姿を変えて
学校からの帰り道。突然、雨が降り出した。
でも、遠くの空は明るかった。
「げ。傘なんて持ってないって」
目の上に手をかざして、頭上の暗く分厚い雲を睨みつけながら太一は唸った。
「たぶん、通り雨だよ。近くで雨宿りしよ?」
雫の提案に、太一は頷く。
「そうだな。――あ、そこのベンチなんていいんじゃないか」
そう言い終わるかしないうちに、我先にと、太一は走っていってしまった。
一人だけ残された形になって、ほんの少し、雫はため息をついた。
小さな公園。あるのは、赤いブランコと青い滑り台。
彼の指したベンチは、それらより少し奥にあった。公園の隅。ちょうどその上にある木々の、青々と濃く茂った葉が雨を凌ぐにはぴったりだった。
雫が小走りで太一に追いつくと、彼はベンチの前でしゃがみこんで何やらブツブツと呟いていた。
「……どうしたの?」
不審に思って訊くと、フフンと太一は得意そうに笑った。
「大丈夫だ。どこも汚れてない。制服でも普通に座れるぞ、雫」
なんだ、そういうことかと、雫は笑った。
「わざわざ気にしてくれたんだ?」
「尻が濡れるのは嫌だろ、誰だって」
ほい、と太一は手持ちのタオルをベンチにかけた。
ギリギリ二人で座れる大きさだった。
「念のため、と。よし。これでOKだな。雨、すぐ止むといいな」
「そうだね」
太一の隣に腰掛けながら、雫は頷いた。
遠くの空を見上げる。
雨は、まるで自分たちを避けるように降っていた。
(なんだか、わたしたちだけ取り残されたみたい……)
たった二人だけの世界。
心細くて、雫は両腕を掻き抱いた。
視界に、誰もいない。ただ、太一が隣にいるだけ。
すぐそばに。肩が触れるほど近くに。
(少しはドキドキしたっていいのに)
こういうシチュエーションはあまりない。少女マンガでいう、すごくおいしいシーン。
(幼なじみで付き合っちゃうのって、現実ではありえないよね)
まず、異性として認識できない。小さい頃から常に一緒にいる仲だから、何でも話すことはできる。
でも、それとこれとは話が違う。
自然と沈黙が降りた。
さっきまで歩きながら喋っていた、他愛のない会話。
なんとなく、それをするのは躊躇われた。
(だって、雰囲気違うんだもん)
微妙に気まずくなっている。たぶんそれは、太一も同じだ。
「雨、止まないな」
「――うん」
ただ、前だけを、空だけを見つめる。
ふーっと、雫は息をついた。
そして、目を閉じる。
(なんだか肌寒いかも)
吐く息が白っぽい。
ぽっかりと広がる青空に、思わず吐息がこぼれた。低い雲は眼下にあって、空にへばりつくような雲は遥か向こうにあって――
地上と山頂では景色が違う。
気が付くと、雫の頭上は青だけだった。
(あれ?)
いつの間にか、周囲は非現実的な風景に様変わりしていた。
綿飴のようなふわりとした白雲の隙間から、山の緑がいくつも見える。
雫のいる場所は、それらよりも高い所にあった。
どこかの山頂。どこかの展望台。初めての場所だ。ここがどこだかわからない。
(わたしってば、いつ、リフトに乗ってここまできたんだろう?)
全然覚えていなかった。
代わりに、というか妙に、今自分はここに立っている、という強い実感だけがあった。
「これって……現実、なんだよね?」
意識ははっきりしている。夢じゃない。それでも夢ではないかと疑ってしまうのは、余りにも心が解放感に満ちていたからだった。
(なんだか、体がふわふわして気持ちいいな)
雫は眠るように目を閉じた。
視界が平らになる。
次に気が付くと、雫は草を食べていた。
青々とした爽やかな草原の中。すぐ隣の雄馬と同じように、しっぽを振って食べていた。
ムシャムシャムシャムシャ。おいしいな。
そう思っていると、隣の彼が思い出したように口を開いた。
「こうしていていいの? 日没までに帰らないと、もう二度と目覚めなくなってしまうよ?」
(帰る? どこに?)
