。それどころか、砕けた鼻からだくだくだくと鮮血を流しながら、緩慢な足どりで、さらにのしのしと迫ってくる。ぎろぎろした瞳は憎悪に染まり、緩んだ口からはよだれが垂れ鼻から流れる血と混じってぼちゃぼちゃと床に滴った。対照的に細く短い腕は、虚空をあてどもなく掴んでは離すことを繰り返していた。


 私の意思は凍りついてしまった。二発目なぞ及びもつかなかった。逃れられるわけもなく反射的に後ずさり、後方の酒棚に激しく背を打ちつけた。数本の瓶が倒れ、床に落ちて割れた。


 腹の底からの恐怖と、立ち上る蒸留酒の芳醇な香りが、無意識のうちにすべての神経を刺激した。腕には鳥肌が立ち、顎から汗がしたたり、喉の奥でごぶりと音がして、自分の息でさえ自分のものでなく、どこからか這い出てくるようだった。


 涙がぼろぼろこぼれ落ちた。どうにもならなかった。私は顔を覆い、そしてついに、たまらず悲鳴をあげた。


 「い……いやああああああああああっ!」


 そのとたん。


 わぁっという歓声が、外から屋根の上から、どっとあがった。……あれは文句なしだ! 一着は、顔の大きい男だ!


 人がいた。それも、大勢。見覚えのある、町民たち……壊された扉の向こう側に群れて、薄ら笑いを浮かべて、見ている。扉の向こうだけじゃない、屋根の上、床、この建物のありとあらゆる隙間から、遠慮なしに、悪意と好奇の入り交じった視線を、ざらざらと流し込んでいる。町中の人々が、いま行われている賭け(・・)を、胸躍らせながら見守っているのだ。


 私は、恐怖に固まる心の内側から弾け出すような、激しい昂ぶりを感じた。すべてを察し、涙は即座に止まってしまった。


 辻褄が合った。町全体の奇妙な雰囲気、いたれりつくせりの起業家支援策、親切だった役人、店を順調に営んでこれたことさえも。用心棒の言葉、現れた奇怪な男たち、観衆の存在。私にまつわるすべてが、最初から町挙げての一大イベントのために用意されていたのだ。


 町の援助によって開くことのできたこの店……私が将来を賭けたのではなかった。逆だ。私は賭けの道具にされていたのだ。蜘蛛の網にかかった哀れな獲物、その中でも、ことにめだつ蝶にすぎなかったのだ。


 昨日今日の話じゃない。店を開こうとし、私が役場の扉を開けた瞬間、この陰険で傲慢なギャンブルは始まっていたのだ。税金が安いわけだ、賭けの胴元くらい儲かる商売はないのだから!


 それはきっと、金鉱脈を探す一世一代のバクチを打つ度胸もなく、けれどそんなバクチ打ちの落とす金に媚びて生きる町の人々が、自分たちの小心を棚に上げて、憂さを晴らすために思いついた王様ゲーム。よそものの小娘を、恐怖のどん底に叩き落とし、泣きわめかせた者の、勝ち―――。


 けれど、そうと解ったからには、思い通りにはならない。なってやるもんですか。私は歯を食いしばり、必死に恐怖を振り払った。もう、決して声を出さない。おびえたりしない。怖くて悔しくて涙がこぼれそうだけど、泣くなんてもってのほか。絶対に、これ以上こんな賭けに荷担しない。さっきの用心棒の言葉が正しければ、二着がいなければこの賭けは成立しないはず。


 その私の予想を裏づけるように、一着となった顔の大きい男は、血まみれのまま満面の笑みを浮かべて、一歩退いた。逆にそれ以外の男たちは、体勢を立て直し、再び前進を始めた。


 不気味な顔の羅列から顔を背けながら、私はもう一度銃を構え、撃鉄を起こした。右手に激痛が走り、顔を歪めた。さっきの発砲で、骨にひびが入ったのは確実だった。兄ならともかく、私のきゃしゃな腕にこの銃は、護身というには強力すぎるのだ。だが、もうどうでもよかった。痛みをこらえ、男たちに銃口を向けた。


 彼らは一瞬ためらって止まった。だがすぐに、目の大きい男は目を剥いて、鼻の大きい男は鼻を鳴らして、耳の大きい男は耳をぴくぴく震わせて、口の大きい男はぼはぼは笑いながら、カウンターの中にいる私に向かって、再び迫ってきた。それぞれに二着を狙っているのは明白だった。


 私が意を決して、ともかく狙いを目の大きい男に定め、引き金を引こうとしたそのとき、かの用心棒が、下からその手を軽く押さえた。


 「無理するな。腕が一生使えなくなるぞ」


 目を覚ましていたのだ。おそらく気絶したのはほんの一瞬で、後は気絶したふりをして機をうかがっていたのだろう。


 用心棒はマントを翻して立ち上がり、私の手から銃をもぎ取った。


 ちらと弾倉を確認すると、もうためらわなかった。すかさず銃口を口の大きい男に向けた。今度は用心棒の方が速く、再び何か叫ぼうとした大口の中に、真正面から弾丸が撃ち込まれた。口の大きい男は、割れたザクロのように赤く染まった口をぽっかり開けっぴろげて、真後ろに倒れ息絶えた。


 それからはほんの数秒間、立て続けに銃声が轟いた。用心棒の動きは目が醒めるようだった。目の大きい男が両目とも撃ち抜かれ、鼻の大きい男が鼻の穴をひとつ増やし、耳の大きい男は虫に食われた蝶の標本の失敗作となり、いずれもばたばたと倒れていった。


 顔の大きい男は逃げ出そうとしたが、やはりその顔の大きさゆえ扉のあったところを一度では抜けられず、つっかえてじたばたしていた。


 用心棒は、もう弾がないのか、もはや撃つまでもないと判断したのか、顔の大きな男のぶざまな姿を見やりつつも銃口を下ろすと、カウンターを乗り越えてきて、立ち尽くしていた私の腕を取った。


 「大丈夫か」


 「……えぇ」


 「たいしたことはなさそうだな。添木を当てておけば、じきに直る」


 血の匂いが辺りに充満していたが、平和な声と、腕を撫でる手の温もりに、恐怖に耐える時間の終わりを知った。同時に、用心棒を雇っておいて本当によかった、と心から感謝した。彼は、確かに信頼すべきこの店の守護者だったのだ。


 用心棒の顔をすっと見上げた。彼は、にっ、と微笑んでくれた。私の中で緊張の糸がほぐれて解け、すべての感情が堰を切って流れ出た。矢も楯もたまらず、私は彼の胸の中に飛び込んだ。そして何のためらいもなく体裁もなく、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして、泣いた。


 そのとたん。


 わぁっという歓声が、外から屋根の上から挙がった。私の涙は瞬時に止まった。


 用心棒は再びにっと笑って、外に向けて高らかに宣言した。


 「言ったろゥ、俺が必ず二着を獲るってな!」




 前言撤回。


 賭けでいちばん儲けるのは、胴元ではない―――イカサマ師だ!


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