一章2
薫の南星学院の入学が決まってから二日が過ぎた、その帰り道。気持ちが軽くなったところで冷蔵庫の中身が気になったので、妹の月菜に何か買って帰るものが無いかというメールを送信した。
四十秒後、返信が届いたのでデバイスの液晶を覗き込んだ。早いぞ、妹よ。
「卵と……グリーンピース?」
そのほかにも様々な食材が書かれていた。送られてきたリストは二人で消費できるか怪しい量が書かれている。
「……そんな足りなかったっけ?」
薫は首を傾げた。一週間前に必要な食材は買いためておいたはずなのだが……もうなくなったのか?
まあいいや。帰ってから月菜に確認すれば。もしかしたら今日の献立に必要なのかもしれないし。
そう思い、薫は夕市が始まったスーパーで買い物をすませると帰りを急いだ。
*
八城家前。
薫は学校指定のカバンから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。ドアを開くと少しさび付いた金属のこすれる音がする。
靴を脱いで下駄箱に入れ、暗い廊下を進む。
リビングに入るとキッチンで月菜が夕食の支度をしていた。
月菜は、薫の一個下の妹で、唯一の肉親である。幼い顔立ちで、身長は一四九センチと低め。髪は薄茶で、学校ではツインテールにしている髪を今は下ろして、赤いリボンで軽くまとめている。
現在、訳あって3LDK一戸建てのこの家で二人暮しをしている。
「ただいま」
と、薫は調理している月菜に話しかけた。
「あっ、お帰りお兄ちゃん」
調理しているにもかかわらず、火を止めて僕に近寄ってくる。
「買い物ありがと」
「ああ。別にいいけど、どうしてこんなに買い足したの?」
僕は両手に持っていた買い物袋を少し上げて言う。月菜は買い物袋と薫を交互に見てから、
「うん、そのうち分かるよ」
と意味不明なことを言って、キッチンに戻っていった。
薫は首を傾げたが、そのうちわかるのだろうと一人で納得した。薫との会話に満足したのか、月菜は鼻歌交じりに料理を続行している。
……なんかうれしそうだな。と僕は思いつつ、冷蔵庫に買ったものをしまっていく。すると、リビング手前の廊下から電話が鳴り出した。
「あっ、電話」
「いいよ。僕が出るから、月菜はそのまま料理続けていて」
電話に出ようとした月菜を制して、薫はリビングを出ると廊下にある電話から受話器を手に取る。
「はい、もしもし?」
『えっ?……』
電話越しに女性の驚く声が聞こえた。
いや、電話の向こうで驚かれても反応に困るのですが……って、あれ? この声はもしや――、
『あの薫?』
あっ、やっぱり。
「うん。そうだよ桜花。久しぶりだね」
先日話題に上がった幼馴染からだった。
八城家はもともと西星市に住んでいた。桜花とは家が近所であったことと両親の仕事場が同じであったことから、お互いの家を行き来して遊ぶことが多かった。小学校の卒業を控えた二月、急に引越しを言い渡された。両親はMLという会社に勤めていたのだが、功績が認められて支部長に昇進したんだとか。
その支部が西南市にあり、家族揃って近場へ移動することになった。
桜花と最後に会ったのは二年前の夏休み以来だ。
『久しぶり。……今、東星駅に居てね、薫の家に行きたいんだけど……迎えに来てくれない……かな?』
東星駅は南星市の北東部にある駅で、八城家からは徒歩二十五分ぐらいの場所にある。おかしなことに東星市と南星市の間にあるのだ。地形が関係しているらしく、駅を建造できるほど広く平坦な土地がなかったため南星市と東星市の間に建てようということになり、今に至る。
「へっ? 桜花、今日うちに来るの?」
桜花のワンテンポ遅い言葉を要約するとそういうことらしい。今日来るなんて聞いてないぞ。おい。
『うん。そう』
「歩いては……まだムリか」
『うん、ごめんね』
はあ、とそっと溜息をついた。桜花は重度の人見知りで、知らない人を見ると、無条件で怖がってしまう。家族親戚とともに行動している分には他人がいても大丈夫なのだが、ひとりだとそうもいかないらしい。ほんと、この数年どうやって移動していたのだろうか? 普通に考えれば、家の人に送り迎えしてもらっていたのだろう。あの秘書さんあたりにでも頼めばすぐだろうし。
いやまさか、彼女には最終手段として力を使って飛べばいい。だが、その方法はとても目立つし考えたくない。いや西星市だからいいのか?
