七章5
「ふう。やっと終わった……」
厨房の手伝いに駆り出された桜花は、空が紅く染まり始めたころにようやく開放されたのである。
今、彼女はひとりで自分たちの部屋の階の廊下を歩いていた。
「薫……ひとりにしちゃった」
ここ数日、宿泊客の量が一気に増加したために、桜花だけでなく生徒会女性陣全員が招集されたのである。さらに会長は食材の調達に出てしまい、金西はそれに同行していった。二人はいまだに帰ってきていない。麗はどこに行ったのか分からない。
「ひょっこり帰ってきて、薫の話相手でもしていてくれればなぁ」
桜花は盛大にため息をついた。
せっかく、夢だった薫との契約に成功したのに。さらに家では月ちゃんがいて、なかなか二人きりになる時間が少ないから、会長が気を利かせてくれたことはうれしかった。なのにこれだ。別にお姉さまを責めるつもりはないのだけれど、このもやもやとした気持ちはどこにやればいいのだろう。
「いいわ、戻ったら薫に思いっきり甘えてやるんだから」
などと意気込んでいる間に部屋へと到着。せっせと開錠し中へ入ろうとドアノブに手を掛けたとき、
「えっ?」
彼女の手に嫌な反応が伝わってきたのである。
「薫っ!」
盛大にドアを開け放つ。
「ううっ」
部屋の中は濃い魔力が霧散しており、空気が薄っすらと曇っていた。
仕切り襖が閉まっていても玄関側に漏れているのだから、中はもっと悲惨のはずだ。
恐る恐る襖に手を掛けると一気に引く。
「誰っ!」
右手に攻撃用の魔法陣を即時展開し問い詰めようとしたのだが、そこにいたのは……
「……獏?」
そうなのだ。丁度薫と同じくらいの背丈をした獏が布団で横になっている薫のそばにいたのである。毛色はなぜか銀一色。獏は薫の上に自身と同色の魔法陣を展開していた。明らかに魔獣であることを示していた。たとえ魔獣でないとしても、野生の獏が部屋にいること自体おかしいのだが。
「薫から離れなさい!」
びくうっ! と、声を掛けられるまで桜花の存在を認識していなかったようだ。すると獏はせっせと横たわる薫を飛び越え、窓を体当たりでぶち破ったのである。そして、向かいの壁をジャンプひとつで乗り越えた。この下は中庭になっているが、別に旅館の中央にあるわけではない。庭の向こうは壁で、さらにその向こうは海岸なのである。ここからは見下ろせば木々が堪能でき、視線を正面に向けると境界線が見えるのである。
「逃げるな~!」
桜花はすぐさま攻撃から召喚へ思考を変える。
『我が契約し龍よ、闇よりその姿を現せ!』
窓の外に右手を突き出し、青白い魔法陣を展開した。
『出でよ、ウォレスト!』
いつぞやの火事現場で召喚して以来、彼を出していなかった。もちろん出番が少ないからと言う理由ではない。
足が遅いのか砂浜に戸惑っているのかは分からないが、進行が遅れている。
「ウォレスト、海水を好きなだけ使っていいから、それを捕まえて!」
『くぅん』
主人の命令に頷くように啼くと空中で回転しつつ海へとダイブ。そして上半身を水面から出すと、自身の周りに水球を大量に展開していく。
『きゅいん!』
水面から全身を出し、身を捻り、長い尻尾で浮いている球を打ち出した。
いくつもの剛速球が砂浜を打ちのめしていく。すると、そのひとつが獏を捕らえた。
『グビ?』
獏の身体は水球に捕らわれた。中で必死にもがいているが、水が主成分なのに、球はびくともしなかった。
「連れてきて」
ウォレストは水球を侍らせるようにこちらへと向かってくる。まるで犯人が警察に補導されているような光景だった。
「ふう」
とりあえず、捕まえられたかな。いつの間にか額に浮いていた汗を手の甲で拭い取る。彼らが壁を越え、中庭に差し掛かったとき、それは起きた。
「えっ?」
不意に、獏を捕らえている水球を挟み込むように暗黒の魔法陣が浮んでいるではないか。それは段々と水球を圧縮していく。
「まさかっ!」
そして、
『バァンッッ!!!』
風船が破裂したような爆発音がここ一体に広がった。
ウォレストは上昇することで爆発を回避桜花も防御魔法を展開し、凌いだ。
「……帰還魔法」
召喚師は魔法陣を介することで、魔界から契約している魔獣を一定時間〔魔力量に依存する〕召喚することができる。しかし、用途を終えると召喚師は魔獣を魔界へ帰さなくてはならないルールがある。そのために用いる魔術のひとつが帰還魔法である。これは自主的に魔界へと帰還させるもので、異例としては主人が死んだ場合か、主人の魔力量が生命限界値を超えた場合のみ発動する強制帰還があるが、今回は前者である。
「逃がしちゃった……はっ、薫!」
すぐさま眠っている彼の元へとかけよる。何かにうなされているようだ。全身に汗をかいており、触れてみると高熱を出しているように熱かった。さらに目を引いたのが彼の首から両腕に掛けて何かの文様が浮かんでいるのである。
「なに……これ?」
触ってみるものの、何も反応しなかった。
「とりあえず――誰か呼ばないと」
桜花はここを離れるわけにはいかないので、電話を使い父親と連絡をとった。すると、何の巡り会わせか、父親と同行していた男が医師だと言う。早急に部屋に来てもらうように言うと、今度は買い物に出かけている御川に連絡をいれた。すぐ引き返してくれるようだ。
「一体誰が……何が目的なの」
今の桜花はただ、薫を見つめることしかできなかった。