彼の言っていることが、雫にはさっぱりわからなかった。
自分は馬。彼のそばにいることが一番の幸せ。
拒むように首を振ったが、彼は急かすように鼻先で雫の胴を小突いた。
「僕の後についてきて。さあ、こっちだ!」
彼は勢いよく駆け出した。その後を、必死に雫は追う。
走って、走って、走って、走って。
心臓はドクドクと早鐘のように打ち、肺は荒い息のせいで鈍く痛み、脚は鉛のように重くなった。何度か転びそうになったが、雫はそれでも走ることを諦めなかった。速度を全く緩めずに、まっすぐまっすぐ駆けていく。
彼の白い背を懸命に追いかけた。
雫はジリジリと、原因のわからない焦りに胸が焼かれていくのを感じていた。しかし何よりも彼を見失ってしまうほうが怖くて、絶対に離れたくなくて、力の限り走った。
やがて太陽が地平線まで傾き、空は赤々と燃えた。
(あんなに綺麗な青だったのに)
赤は次第に、二頭の馬の前に大きな門を形成した。よく見るとそれは鳥居で、奥にいくつも重なって道を成していた。
その先にはあるのは、赤いブランコ。青い滑り台。
公園だ。でも誰もいない。
「ここを潜って帰るんだよ」
彼はペロペロと雫の顔を舐めた。
まるで最後の別れみたいだった。
堪らなくなって、雫は泣いた。
「一人はイヤ! 一緒に来て! 離れたくない!」
大丈夫、と信じられないくらいのやさしい声音で彼は微笑んだ。
きっとそばにいるから――……
「……おーい、雫」
耳元で呆れた声がした。
薄く目を開けると、太一の白いワイシャツが見えた。
「重いんだけど」
「……重いって言うな」
思いきり太一の肩に体重を預けて眠っていたことに、雫は赤面した。
(そうだ。ブレザーを貸してくれたんだった)
寒いとも何も言わなかったのに、太一は自ら上着を脱いで自分の肩にかけてくれたのだ。
『これ着ろよ』
とても温かくて、ついウトウトと、雫はいつの間にか寝てしまっていた。
(……なんか余計に恥ずかしくなってきた)
雫は自分の反応を誤魔化すように、太一の背中を抓った。
いてててて、と彼が声を上げるのもお構いなしに、ふと目線を前に向けた。
自分を囲む、木々の日陰の向こう。陽光にキラキラと光る地面の近くに、小さな虹を見つけた。
(わたし、帰って来たんだよね?)
まだ少し現実と夢が混同しているのか、胸がドキドキしていた。
それにしても。
ぷぷっと、雫は苦笑した。
(「僕」だって。白馬の王子様か、つーの)
秘めた想いに気づいてしまったことへの、戸惑いと恥ずかしさ。
そして、ちょっぴりの安堵感。
夢の涙に、雫の目は少しばかり潤んでいた。
でもそこに映る虹の輝きは、はっきりと恋の色だった。
「――太一ね、馬になって夢に出てきたよ」
「は? 俺が馬? 何だそれ?」
幼なじみでその気ナシと見ていた男は、おかしそうに笑った。
雫は、太一に気づかれないように、そっとブレザーの前を引き合わせた。
助けてくれてありがとね。
その言葉は、心の中で呟くことにした。
読んでいただきありがとうございます!
本当は最初、雨宿りのシーンなんてなかったんですよ(笑)
でも「いきなり夢の話から入って、最後に虹ってどうなの?」って思ってしまって……。
急な展開でしたが、まあ、夢ってこんなものですよね(開き直り)