「わかったよ。これからそっちに行くから、どこか人の少ない所にいてくれ。僕の携帯番号、分かるよね? 途中で何かあったら連絡して。駅に着いたら、こっちから連絡する」
『うん。ありがと、薫』
受話器越しでも桜花が安堵の息を漏らしているのが分かる。
「じゃ、切るぞ」
『うん』
受話器を本体に置き、リビングに戻る。そして、キッチンにいる月菜を横目で見て、
「月菜。今日、桜花が来ること知ってたな?」
冷ややかな声で問いかけた。
「ギクッ」
露骨な反応を見る限り、図星のようだ。
「……擬音語で答えるなよ」
嘆息と笑みをこぼしながら薫は言う。さっき濁した理由が一言で分かってしまう単純さである。
そこが可愛いところでもあるが、将来が少し心配だ。
「だから、食材が必要になった訳だな。で、月菜。桜花が来ること、いつから知っていたの?」
怒らないから言ってみなさい。と、腰に手を当てて訊く。
「今日。お兄ちゃんが帰ってくる二時間前に叔父さんから電話で」
「じゃあ、桜花がうちの学校を受験したことも?」
「うん。でも詳しい話は娘から聞けって」
月菜が首肯する。
あのふざけ好きな叔父の事だ。急に押しかけさせて驚かそうという魂胆が透けて見える。
年頃のせいか、いつも父親のふざけに冷たい視線を返す娘が珍しく乗り気なのは僕が絡んでいるからに違いない。わざわざ桜花に電車を使わせるくらいなのだから本人が相当意気込んでなければできないことだ。
「成程。それは桜花を連れて来てからだな。とりあえず迎えに行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
薫は制服のまま飛び出した。
*
場所は変わって東星駅前。
薫は約二十五分かかる駅まで、わずか十五分で走り切ったのである。
彼はもともとあまり運動のできるほうではなかったのだが、しかし色々なものを相手にするためにハンパなく体力を消費するため、徐々に身体を鍛えてきたのである。今では、人の倍くらいの体力がある自信を持っていた。
汗を吸ったシャツが肌に張り付いて気持ち悪いが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
駅前のターミナルは夕方の帰宅ラッシュから人で溢れ返っていて、どこに桜花がいるのかまったく見当もつかない。
仕方なく薫はポケットからデバイスを取り出し、桜花のナンバーをコールした。
お決まりの音が流れてから、電話が繋がった。
『……もしもし、薫? 今どこにいるの?』
「いや、それはこっちの台詞だからね?」
よかった。とりあえず無事のようだな。
「今、ターミナル前にいるよ。桜花はどこに?」
『……トイレ』
あっ、そう来たか。確かに安全ではあるのだけど……
「出て来られない?」
さすがに女子トイレまでは入れないし。
『人が多くて出れない』
しょんぼりした口調で返答が来た。やっぱり無理かー。
「ちなみに、どこのトイレ?」
『えっと……駅の隣にあるビルの1F』
あっ、終わった。
駅隣のビルは、女性専用のショッピングセンターで、女子が一緒でないと男子は入れない南星市唯一の男子禁制建築物である。
さて、どうしようか。……最近、悩むことが多いな。
「桜花、もうちょっと待っててくれる? そこまで行くのに、人ごみの中を通らなきゃいけないから」
適当にごまかしておく。
『うん。大丈夫』
「ありがと。じゃあ切るな」
携帯をしまうと、薫は思案する。さてと、今僕に出来ることは、
・月菜をつれてくる
・門番に事情を説明して入れてもらう
・道端の女性に付き添いを頼む
最初のが一番いいと思うけど、今からじゃ、時間かかるしなぁー。やっぱり二番目かな。最後のは変態に思われるだろうから。
そう思ってビルに近づいた時
「あれ? 薫君じゃないの」
僕の背中から声が聞こえてきた。
へ? と思って振り返ると、そこには長瀬副会長が立っていた。